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季節の音楽とからだ その1
5月の光と影 フォーレ
5月の木々を渡る風は新緑をきら
めかせ、緑の風と形容したくなり
ます。
光あふれるこの季節、青い空に
白い雲も表情を添え戸外にいる
のが心地よい時もあります。
けれど暑く汗ばむ時があるかと思
うと、冷たい風にさらされることも
あります。
冬と夏がせめぎあい、光と影、熱と
冷、陽と陰が交錯します。
野菜も端境期。
身体を温める滋養たっぷりの冬
の野菜と、身体を冷やし鎮める夏
の野菜が入れ替わります。
何をたべていいかよくわからない
この季節には、食べ物だけでなく
私たちの身体の中でも葛藤があ
ります。
理屈にすると面白くなくなってし
まうのですが、空が青いのは空気
が青い光だけを吸収せず反射す
るためです。
そのため紫外線は四方八方から
やってきます。
そして新緑は赤だけを吸収しあと
は反射するので、余計に紫外線
が強くなります。
私たちもまだ強い日差しになれて
いません。
そのためこの季節は意外なほど
眼が疲れやすくなります。
眼の疲れは迷走神経を緊張させ、
全身の疲れとして感じます。
また乾燥やほこり、花粉などのた
め気管に負担がかかり咳がでや
すくなります。
呼吸器は迷走神経とも関連して
いるので、頭の緊張も抜けにくく
なります。
呼吸器が疲れていると酸素の吸
収が悪くなり、何事もめんどくさく
なり、睡眠をとっても疲れが抜けま
せん。
そのため余計に疲れが蓄積して
悪循環におちいります。
気分が暗くなり、頭も働かず、何
事にも不精になった状態、それが
五月病とか、欝とかいわれている
ものです。
外で楽しみたくなる気候と内なる
沈んだ気分のギャップがこの季節
の特徴といえるでしょう。
まだ冬に溜めこんだ老廃物の処
理も完全には終わっていないこの
時期、肝臓や腎臓のケアをして
冬の疲れをとると同時に、夏へ
向かい代謝を上げ雑菌などへの
免疫力を高めていかなければな
らない、とても微妙で難しい季節
です。
沈みがちになる気分と、内にもた
げる荒々しさのどちらにも加担せ
ず、静かに遠い目をして季節の
うつろいを楽しむのが、この季節
の大人の過ごし方でしょう。
こんな時にぴったりなのがフラン
スの作曲家、ガブリエル・フォーレ
の音楽です。
オペラが書けなければ一流では
ないと言われていた19世紀末に、
室内楽を中心に、奥ゆかしい静か
な音楽を作り続けました。
上品で、繊細で、淡い表情なの
ですが、決して軽薄やその場一
瞬のなぐさみではなく、人間の深
い心の営みをとらえています。
代表作は「レクィエム」でしょうか。
父の死を悼んで作られたこの曲
には、通常ある「怒りの日」が入っ
ていません。
教会が要求する死への恐れをと
れいれず、むしろ死を安息の場
として肯定する視点がふくまれて
います。
静謐で、内に秘めた美しさはなに
ものにも換えられません。
素朴で純粋なコルボ、深く濃密な
ジュリーニ、洗練と純粋が結晶し
たガーディナーが私のおすすめ
です。
室内楽は多くの演奏がありますが
どれにもいいところがあり、どれが
いいというよりただフォーレを聴き
たくなったときに楽しめます。
どちらかというとマイナーで、聴く人
が少なく、多くの支持は集めない
フォーレを一生懸命演奏するとい
うだけで好感を感じてしまいます。
ただ年代での音楽の傾向の違い
は多くありますので、代表作のひ
とつのピアノ四重奏でちょっと追っ
てみましょう。
一番古い演奏はマルグリット・ロン
やティボーたちが演奏したもので、
フォーレと同時代を生きた人の
空気感を持っています。
共感が強く、微熱に浮かされたよ
うな渦が、今日とは違ったものが
あの時代にはあったと伝えます。
40年代のSPからの復刻です。
後はフランスのレーベルの雄、
エラートの全集によるもので、そ
れぞれ5枚組みで3000円位で
手に入ります。
70年前後のドワイアンたちの演奏
には濃密な感情表現があり、演劇
的な感じがします。
80年前後のユボーたちの演奏は
内的感情と表現のバランスがとれ
静かな視線を感じます。
2010年前後のカプソン兄弟たち
の演奏は、演奏技術も一流、音質
も素晴らしいのですが、映画音楽
を聴いているような少しクールな
感じがします。
もしフォーレの曲からひとつしか
選べないとしたら私は「エレジー」
をとります。
それもジャクリーヌ・デュプレと
いう女性のチェリストによるもの
です。
24歳の若さで、生きる喜びと哀愁
をすべて表現してしまっているよ
うです。
どうしようもないほどの天才で美
貌ですべてをかねそなえていた
ジャクリーヌでしたが、腕の故障
などもあり後半生は必ずしも幸せ
とはいえませんでした。
天才は音で人生を語れるのだな
と、思い知らされます。
すべてを燃やし尽くし、聴く私た
ちの胸まで焦がすような演奏です。
季節の音楽とからだ その2
水の季節の憂い
梅雨は、梅の雨なのですね。
しとしとと降る間に、いつの間にか
梅の実が大きくなります。
乾燥した春の後、少しならしっとり
と心地よい雨ですが、長く続くとじ
っとりと心も身体も重くなります。
食べ物も痛みやすく、あちこちが
かびてきます。
私たちの身体にも水分がたまり、
むくんだ感じになります。
水の循環が悪く、腎臓に負担が
かかります。
汗がでていれば、老廃物は皮膚
からも出せて、腎臓もそれほど働
かなくてもいいのですが、皮膚か
ら蒸発する水分が少ないため、
腎臓はフル稼働です。
腎臓は疲労を表現する内臓で、
直接疲れとして感じます。
そのため、なんとなく物憂く、だる
く、何事にも億劫になります。
ちなみに肝臓が疲れると私たち
は、感情の毒を排出できずに、い
らいらし切れやすくなります。
また湿気が多いために、肺からの
酸素の吸収の効率も悪くなり、よ
けいにものぐさになります。
体調の維持には水分の循環を計
ることが一番で、なるべく汗をかく
努力をします。
代謝をあげるために辛いものも
役にたちますし、生姜やミョウガ
といった薬味もとても有効で美味
しく感じます。
縄文水のような吸収のよい水もお
すすめですし、お風呂にも長くつ
かって、なるべく汗をかき、その後
休むととても腎臓の疲労のケアに
有効です。
熱いお茶もとてもいいですね。
こんな季節にぴったりの音楽は
まずブラームスの「間奏曲]です。
晩年のブラームスの傑作群のひ
とつのピアノ曲です。
しっとりと内省的で、静かに見つ
める視線と永遠の美への憧れを
感じます。
グレン・グールドというピアニストは
バッハの演奏で有名ですが、私は
こちらのほうを評価します。
ロマンチックで、柔らかく、生まれ
たてのように無垢で、胸が熱くな
ります。
これと不思議なほどに似ている、
まるで双子のように感じるジャズの
アルバムがあります。
キース・ジャレットがソロでやって
いる「Melody At Night With You」
というもので、難病から回復した
喜びと切ない過去の痛みが、や
さしく、純粋な音に宿ります。
この二つは美味しい紅茶を楽しん
でいるような感じです。
温泉に入っているような、もう少し
物憂い気分にひたるのにぴったり
なのが、フランクとブラームスの
バイオリン・ソナタです。
フランクの方がより叙情的で昼間
に風景を見ながらの温泉の感じ、
ブラームスは内に秘めた情熱が
強く深夜の少し高めの温度の入
浴でしょうか。
何れもデュメイというフランスのバ
イオリニストと、ピリスというポルト
ガル出身のピアニストによるもの
がおすすめです。
白昼夢のような、少し熱をおびた
ような独特の香気があり、日常か
ら離れた別の世界を垣間見させ
てくれます。
生姜や薬味に匹敵するのは、ショ
パンでしょうか。
ショパンは情熱的だけれど少し
軽いように思われがちですが、
実はとても上品で奥ゆかしささえ
持った音楽です。
しかしそういう風に演奏する人は
少なく、大半のものは私には受け
つけられません。
ガンガンとヒステリックに弾きまくる
ものには嫌悪感を感じ、長い間
自分をショパン音痴(ショパンを理
解できない人間)と思っていまし
た。
歳をとった今はこちらの方が正解
なのだと思えるようになりました。
おすすめはタマーシュ・ヴァーシ
ャリィという東欧出身のピアニスト
によるものです。
熱い思いと静かな視線、秘めた
情熱とあふれるやさしさが見事に
バランスしています。
むくんだ心と身体をやさしく、強く
ゆり動かし、他人にも自分にもや
さしくしたいと思うようになります。
季節の音楽とからだ その3
安らぎのブルックナー
アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団
ブルックナーというと、やたらと長
くて、重たくて、退屈というイメージ
があります。
敬虔なカトリックの信者で、オルガ
ンの演奏にも長けていたので、そ
の響きは、神への賛美が重層的
な厚い音でつづられています。
神への奉仕や宗教感情を柔らか
な響きで演奏するのが伝統的な
演奏でしたが、近年再評価されて
新しい潮流として、切味のある見
通しの良い音とダイナミックで大き
な音量で、圧倒的で巨大な表現
をしているものが増えてきました。
温かくゆるやかな信仰告白から、
近代的な自我に訴える永遠と純
粋を感じさせるものに表現の方向
が変ってきています。
ブルックナーの音楽にはそうした、
没我的な調和と永遠を掴み獲ろう
とする自我意識という相反するも
のが同居しています。
バッハの峻厳と愉悦、モーッアル
トの哀愁と喜び、ベートーベンの
素朴と洗練などのように、多くの
人に支持されている音楽は相反
する要素が調和しています。
そうした意味でブルックナーの作
品も天才が生んだ傑作であるとい
えます。
今回ご紹介するのは、アバドがル
ッツェルン祝祭管弦楽団を指揮し
た第9交響曲です。
ブルックナーの最後の作品であ
り、アバドの最後のコンサートの記
録でもあります。
アバドのブルックナーは今までの
流れからは少し違う位置にあるよ
うに感じます。
9番の演奏の定評のあるものでは、
ヴァントは織り成す音が綾となり
いつしか永遠とつながっているよ
うでした。
チェリビダッケは、ペルシャ絨毯
のような極彩色の音を延々と紡ぎ、
美とは何かを訴えます。
ジュリーニは、圧倒的な表現力に
情緒をからませて祈りを感じさせ
ます。
アバドのこれまでの演奏はそうし
た音楽に思想や主張をこめるの
を拒み、今生きる悦びを感じさせ
るものでした。
彼岸的でなく、極めて現世的で
そうした意味でとても個性的なも
のと感じでいましたが、もうひとつ
もの足りなさもありました。
今回の演奏会の様子が伝わって
きていますが、明らかに衰え、とて
も辛そうだったといいます。
けれど音楽からは弛緩や滞りは
まったく感じられません。
そしてダイナミックな音色や心の
行き届いた表現が続くのに、ど
こにも作為や力みが感じられま
せん。
この作品をよりよく演奏しようとか、
人によく分かってもらおうという
おこがましさやお節介もありません。
ただ淡々と作品に向き合い、それ
が自然に音となって現れ、それが
ひたすら美しいのです。
第3楽章の全宇宙の星がいっせい
にきらめくような瞬間で、他の指
揮者はそこに全エネルギーを集
中して感動を誘うのに、アバドは
ひそやかに愛おしく音をつむぎ
ます。
それがまた、いっそう感動的なの
です。
私がブルックナーを聴くのは主に
秋で、迷走神経がぴりぴりとして
いる時に、毒をもって毒を制すと
いう感じで使っています。
けれどここには毒はありません。
ふつうは一曲聴くとぐったりと疲れ
てしまうブルックナーなのですが、
これは何度でも続けて聴け、その
度に新しい発見と心に沁みる歌
を感じます。
癒しという言葉には手垢がつき、
感覚のごまかしのようなニュアンス
を感じるので、安らぎという言葉に
託します。
季節や天候の疲れだけでなく、
世の中の様々なこと、老いや死
といった現実など、のりこすことが
困難なことが多くあり、真っ向から
突き当たることも目をそらすことも
できませんが、そうした時の心の
支えとして、芸術ができることの
最高のことのひとつがここにある
と感じます。
CDのケースの内側の写真にステ
ージを歩み去るアバドの後姿がと
らえられています。
痩せ、衰えてはいても、それでも
この音楽を奏でたという事実が私
たちの胸に迫ります。
美味しいものだけではいたたまれ
ないと感じることがあった時、お試
しください。
季節の音楽とからだ その4
アーノンクールの後期交響曲集
不調和のモーツァルト
アーノンクールいわく、「モーツァ
ルトは断じて癒しの音楽などでは
ない」。
長身痩身で、頭頂部がうすく、眼
はギョロッと鋭く相手を睨みつける。
ウィーンの貴族の家系なのだそう
ですが、指揮者、チェロ奏者とし
てのアーノンクールの音楽はノー
ブルというよりは、アグレッシッブ
で野生的といってもいい力に充ち
ています。
評論家からは毛嫌いされ、ベーム
という当時の重鎮の指揮者は、彼
の音楽を聴いて激怒したそうです。
しかし攻撃的で激しいばかりでは
ありません。
ゆるやかな楽章ではゆったりとた
ゆとうような音楽を紡ぎます。
これは他のオーケストラに客演し
た時よりも、手兵のウィーン・コン
ツェルトムジクスを指揮したものの
方に顕著にあらわれます。
以前のコンサートマスターは奥さ
んのアリス・アーノンクールでした。
味のあるヴァイオリンを弾く人で、
人を大らかに包み込むような鷹揚
さと伸びやかさの中になんとも言
えない滋味があります。
ヘンデル合奏協奏曲などの超名
演は、この奥さんの内助の功があ
ると私はひそかに思っていました。
このCDのモーッアルトの後期交
響曲はアーノンクールにとって3
度目の録音になりますが、コンツ
ェルトムジクスとは初めてです。
以前のものは知が先走っていて、
一般的な評価は高かったものの、
個人的には馴染めませんでした。
今回はまったく違います。
表現の幅が広く常にダイナミズム
に溢れているのに、どこにも無駄
や余分がなく、必然的なものに
感じられます。
モーツァルトなのにティンパニー
は炸裂し、金管楽器も鳴り響きま
す。
そしてその間に、すべやかで心を
愛撫するようなやさしく味のある
音がすべりこんできます。
以前はこのふたつの表現が交互
に波状的にやってきました。
50年もの歳月を経たアーノンクー
ルの音楽はもっと熟成し、その間
にいくつもの段階を持つことで、
より表現の幅と奥行きを感じさせ
るものになっています。
ゆったりした流れの中に次の力を
ためたり、激しい表情の中に憂い
をひめたりしています。
高齢の今は、さすがにコンサート
マスターではありませんが、メンバ
ー表の中にアリスの名を見つける
とうれしくなってしまいます。
ライバルともいえるブリュッヘンや
アバドも同じような構成のアルバ
ムを出しています。
ブリュッヘンは低音部のしっかりし
た安定感と生き生きした高音部の
表情を両立した調和と音の完成
度の高い音楽を作りました。
アバドは調和の中に個人の創意
と即興の要素をとりこみ絶妙のニ
ュアンスを音楽に持ち込みました。
常に切実なものを求めるアーノン
クールは、不調和の中の調和とい
う独自の世界を完成させています。
「第39番ホ長調」では破壊と愉悦
が交互に押し寄せ存在の根源を
揺さぶられるようです。
「第40番ト短調」では哀愁と感情
の咆哮が波のようにせめぎあい、
鷲づかみにされ世界を飛翔して
いるようです。
「41番ハ長調」はアポロ的な力強
さが示されています。
ゆとりあるテンポに気迫に充ちた
瞬間が壮麗な伽藍を思わせます。
アーノンクールはこのアルバムを
「器楽による聖譚曲Instrumental
Oratorium」と名づけています。
冥界と地上と天とをすべてこめよ
うとしているようです。
私はモーツァルトの音楽の魅力
は、刹那的な快楽と上品な哀愁
という対照的なものの両立した人
間性を極めたものと思っています。
アーノンクールはそれでは飽き足
らず、永遠を求める意思や天への
祈りをこの音楽にこめました。
ある意味、モーツァルトを超えた
ものでしょう。
それには破綻を恐れない覇気と、
不調和からいつでも戻れる強い
自律が求められます。
これほど個性的で面白く、強く迫
るモーツァルトを私は知りません。
百戦錬磨で高齢のアーノンクール
にとってもこの録音は、存在をか
けた闘いであったでしょう。
冒頭の「モーツァルトは断じて癒
しの音楽などではない」という言葉
の重みを感じます。
夏の疲れが肝臓にたまり、迷走神
経も緊張し、天候も不順でイライラ
としやすいこの季節に、音楽によ
るカタルシスで自分を取り戻すの
にとても有効なものと思います。
季節の音楽とからだ その5
ヴァーシャリィのショパン
感傷と虚無のバラード
ショパンの音楽ほど誤解を受けや
すいものはないでしょう。
大仰で、ヒステリックで、喧しいショ
パンの音が巷にあふれます。
私は若いときにはショパンが苦手
で、聴くと居心地の悪さを感じ、
嫌悪感を持つことも多くあり、自身
を「ショパン音痴」、ショパンを分か
らない人間と認識していました。
それでも絶妙なニュアンスをピア
ノにこめるペルルミュテや、滋味
があるアラウなどの演奏には心引
かれ、親しんでいました。
後年、人生の経験を積んでくるう
ちにショパンのある種の「響き」が
達成されているかどうかがその嗜
好の分かれ目なのだと気付き始
めました。
ピアノのアタックを連ねて声高に
感情をむき出しにしたり、反対に
メカニックに音の威力をみせつけ
る演奏に違和感を感じます。
瞬間のアタックを抑えてその後の
響きから漂うようなふくよかな香気
を感じるものを好むのです。
今回紹介するタマーシュ・ヴァー
シャリィというピアニストにもその
色あいが強くあります。
同じ東欧の出身で、故郷を離れ
て暮らすという共通のものもある
のかもしれません。
なんともいえない哀愁を帯びた歌
の中に、しっかりと心を捉える芯の
強さがあります。
ショパンと同時代の作曲家で文筆
家としても有名だったシューマン
は「花の中に大砲を隠した音楽」
という喩えを残しています。
ロマンチックで、近代的な感性を
持つショパンですが本人はロマン
派とは思わず、バッハやモーツァ
ルトに連なる作曲家と思っていま
した。
ベートーベンの後半生に同時に
生きていたショパンが近代的自我
意識と新しい音楽の感性を持って
いたのは本当に驚異的なことです。
そして、モーツァルトにも備わっ
ている気品やニュアンスがあって
こそ本来のショパンです。
しかしもちろんそれだけでなく、
政治に翻弄される故郷の有様、
自らの病や死などを冷徹に見切
る厳しい視線もあります。
若い頃のショパンは快活で物真似
や似顔絵が上手く鋭い観察力と
音楽だけでなく文章での表現力
にも優れたものがあったようです。
感傷とニヒリズムという相容れない
要素が対立し、あるいは共に支え
て他の誰にも紡げない世界を作
ったのがショパンです。
ですから見え透いた激情で安っ
ぽい絶望を歌ったり、ただ甘い感
傷で表面的な感覚の喜びですま
す音楽に怒りさえ感じるのです。
自分をショパン音痴と思っていた
私ですが、意外に好きなのかもし
れないと思うようになっています。
このCDたちはその認識を確実に
深めてくれました。
BGMには決して適さない、柔らか
いけれど、とても切実な音楽です。
私を含めて近親者が亡くなったと
いう話を多く聞く今年ですし、世界
や地球が軋んで声をあげている
ようにも感じます。
こんな時こそ音楽の力で自分を
リセットする時間が必要です。
このCDにはそうした要求に耐え
る力があります。
傑作のバラード全曲の他、夜想曲
とワルツの全曲も入って3枚組み
で、ショパンの世界をたっぷりじ
っくり楽しむことができます。
(このCDはHMVで3500円ほどで
手に入れることができます)
季節の音楽とからだ その6
ミルシュテインのメンチャイ
戸惑いの季節の光
2月というのに窓の外には光があ
ふれ、植物や動物たちの内にも
命の炎をともしているようです。
冬の間、縮こまっていた私たちに
も蠢き、殻を破って何かをなしとげ
たい意欲が湧いてきます。
けれどあてのない要求は出口や
目的も定まらず、骨盤や肩甲骨
などが不安定で気持が悪く、身体
の自立性を失って、妙に眠かった
り、不必要に食欲が湧いたりしま
す。
寒さへの対処も必要なのに、熱い
季節に向かい代謝を上げて雑菌
などに負けない身体を作っていく、
矛盾をかかえながら綱渡りをして
いくような季節です。
こうした変動は人によりさまざまで
すが、5月くらいまで続き、とても
気持がよく好きだという人がいる
半面、木の芽時の変化や欝、五
月病といわれる状態になる人もい
ます。
いずれにしろこの季節の特有の
状態と割り切って、変化を積極的
には追いかけず、心を静かに保
ち、うつろいを楽しむくらいのゆと
りが欲しいものです。
今回ご紹介する音楽はそんな内
面の嵐をかかえながらも、明確な
行動も起こせず、自分を見失いが
ちな時に、感覚のリセットに役立
ちそうなものです。
メンチャイとは有名なメンデルスゾ
ーンとチャイコフスキーのバイオリ
ン協奏曲2曲の略称で、この組み
合わせのアルバムは星の数ほど
でています。
ナタン・ミルシュテインというバイオ
リニストは決して派手な演奏をす
る人ではなかったため、日本では
あまり知られていませんでした。
よく貴族的という表現をされる、
媚びをうらないきりっと締まった音
で、それがどんな難しい旋律でも
宙を糸が舞うように、線が繋がっ
て軽々と美しい曲線と表情を見せ
ます。
神業とまでいわれる技術を持ちな
がらそれを際立たせず、音楽はい
つも自然で、上品です。
また感傷に訴え、情動で人を惹き
つけようともしないため、押し付け
がましさもありません。
ある意味、孤高で、崇高ですらあ
ります。
その近づきがたい感じが、実力の
割には人気の高くない理由かもし
れません。
けれどひとたびその誠実で謙虚
でしかも音楽性の豊かな表現に
親しむとたまらない魅力を発揮し
ます。
今回お奨めするアルバムは彼の
代表作とも言われるもので、かな
り高齢になってからの録音です。
音質もよく、より円熟した演奏が
たのしめます。
お馴染みのアバドが指揮をし、ウ
ィーンフィルから美しく豊かな表
情を導いているのも名演に強く貢
献しています。
2曲とも聴いていると胸が熱くなり、
心と身体を鎮め、新たな一歩への
意欲を引き出してくれます。
特にチャイコフスキーの第2楽章
がこれほど美しく弾かれたのは聴
いたことがなく、心を充たしてくれ
ました。
春の身体の変動がしっくりせず、
寒さも辛く、眠くて頭がはっきりせ
ず、何を食べたらいいのかもよく
分からず、自分を見失いがちな
この時期に、私たちを照らすひと
つの光となって、感性を羽ばたか
せながらももう一度足元を見据え
る、そんな音楽や芸術が持つ力
がこのアルバムにはあると思いま
す。
ミルシュテインが私のオーディオ
の師であった故江川三郎氏と顔
だちが似ているのも、私にとって
は胸に迫るものが多い理由かも
しれません。
真摯で、潔癖で、男らしく、思いを
残さず日々を生ききる姿勢が何より
私たちに伝わるのだろうと思います。
季節の音楽とからだ その7
イダン・ライヒェル・プロジェクト
美しく、切なく、ほろ苦く
クラシックやジャズをとりあげること
が多いこのコーナーでは珍しく、
現代のポピュラー音楽です。
世の流れから離れたところに身を
置くことを好む私ですが、だからと
いって多くの人が支持するものを
拒んでいるわけではありません。
KISSとももクロのコラボのメイキング
映像を見て感動したり、孫が毎日
欠かさず聴いているというテーラ
ー・スイフトもセンスも頭もいいなと
感心したりしています。
特にアンテナを広く張っているつ
もりはないのですが、心を開いて
いれば必要なものには必ず出会
えると信じています。
そんな中、最近ポゴレリチと共に
飽きずに頻繁に聴いているのが
イダン・ライヒェル・プロジェクトの
音楽です。
友人の吉良さんが教えてくれた
イスラエルの音楽で、一度触れた
だけですっかり夢中になってしま
いました。
芸術的な短編映画が次々に展開
していくようで、知らない風景や
雰囲気に心奪われます。
新鮮でありながら、何故か懐かし
く、胸に迫るものがあります。
プロジェクトの名の通り、イダン・
ライヒェルという若い作曲家で、鍵
盤楽器の奏者で、ボーカリストで
もある人が、プロデュースもかねて
様々な国の人たちとセッションを
して作ったアルバムです。
みな音楽本来の美しさを求めて
母国語で歌っているので、英語の
曲はひとつもありません。
タイトルにAzini(Comfort Me)、
Siyaishaya Ingoma(Sing Our
Love)などと書いてあるものからの
イメージが広がります。
イスラエルの一般的な音楽の状況
がどういうものなのか私はまったく
知らないのですが、次々に繰り広
げられる音楽にはアラブやアフリカ
のエコーが感じられます。
叙情的で美しく、私たちの感傷や
郷愁に訴えるものがあります。
しかしそれだけなら、どこにでもあ
るヒーリング・ミュージックです。
この音楽はそれを超えて私たちに
迫るものがあります。
「良い音楽に国境はない 私たち
はまだ共に楽しみ、つながること
ができる」
決して声高に平和を叫ぶことはあ
りませんが、それだけに静かに心
に沁みて、私たちの深い部分を
揺り動かします。
私が普通には使うことのない言葉
ですが、魂をゆさぶる音楽です。
これがあまりに美しい故、そして
私たちは彼の地のイスラエルや
中東、アフリカでの悲惨な現状を
知る故、切なさはよりまします。
イダンはイスラエルのユダヤ人で
あるのですが、一般的にユダヤ人
と言われている人たちは東欧から
来たアシュケナージという改宗し
た白人たちです。
古代からの本来のユダヤ人は、
アジア系でギリシャ人や日本人に
近い容姿です。
イダンは自称は東欧がルーツと言
っているのですが、見かけはどうみ
てもアジア系です。
そんなことも私たちに親しい感覚を
呼び起こす一因かもしれません。
日本の五月は光があふれ、風も
心地よいのですが、目が疲れた
り、呼吸器もくたびれて気分が
落ち込みやすくなります。
一見平和ではあっても社会の不
公正や軋轢、迫り来る戦争の足
音などさまざまな物が私たちを脅
かします。
そんな時、自分を律し、原点に立
ち返り、またこの地で自分なりの
課題に取り組む意欲を導いてくれ
る作品です。
美しく、切なく、ほろ苦く、この季節
の私たちの要求にぴったりです。
イダン・ライヒェル・プロジェクトの
名で3枚のアルバムがリリースされ
ていますが、これは最初のもので
す。
後の作品になるに従い、音楽的純
度は上がっていき、洗練の度を増
していくのですが、ビビットな生活
感は薄れていきます。
芸術と生活の関わりあいという立場
からも興味深く、難しい問題でもあ
りますが、私は一枚目を支持します。
季節の音楽とからだ その8
セルの水上の音楽
束の間の開放と永遠の命
うっとおしい梅雨時は、身体も心も
湿気で重たくなります。
腎臓や呼吸器の疲労はピークに
なり、何事にも億劫で面倒くさく、
眠くだるい日々が続きます。
けれど時折やってくる梅雨の晴間
や梅雨明け何日かの開放感は、
何にもかえられないような浮き立
つ喜びがあって、束の間ではあっ
ても生きる充実感を謳歌できます。
また重苦しい日常に戻るとしても、
この瞬間を楽しまなければ、生き
ている甲斐はありません。
辛さと悦びを重ねながら、命は永
遠につながっていきます。
水上の音楽は、ヘンデルの個性
をもっとも感じられる代表作です。
力強く吹き抜ける音は天をゆく馬
のようなたくましさと爽快感があり
ます。
また叙情的なところでは、心を包
むベールでやさしく誘い、固まっ
た強張りを解き放ってくれます。
実はこの作品を作った時の逸話
が残っています。
ドイツのハノーファ選帝候に雇わ
れていたヘンデルは帰国命令を
無視してイギリスに滞在していま
したが、王が急死しそこにやって
きたのがジョージⅠ世となった先
の雇い主でした。
そこで機嫌をとりなすため、船遊
びのための音楽を作り、和解をし
たというものです。
かなり切羽詰まった状況を打開す
るための起死回生のための作曲
ですが、そんなプレッシャーをは
ねのけてヘンデルは、傑作を
作ってしまったわけです。
苦労の跡をみせずに、音楽にひ
たる悦びを提供するヘンデルは
まったくの天才だと認めざるをえ
ません。
おすすめする演奏はジョージ・セ
ルという指揮者がロンドン交響楽
団を指揮したものです。
セルという人は戦後アメリカに帰
化しましたが、ヨーロッパの伝統を
色濃く受け継ぎながら、アメリカの
近代的な明晰な音を両立したす
ぐれた演奏を多く残しています。
私がもっとも信頼する指揮者で、
人気ではカラヤンが上でしたが、
カラヤンがセルの前では小さくな
って頭が上がらなかったほどの実
力で、プロ中のプロといえる人で
す。
練習の厳しさも有名で、ウィーン
フィルをはじめどの楽団の奏者に
もけむたがられていましたが、セ
ルが指揮した後には確実に実力
が上がるため、オーケストラビルダ
ーとして求められていました。
決して自分を一番と誇る人ではあ
りませんでしたが、自信は相当あ
ったようで、その地の本場の音楽
をあえてとりあげるようなところも
ありました。
このアルバムもヘンデルの本拠
ともいえるロンドンで、これならど
うだという素晴らしい演奏をして
います。
現代ではヘンデルは古楽器とい
うその当時の楽器で演奏するの
が主体で、私もそれを支持します
が、ここではそんな原則論など吹
き飛ばす、豪快で、清清しく、なに
にもかえられない哀愁にあふれた
音楽を展開します。
人の世の猥雑や葛藤、自然との
軋轢など一切を軽く乗り越え、こ
れぞ音楽の悦びという時をつむぎ
ます。
特に最後に入っている有名な「ラ
ルゴ」は、気品にあふれ、きりりと
した姿勢を保ちながら、あふれる
愛おしさが私たちに永遠の美しさ
を感じさせてくれます。
日々のくらしを楽しくしてくれるの
も音楽の力ですが、非日常の愉し
みもまた音楽の悦びです。
季節の音楽とからだ その9
モーツァルトピアノ四重奏
高嶺に咲く花
芸術にはいろいろな楽しみがあり
ます。
日常を忘れ、美しい理想の世界に
ひたることもできます。
人の生きる意味を問い、新たな世
界を切り拓くこともできます。
接する人を楽しませることと、自分
を深く追求するという、相反するも
のが両立した、あり得ないものが
芸術だと言うこともできます。
求める人が何を見るか、作る人が
何を極めようとするかにより、無限
の局面と出会いがあることでしょう。
今回ご紹介するモーツァルトのピ
アノ四重奏は、彼の作品の中で
は目立たないものかもしれません。
ウィーンに住み、ピアニストとして
も作曲家としても広く知られ、ピア
ノ協奏曲の20番から24番、オペラ
の「フィガロの結婚」などの傑作を
あふれ出る泉のように作曲してい
た時期です。
もともとはアマチュア用の楽譜とし
て作曲されましたが、あまりに高度
な内容で、その時期には出版され
ませんでした。
ピアノとヴァイオリンとビオラとチェ
ロの四つの音が緊密に絡み合い、
どこにも隙がありません。
すべての瞬間が満ちたりています。
暗く衝動的な情緒や、しっとりと心
をとかすメロディー、伸びやかで
感覚を開放したリズムなど、様々
な感情がうつろい、私たちを音楽
の楽しさに誘います。
エンターテイメントの要素と、芸術
家の自己実現という芸術の二つ
の側面が高いレベルで達成され
ています。
けれどあまりの完成度の高さが、
人を容易には近づけないのかもし
れません。
高い山の頂にひっそりと咲く花の
ように、美しく、孤高で、純粋です。
それだけに演奏も難しいのかもし
れません。
私たちに迫るものを持っている演
奏が本当に少ないのです。
その中でおすすめなのは、と言う
より私にこの曲の素晴らしさを教え
てくれたのは、ワルター・クリーン
というピアニストとアマデウス四重
奏団のメンバーによるものです。
アマデウスはモーツァルトのミドル
ネームで、彼の名を冠した最もオ
ーソドックスな解釈で知られてい
ます。
演奏の技術よりも味わいを感じさ
せます。
柔らかく、ゆったりと、滋味あふれ
る演奏が特徴で、このアルバムも
そうした流れの中で世にでたもの
です。
けれど半面少し音程を下げて、雰
囲気を演出するような傾向があり、
好き嫌いが分かれるところです。
クリーンはウィーンで学び、数々の
コンクールに優勝しました。
ソリストとしてだけでなく、伴奏者
としても活躍しました。
けれど一般的にはそう人気は出
ずに、ミュージシャンズ・ミュージ
シャンとして、プロの仲間内での
評価が高かったようです。
ウィーンの伝統をしっかり受け継
いでしっとりと柔らかな音楽を奏で
ているようでありながら、そこにリア
ルで鋭く冷たいものをすべり込ま
せます。
それが、伴奏した時など、本人が
持っている以上のものを引き出し
たりすることがあります。
けれどその完成度の高さの故、
どこにも隙がなく、音楽に娯楽を
求める人たちにとっては少し息
苦しいものとなります。
そんなことは本人が一番わかって
いるでしょう。
それでもある種の凛とした姿勢を
崩さない誇りの高さが、芸術の持
つ厳しさを私たちに伝えます。
それは当然、共演のアマデウスの
メンバーにも伝染し、普段の彼ら
からは想像できないキリッと引き締
まった音楽を生み出しました。
胸が震えるような音楽の感興と、
何かありえないものを掴まえよう
とする緊張感、そしてそれにうち
こむ演奏者たちの悦びが私たち
にも伝わります。
厳しい状況の中の方が、芸術とし
て価値の高いものが生まれること
は多々あります。
年末の忙しさだけでなく、来年も
きっといろいろな厳しいことが私
たちに訪れるでしょう。
孤独な闘いを強いられる中での
大きな助けに、この音楽はなるで
しょう。
季節の音楽とからだ その10
モントゥーのシベリウス第2交響曲
妖精のささやき、トロルの雄たけび
私が持つシベリウスのイメージは、
どちらかというと重く、固いものが
あります。
氷河に削られた北欧の急峻な山
や、青い空と藍色の海、そしてそ
こに暮らすバイキングなどがあい
なす、硬質で混じりけのない結晶
のような感覚です。
昔の音楽室には必ずかかってい
た、スキンヘッドで眼光鋭いシベ
リウスの写真もそのイメージを強
いものにしています。
強く、固く、鋭い巨大な斧のような
ものが月の光に照らされ、冷たい
空気を切り裂きながら進んでいく。
その速度は早いのだけれど、スロ
ーモーションのようにゆっくりと見
えます。
ゆるぎなく進み、急ぐことも、後戻
りすることもありません。
人間の惑いをのせない超自然的
な力を感じさせる演奏が印象に
残っています。
けれどモントゥーのシベリウスは、
まったく違います。
柔らかく息づき、人の営みのぬく
もりを感じます。
鳥の声や森のざわめきだけでな
く、妖精のささやきやトロルの雄た
けびすら聴こえます。
1959年の録音でだいぶ昔のもの
なので、この演奏があったため、
以降のものは違う表現を模索せ
ざるをえなかったのかとさえ思い
ます。
とは言っても発売当時のこの演奏
は正当には判断されていなかっ
たようです。
ザハリッヒ(即物的)という評価が
あり、音は美しいけれど表面的
で、心の動きをとらえていないと
感じていた評論家が多くいました。
私の好きなジョージ・セルという指
揮者も同じようにザハリッヒの権化
のように言われていました。
時代より先の感性を持つ人たち
が受けざるをえない洗礼のような
ものでしょう。
こんなファンタジーに富み、細や
かでありながらダイナミックでもあ
る演奏が形だけを追ったものと扱
われていた時代があったのです。
いまだに美意識や男のヒロイズム
を強く感じる演奏は多く、また映
画の一こまのような作られたあざ
とい美しさを追ったものもあります。
けれどここにあるのは変わらない
人と自然とひそかな神秘の営み
です。
森の散歩のわくわくする一歩から
はじまり、雲間の光のうつろいや
月に踊る影などの心をときめかせ
る大きな風景や崇高な自然の美
と一体になる高揚がやってきます。
けっして情景を音でなぞったよう
な表現ではありませんが、良質の
音楽がもつ想像力を喚起する力
で、見知らぬ風景に出会っている
ような感動があります。
新鮮でありながら懐かしいような
心の奥深くをゆり動かす感覚です。
哀しいときも、楽しいときも、疲れ
たときも、元気なときも楽しめると
ても稀有な音楽です。
人の存在を超えたところまで語れ
るモントゥーや音楽の力は本当に
すごいものだと改めて感じさせて
くれます。