食べ物と信頼と整体

食べ物と信頼と整体
私たち動物は、食べることで命を支
え、育んでいます。
食べ物で身体は、出来ています。
そうした意味では粗末な食べ物では
粗末な身体しかできません。
しかし、どんな粗末なものでも心をこ
めて出されたものは美味しく感じ、ま
た栄養となって私たちを育みます。
私たちは何よりも生き物であり、命の
交流によって生きています。
ですから次の世界を担う子どもたち
には、できるだけ質の良い食べ物を
心をこめて与える必要があります。
高価な物、贅沢な物である必要はあ
りません。
今その子が必要としている物が一番
良い物であり、また美味しく感じます。
子どもに食べ物の選択をさせる人が
いますが、それは子どもの自主性を
重んじているようで、親の責任の放棄
でもあります。
子どもが何が好きかはその子の個性
によるのでしっかりと見極める必要が
ありますが、何を食べさせるかは親
が責任を持って選択し、子どもたち
の個性を伸ばすように導いていくも
のです。
何も自分ではできない状態で産まれ
てきた私たち人間は、親や周囲の
助けなしには成長することができま
せん。
しかし大事に育てられることで人間
を信頼し、生きることを肯定できるよ
うになります。
泣くことで要求を伝えますが、それ
が充たされないと満足することを知
らずに育ち、いつも与えられる基準
を探して、充たされないまま次から
次へと要求を続けます。
終いには自分が何を求めているか
も分からず、要求だけを続けます。
子ども特に幼児の時に充たされるこ
とを知らないと自分が何を求めて生
きるかを見つけるのが極めて難しく
なります。
しかし完璧に育てられた人などこの
世にはいません。
どんなに親が注意して育てようと、何
らかの傷を心に負い、充たされない
ものを持って私たちは大人になりま
す。
それを取り戻すのは難しい作業です
が、不可能なことではありません。
人間はそのできるかどうか分からない
とても難しい作業、運命とも言えます
が、それを克服するために産まれて
きたとも言えます。
芸術や仕事、恋愛など様々な道が
あります。
しかしこの失われた時間を取り戻す
一番確実な方法は子どもを育てるこ
とです。
子どもを育て、その痛みに触れること
で自分の中の傷みを見つめなおし、
共に育つことができます。
野口整体に出会い、これらのことを
学び、できることをやってきましたが、
今まで人に話したり伝えたりはしませ
んでした。
そうは思っても本当にそうなのかは
確信がありませんでした。
子どもたち4人が成人して自分の道
を歩み、孫の7人もそれなりに順調に
育っているのが感じられ、自身も70
才になってやっと伝えてもいいのか
なと思えるようになりました。
親がどんなに注意深く育てようと子ど
もたちには必ず危機が訪れます。
健康の問題だけでなく、人との軋轢
や社会の闇に巻き込まれます。
その時にそこから帰ってこられるか、
心を休める場所が見つけられるかは
人間への信頼を持ち続けられるかど
うかにかかっています。
これ以上言ったらヤバいと感じ、一線
を超えるか超えないかの選択は一生
続きます。
その選択の基準となるのは知性では
なく、身体です。
頭、知識、数字、決まり事、画面の世
界は常に相対的で移ろいます。
私たちの身体の奥から発する声は自
身のもので替えがありません。
その声を聴く習慣を失ってしまった
私たちは、身体と対話する訓練が
必要です。
食べることは何よりも自分の要求に
添っています。
けれど自身にある心の傷を埋めるた
めの要求は常に傷みの支えを必要
とします。
自身や他人を傷つけることでしか要
求を果たせなくなります。
刺激的な味付けや、他の物とは違う
ものを得ることでの自己満足から抜
けださないと自身の深い要求に向き
あうことができません。
しかし私たちには本能がまだ生きて
います。
本当に美味しいものと出会えば、花
開くものを宿しています。
そうした意味で、美味しいものを食
べることは身体だけでなく、心も、精
神も、魂も育みます。
美味しいは何より、これは自分に必要
だと肯定する感覚です。
また整体の活元運動という自由運動
は、内なる要求を解き放ちます。
自身の要求に向き合うのは、開放感
だけではなく、辛い事実に向き合うこ
ともあります。
しかしそれも含めて、私たちは自分
の人生を歩むしかありません。
活元運動はその大きな助けとなります。

関連記事

ページ上部へ戻る