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- 晴屋の青い扉 その67~69 空
晴屋の青い扉 その67
空
私の仕事の後の楽しみは、川沿い
の遊歩道を自転車で帰ることだ。
夜も更けて人通りもまばらな道を、
滑るように走り抜ける。
川のせせらぎの音、うっそうとした
大木の影、渡る風がほほをすぎる。
疲れて固まった感受性が流動し、
月明かりや街灯に照らされ、昼と
はまったく別の世界に見える風景
は心の扉を押しひろげ、遠い世界
を巡りだす。
今吹いている風は、どこから来た
のだろうか。
川と緑を渡り湿り気をおびた心地
良い風も、砂漠を通り熱く焼かれ
た時もあっただろうか。
アジアの屋台の香りを運んだ時も
あり、戦禍を渡って多くの悲惨を
見たのかもしれない。
この風は太古からとどまることなく
吹いている。
人の世や世界のいつまでも変わら
ないこと、常に変わり続け一定で
はないことを思い出させる。
私の最近のテーマは「人間が生き
るに値する価値というものはある
か」というものだ。
自分の人生を迷っているわけでは
ない。
これしかやりようがないと思ってい
るし、やりなおそうなどとは考える
こともできない。
疲れてはいるが、唯一無二でとり
かえることはできない。
しかし次の世代、若い人ひとたち
やこれからの社会を思うとき、晴屋
という仕事も含めて、どういうもの
がありえるのか気になってしまう。
老婆心?であるかもしれないし、余
計なお節介でもあるだろう。
しかし今の世を生きる人間として、
伝え守るべき責任というものはあ
ると思う。
まず「価値」という言葉の意味を調
べてみた。
「人にとってよいもの」と書いてあ
る。
最初から価値というものがあるの
ではなく、他と比べて上位に位置
づけられる物や性質を価値とよん
でいる。
つまり「人間が生きるに値する価
値はあるか」という疑問自体が矛
盾している。
生きているのに、生きる実感や充
実感を持てない、自分が自分らし
く生きていない状態を認めていな
がら、あり得ない答えをもとめてい
ることになる。
知識と現実のギャップを埋めるこ
とができないのだ。
私たちは常に新しい知を吸収する
ことを求められている。
そうしなければ世の流れ、社会の
システムから締め出されると教え
られている。
テレビや雑誌からは毎日目新しい
情報が流される。
自ら体験し、獲得したものでない
知識が私たちの内にあふれ、新た
な欲が生み出される。
常に更新しないと落ち着かなくな
る欲は、依存性をともない私たち
を支配する。
そうして現実よりも、画面を信じる
人たちが多く出現する。
パソコンやスマホ、ゲームに対す
る依存は中毒ともいえるだろう。
体験による痛みや快をよりどころ
に身に付けたものでない知識は
暴走し、自分自身を見失い、歪ん
だ世界を増幅する。
信念でなく死に場所を求めてイス
ラム国に参加しようとする若者が
現れ、危険を知りながら脱法ドラッ
グにひと時の快を求め、虚無に身
を落とす者たちもいる。
そしてテレビやインターネットを遮
断して、自らの世界を再構築しよ
うと模索する人たちもいる。
知ることで力を持ち、同時に多くの
影響を受ける。
今日も地球は廻り、風は常に流れ、
すべてを巻き込みながら過ぎてい
く。
心地よい風に吹かれながら、雑多
な豊穣と無力な自分を見つめざる
をえない。
「いっさいは空である」といった仏
陀の言葉が胸にそよぐ。
苦しい状況の中にも密かな快を
みつけ、生きる希望を持ち続ける
ことができるだろうか。
晴屋の青い扉 その68
空2
「空」は「そら」であり、「から」あるい
は、「くう」とも読む。
空っぽであって、空気くらいしか
ないけれど、なんとなく実体のな
いものがあるのが「空」なのだろう。
虚無という言葉からイメージする
すべてを飲み込んでしまうような
暗黒の穴とは明らかに違う。
仏教では「空」はとても大切な概念
だという。
命も、物も、万物は縁起といわれ
る関係性の中に存在し、単独では
ありえない。
そして日々、瞬間瞬間移り変わっ
て固定することがない。
そうした永遠不滅の実体のない、
あるようで無いようなつかみ所の
ない様を「空」という言葉で表現
している。
仏教は、生きる意味を追求する
ためにうまれた。
すべての「苦」から逃れるために、
あらゆる執着から離れる必要があ
り、この世にあるものは網の目の
ように複雑に関わりあっていなが
ら、いつも変化してとらえることが
できないことを悟ることを求められ
る。
こうした態度は西洋では虚無主義
(ニヒリズム)の一種と理解されてい
る。
けれど私たち日本人には、一切の
価値を無としてすべてを否定し、
虚無の淵に身を落として自身の
世界に閉じこもるか、反対に自分
の好き勝手に世界を変えてもよい
という極端な立場とはまったく異な
るものと感じられる。
「意識」によってすべては理解で
きるという理知的な立場の西洋と、
意識では本質は理解できないと
いう東洋的な立場では、同じよう
に見えることがまったく反対の意
味を持つこともある。
けれど現代では物質的な世界で
も、文化の状況でも圧倒的に西洋
の方が力を持っている。
明晰な分かりやすさや、物量の威
力によって、微妙なもの、うつろい
やすいものは踏み潰されてしまう。
それでも日本には古くからある自
然と一体となって調和して生きる
感覚が色濃く残されている。
これほど文明化し、物質的に豊か
な社会で、他人を思いやり、信頼
する感覚が残っているのは奇跡的
なことに違いない。
どうしても指摘しておきたいのだけ
れど、震災でも暴動が起きなかっ
たこうした調和を重んじる私たちの
暮らしは、政治によってもたらされ
保証されたものではないということ
だ。
民衆の暮らしに根付いた習慣や
人とのつながりがそれを支えてき
た。
為政者たちはそれを利用し、「守
る」という言葉の裏で、権力をむさ
ぼり、大きな利益を得てきた。
これを日本の伝統というのなら、
それこそすべては虚無の淵に沈
むしかないだろう。
消耗する仕事に疲れ、目先の快
楽に時間と富を奪われ、閉塞する
社会に息をつめて暮らすしかない
私たちが正気を保って暮らしてい
るのは本当に奇跡的なことだ。
この後に予想される社会の変化や
世界情勢の変動、そしてますます
大きくなる自然災害が、いつ起き
て私たちを脅かすか分からない。
現代の「空」は無常などという奥ゆ
かしいレベルでなく圧倒的な脅威
として私たちに迫る。
私たちにできるのは、できるだけ
生命として日々充実して生きて、
自分や周囲がいざという時への力
を養うことしかないだろう。
自らや子どもたちの生命力と運命
を信じ、変化を受け入れていく。
そうした柔軟性やある種のしたた
かさだけが私たちの武器だ。
知性や認識による力は言葉に頼
る分、言葉の限界を超えることが
できない。
言葉はいつも一面的で、複層的
な真実や現実を捉えることができ
ない。
何事も明確に言葉や責任、数字
におきかえないとすまないこの現
代社会で、言葉にならない感覚を
維持するのはとても難しいことだ。
しかしこれが出来なければ、人間
として本当に生きていることには
ならない。
その感覚の基礎になる大きなもの
のひとつに「美味しい」という感性
があるのは間違いがない。
人によって必要な物が違い、美味
しいと思うものも、その感じ方も違
う。
それを疎かにしたところに生命の
充実はありえない。
高価であったり、贅沢である必要
はないけれど、食べて悦びを感じ
るもの。
その感覚をつなげ、広げていけば
世界は自分のためにある、自分は
世界の一部だと感じることができる。
満足を知れば、必要な物はそう多
くはないと知ることもできる。
「空」の感覚が見せてくれるものは、
むしろ現代にこそ意味があるかも
しれない。
晴屋の青い扉 その69
空3
「色を失う」という感覚がある。
今までと同じものが目の前にある
のに、何かが違うと感じてしまう。
存在感が希薄で、手応えがなく
こちらの感覚に入ってこない。
それはもちろんその対象が変わっ
たのではない。
感じる私たちの感性がどうしてか
変わってしまったのだ。
ありのままに受け入れられずに、
フィルターを通して見ているような、
現実ではなくテレビを見ているよ
うな感じで、親しい人が亡くなって
しまった時など、そういうことがある
のはよく目にする。
ショックのあまり周囲とのつながり
がとぎれてしまい、世界との関係
が薄れてしまう。
もちろん意識してそうなるのでは
ない。
動かし難い事実としてそういう状
態がやってくる。
人間は大きく二つのタイプに分類
することができて、感性が先に変
わって身体が後から付いてくるタ
イプと、身体が変わってから感性
が変わり始めるタイプがある。
私は前者で、それもかなり反応が
早い方だ。
この前の震災の半年ほど前から
モーツァルトをまったく受け付けな
くなり、ベートーベンばかりを聴く
ようになった。
あれほど好きだったモーツァルト
の音楽がどうでもよく、むしろうっ
とおしい感じがする。
あまりの美しさに胸をときめかせ、
涙さえ流した音楽が「色」を失って
しまったのだ。
もう前のようにはモーツァルトを楽
しめない堅苦しい人間になってし
まったのかなあと思っていた。
けれど最近になって、昔のときめ
きが突然に帰ってきた。
胸が熱くなり、理由も、正しさもな
く、ただひたすら美しい。
あるがままで、それ以上でも、それ
以下でもなく、ただそれだけで充
分なのだ。
異性に対する興味をほとんど失い
色気のない暮らしをしている私だ
けれど、違う「色」がよみがえった。
「色即是空」という熟語がある。
この場合の「色」というのは原文の
サンスクリット語の「見えるもの」と
いう意味の言葉を訳したものだと
いう。
見えるもの、現実にあるものはす
べて「空」であり、変化しうつろう。
この世への執着が「苦」をまねくの
だから、執着を捨てなければ悟り
の境地には至れない。
その宇宙の摂理をわきまえ、宇宙
のひとつであることを知りなさいと
いう意味だ。
言われればそうかもしれないなあ
とは思うが、この世に縛られて生き
る私たちにはかなり難しい。
これにはさらに続きがある。
「空即是色」だ。
こちらはもう少し複雑で、宇宙には
さまざまな形相があり豊穣で、雑多
だ。
その多様性を知り、「空」の無常で
あること一切の価値は無意味であ
ることを味わいつくしなさいという
教えだ。
出会ったものにきちんと向き合い
ながら、それに流されず本質を
見つめ続けることを求められる。
宇宙はひとつであって、同時に多
様であることを感じるためには、共
通性と個別性という矛盾するもの
を両立させなければならない。
西洋的合理主義では解決はかな
り厳しいが、私たち日本人には比
較的分かりやすい。
態度の「曖昧さ」を指摘されること
が多い私たちだが、その感性の
元には「空」の感覚が横たわって
いる。
それを厳しく吟味し、鍛えなけれ
ば本当に分かったとはいえなくとも、
近しいものとして受け入れやすい
土壌はもっている。
「空」を音楽で表現しているのが
バッハだろう。
そこには峻厳と愉悦という相反す
るものが同時に実現されている。
宇宙の運行そのものを思わせる、
静謐で輝かしい瞬間がある。
「色」を代表するのはモーツァルト
で、刹那的な快感と上品な哀愁
というこの世にある悦びの異なる
傾向を両立している。
こうした相反する要素、矛盾した
あり方を、ひとつのこと、同じことの
別の見方として納得するには、頭
の硬い私にとって長い訓練と経験
が必要だった。
その大きな契機になったのが、震
災以降の時間の厳しい経過だ。
自然の脅威、科学の傲慢と不備、
放射能への恐怖、安全性と人との
つながりの間での葛藤、それでも
懸命に生きるひたむきさへの感動
と感謝、利権やエゴへの嫌悪。
これらは多くの人たちと共通する
感覚だけれど、個人的にもドレス
デンでの自己の内面の確認、直
後の年末の多忙の後の晴屋の改
装工事での体力と気力の極限へ
の挑戦、そして肉親の逝去などが
小さな存在の私に押し寄せた。
限界を意識しながら、出来るだけ平
静に日常を過ごす営々とした日々。
努力という言葉には共感できない
けれど、音楽で同調したのはやは
りベートーベンの「意思」の世界だ
った。
男の純朴と精神の洗練を兼ね備
えたベートーベンは、自分を鍛え
鼓舞するにはふさわしい。
これはもちろん私だけの感覚では
ないだろう。
芸術ばかりでなく、人との出会い
や自然との交わりが私たちを守り、
育てる。
生きるということは、ただ安穏とした
日々を過ごすことではない。
やれること、やるべきことをやりつ
くし、懸命になりながら、しかも心
を静かに保って、内面を見つめる。
「色」としての現実や相手を切実に
感じながら、心に「空」を保ちうつ
ろうものとして捉われずにあり続け
る。
こうしたことがいつでも達成できる
わけではないが、少なくともその
意味は理解できるようになった。
音楽との出会いや、身体の根元
から発せられる美味しいという感
覚は、私たち自身のものであり、
存在を肯定する悦びに充ちたも
のだ。
感覚はうつろうものであっても、今
この瞬間はそれがすべてであり、
他の何にもかえることができない。
その刹那に身をまかす感覚が、
私をふたたびモーツァルトに導い
た。
晴屋で扱う野菜や食べ物、そして
気まぐれに提供する音楽の話題、
相当に怪しいオーディオの話た
ちが、少しでも多くの人の自分や
世界との出会いに役立ってくれる
ことを望んでやまない。