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作る楽しさ耕す人たち1~5「作り手」 マヨネーズの松田さん りんごの小平さん ロアンの岸さん プチフールのロミさん
- 2019/10/5
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小平さん
作る楽しさ耕す人たち
その1 マヨネーズの松田さん
究極のマヨネーズが育む自給自足の夢
本庄は昔から、美味しい野菜の産地と
して知られている。
私たちにも馴染み深い生産者が多い。
三之助の茂木豆腐店、TFソースの高橋、
醤油のヤマキなどは特に有名だ。
関越自動車道を降り、市内を抜けて、
次第に坂道になり、秩父連峰に向かっ
て山深くなってきたあたりに、マヨネーズ
の松田さんの工場と畑がある。
本庄から、この神泉村に上がってくると、
杉林を望む道の左右にいくつもある庭
石屋が目に付く。
一個数万円の値札が付いた石がごろ
ごろしている。
バブルの頃なら10倍以上しただろうけ
れど、いくら安くなったとは言っても、自
然からただ採ってきたものに違いない。
埋め尽くされた杉林と掘り出された石。
大きな自然と人間の不自然な営みが
同居している。
広々として、美しい山と河に囲まれたこ
の場所でも、全てのものが誰かの所有
物であり、値段が付いている。
八百屋になってからかえって素直に
自然を楽しめなくなってしまった。
こんなひねくれた私と違い、松田さん
は前向きで陽性だ。
何かを思いつくとやらなければ気がす
まずに、笑いながら思いを押し通す。
数年ぶりに行ったマヨネーズ工場は変
りなかったけれど、すぐ横に古い土蔵
を移築して作った、センスのいいレスト
ランが出来ていた。
前庭や横一面には自家製の野菜が植
わり、食材のほとんど全てがここで賄わ
れる。
2階はギャラリーになって木工の製品と
デッサン展が開かれていた。
私と枝豆の収穫の手伝いにかりだされ
た元晴屋のメンバーで生産者でもある
千葉ちゃん(千葉悟朗)は、一階の少し
暗く静かな空間をそそくさとくぐり抜け、
川沿いのテラスに座って、早速ビール
を飲み始める。
松田さんも加わるともう同窓会のようで
難しい話は何も無く、同年代の私たち
はただ昔話やどうでもいい話で楽しく
時間が過ぎる。
場を楽しく、充実したものにするのは、
人の力なのだなと、改めて思わされる。
でも、なぜこの場所なのだろうか?
この土地に来てから10年たった。
それ以前は新座のと畑中いう所の民家
と雑木林と製本工場に囲まれた狭くほ
こりっぽい所に工場があった。
そこはかつての晴屋の引き売りのトラック
の倉庫でもあった。
私が場所を借りるとき、「昼間は使わな
いんだからマヨネーズ工場をやりたい」
と、当時大泉学園で「ななくさ」という自
然食品店をやっていた松田さんに頼ま
れた。
松田さんは遠野の出身で、私は盛岡と
いうこともあり、歳もあまり変わりなく親しく
お付き合いさせていただいていた。
仕事の現場が近く、ほとんど同時にJAC
という仕入れセンターに係わったので、
当時はよく話したり酒を飲んだりしてい
た。
千葉ちゃんもその頃からの付き合いに
なる。
でも当時はみんなで「マヨネース゛なん
て止めたほうがいい」と口を揃えて言っ
ていた。
その頃の自然食品業界には「太田の
マヨネーズ」という有精卵は使っている
けれど、後は市販と同じというものしか
無かったが、松田さんが考えている究極
の素材だけを使ったマヨネーズが売り物
になるとは思えなかった。
それはどうも私たちの先見の明の無さ
を認めざるをえないけれど、マヨネーズ
にこだわる理由が、放浪していた貧乏
時代にパンにマヨネーズを付けて食べ
るのが好きだったからと言っていたのは、
いまだによく分からない。
「本当はマヨネーズに思い入れはあんまり
ないんだよ。ただ前に生産者がいい卵
作ってあんまり売れないと言っていた時
じゃあ、マヨネーズでも作ろうかと始めて
みたら、最初はあんまり美味しくなかっ
たのに、みんなが頑張って売ってくれ
たから、それが励みになっているって、
聞かれた時には言ってるんだけど。」
製造に失敗したマヨネーズを雑木林に
穴を掘って捨てに行く後姿を今でも思
い出す。
確かに売りはしたが、あまり励ました覚
はないのだけれど。
それにしても自給自足へのこだわりは
どこから来たのだろう。
「それは生産者になってからだね。作る
立場になって、お金を出せばいい物が
買えるだけでいいのかと思うようになっ
た。」
いい物を作り続けることを追求していく
うちに、人間の社会とのかかわりにつき
当たってしまった。
それは、少し前に話題になった農水省
とのマヨネーズの表示のかかわりでも同
じだ。
つまらない事でエネルギーをロスしてい
るようで、実はそれが宣伝になって売り
上げか伸びたという。
マヨネーズのラベルは、当時お客さん
だった平野レミさんがご主人の和田誠
さんに頼んでノーギャラで作ってもらっ
たものだ。
普通なら何百万円かかる。
そんな運の強さも何か当然のこととして
感じさせるものがある。
天性の伸びやかさと率直さだ。
そして、そのエネルギーを最も集注させ
ているのが、多分、工場の横に作った
レストラン「ななくさの庭」だろう。
自給自足を目指して作った小麦や野菜
をふんだんに使った自然食レストラン。
石釜でパンやピザを焼き、味噌や醤油
も手作りしている。
ビール好きの松田さんが、畑仕事を終
えた後、テラスでビールを片手にくつ
ろぐ姿が目に浮かぶ。
いくつかの畑には名前が付いている。
「じゅんこ」「リンダ」「あかね」などどうも
若い女の子を思い出させる物が多い。
それがどうも評判が悪いので、一番最
近に借りた畑には「タレス」という哲学
者の名前をつけてしまったというのも、
いかにも松田さんらしい。
今回、晴屋にやってきて大評判だった
枝豆は「じゅんこ」で作られた。
「採りに来て欲しい」と、電話があった時
には、正直言ってちょっとめんどくさいな
と思ったけれど、やはり行ってみて良か
った。
作るエネルギーの大切さに、新たに触
れたような気がする。
お客さんたちも、枝豆の持つエネルギー、
その強く部屋中に立ち込める香りや、
味の濃さ、甘さに驚いていた。
こういう驚きは、喜びと楽しみにあふれ
ている。
大束の枝豆を運ぶのに、最初の一回は
私が取りに行き、後は宅急便で採れた
てを直送してもらった。
大きな箱に15束位しか入らず、運賃が
2000円近く。
ほとんど利益はないだろう。
それでも作り続け、多くの人に届けよう
と思うのは、この特別な枝豆への熱い
思いに支えられている。
普通の大豆とひたし豆といわれる青大
豆が自然交配して出来た品種で、土地
が痩せていても美味しい豆になり、長い
時間、味が落ちにくい。
この土地に合った、この土地で生まれた
物を守り、育てていこうとしている。
もう少ししたら今度は、大豆になった状
態のこの豆を売ってみようかと松田さん
と話している。
永年のビール生活で出た腹と蓄えて
白くなりかかった髭は立派なおじさん
だが、心の中にはいつも少年がいるよ
うだ。
その少年は自給自足の夢をみている。
5万人位の町でリサイクルのシステムが
出来上がり、何も無駄になることなく一
つの完結した社会になっている。
時間はゆっくり流れ、やりがいのある労
働と満ち足りた休息がある。
「でも、みんなが自給自足したら、マヨネ
ーズなんて、誰も買わなくなっちゃうん
じゃない? 誰でも作れるんだから。」と
意地悪な質問をしてみた。
「いつでもマヨネーズ作るの辞めるって
言ってるんだよ。執着はしてないよ。そ
れよりみんなが自給自足する方がい
い。」
少し意識した強い言葉が返ってきた。
多分本気なのだろう。
でも、朝早くから毎日毎日マヨネーズを
作っている人が本当にやめられるのだ
ろうか?
私にはやはりマヨネーズを愛していて、ず
っと拘わっていたいように見える。
でも、みんなが自給自足するなんてい
うことはあり得ないから、心配はまずい
らないだろう。
これ以上の品質のマヨネーズは今の所
考えつかない。
これからも、本物の味を守り育て続けて
欲しい。
久しぶりに一緒に酒を少し飲み、一緒
に畑仕事をして、相変らずの所と蓄積
して新しい課題に向かっているのを感
じ、とても充実した時間が過ごせた。
疲れたけれど、また来年の枝豆も楽し
みだ。
(この文章は2003年に晴屋通信に掲載
したものを加筆訂正しました。その後松
田さんはもう一つの夢であった手打ち蕎
麦屋も開店させましたが、現在は事情に
よりレストランともども閉店になりました。
松田さんは、2017年に逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りするとともに、
生前の足跡として、この文章を手向け
ます。)
作る楽しさ耕す人たち
その2 りんごの小平さん
裸電球の下のりんごのような緊張
「せっかちな園主の作るりんごが美味
くなったためしがないとサブタイトルに
書いといてよ。色が付くと本能的に採り
たくなっちゃうんだけれど、それを理性
でカバーできるかということなんだよね。
年数は関係ない。大学でて2年位ぶら
ぶらしてからりんごでも作ろうかなって
思って、親父の作り方見ててだめだな
って思った。それで園芸試験場に行っ
た。これでも一応は勉強したんだよ。
高校出たばかりの連中と一緒になって
研修生をやったお陰で基礎を積むこと
ができた。学ぶ方法が分かって、何とか
やっていけるかなと思った。」
草を徹底的に刈って堆肥として使うの
は、そこで教わったんですか?
「これは、そうではないね。昔っからやっ
ている人もいるけど、農協の指導は除
草剤使って堆肥はしっかり入れて味は
よくしましょうというのだからね。それで
は腐植は増えない。(だから本当には
土はよくならない。)でも、草が伸びてか
らでないと倒すのがもったいない。大き
くなり過ぎると邪魔だけどね。」
雑草が伸びてからではないともったい
なくて刈れないという感覚は他の人か
らは聞いたことがない。
春から夏の暑い盛りまで、黙々と草を
倒す小平さんの姿の後ろには、これが
着実に実になるという確信がある。
園を歩きまわり、じっとりんごを見つめ、
成熟の時を待つ。
そんな時は、豊かな実りへの期待と天
候の異変などへの不安で様々なものが
去来しながらも、何回やってもドキドキと
胸をときめかすのだろうか。
見た目には赤く熟しても、味がのってい
るとは限らない。
風で落ちたり、霜の害にあう心配もある
けれど、最良の時をじっと待つ。
その感覚を小平さんは、理性という言葉
で言った。
何度か訪ねたことがある小平さんの部屋
は、本に囲まれている。
蔵書という言葉が似つかわしいセンス
のいい本が棚にきちんと並んでいる。
美術関係の本も多い。
しばらく前からそこには、小学生になっ
た双子の女の子たちが書いた絵が加わ
っている。
今までにない動きや活気が感じられる
けれど、静かに力強く話す小平さんは
相変らずだ。
馬鹿騒ぎしたり、酒を飲んで憂さを晴ら
したりはしない、動じない知性。
しかし、実際にりんごを育てる中、日々
の判断は、やはり感覚だ。
収穫前に3回する摘果。
どのタイミングで、どれだけ摘むか。
収穫量や品質を、大きく左右する。
その忙しい時期には近所のベテランの
おじいさん、おばあさんたちが手伝いに
来てくれる。
けれど小平さんはお年寄りたちを「いつ
までも初心者。いくら教えてもダメ。仲間
と話してお茶飲むのが面白くて来てい
る。」と言う。
どうしてもこれでなければ、という感覚が
あるのに伝わらないジレンマだ。
「年寄りはもったいながって落とせない」
のだそうだ。
それではいい味のりんごは出来ない。
見栄えが良く、量が採れて、さっさと出
荷してしまいたいお年寄りたちとは違う
感覚で生きている。
そして、収穫。
その待ち遠しい日は、わざと晴天の日
を避ける。
晴れた日にはりんごの色がよく分からな
いから、成熟の判断が難しい。
極めて微妙な感覚の世界だ。
実は今年、小平さんは体調を崩してい
る。
シーズンの前、夏の始めに「今年は一
割しか収穫しないで畑を放棄するから。
扱う品種は限定するかもしれないけど、
晴屋さんには優先的に出すから。」と、
宣言されてしまった。
大きな出荷先のJACに断りの電話を入
れたら、社長が挨拶に来たと言う。
そんな状況で、晴屋だけには小平さん
のりんごがあるのは、有難くはあるけれ
ど、無理をさせているのではと心苦しく
もある。
でも正直言って、多少欠品したりしても
他のりんごを売る気がしない。
野の花のような爽やかで雑味が無く、
すっと身体に入って元気になる味。
そして、雨が大変多く日照が少なかった
東北地方の夏だったのに、今年のりん
ごも味がいい。
水々しく美味しいとしか感じない私たち
だが、本人は味に納得していない。
「酸味が少なく、味が薄め、深みが無い
」と言う。
生産者の体調が農作物の味に出るとい
うのが私の持論なのだけれど、そんなこ
とを微塵も感じさせない。
この美味しさは一体どこから来るのか?
それが知りたくて迷惑も顧みず、何度か
電話でのインタビューに挑戦した。
小平さんが住む岩手県水沢市からそう
遠くは無い盛岡が私の出身地だという
こともあって、親しくつき合わせていただ
いているけれど、考えて見ると改めて深
く、いろいろな事を聞いたことはなかっ
た。
今回のインタビューで、もう一つ聞いて
みたいことがあった。
収穫したりんごの選別の感覚だ。
小平さんは今、収穫の仕事には参加し
ていないけれど、選別は一人でしてい
る。
りんごは畑で見た時と、作業場で見た
時は色が違う。
それを一つ一つ眺め色づきや形から
味を想像し、手にとって触って熟度を
確かめ、右手の人差し指で軽く弾いて
中の異常を確認する。
シーズンの間、その爪は少しづつ磨り
減るので全く伸びないという。
人には決して任せない仕事だ。
きちんとした花に付いていたか?、窒素
分が多く大味ではないか?、色のりが
悪くても青味が抜けてちゃんと熟したか
どうか?
それらを色や感触、爪で弾いた音で感
じる。
その感覚を書きたくて始めたインタビュ
ーなのだけれど、やはり実際にはわか
らない。
裸電球の下、一つ一つを手にとって集
注している小平さんの後姿と、りんごの
ように固く締まった緊張感を感じるだけ
だ。
けれどそれでいいのかもしれない。
その感覚は小平さんだけのもので、真
似して出来るものではない。
その集注に生み出されたものを味わい、
充ち足りて満足する。
それは、音楽や絵画に似ているかもし
れない。
やっている方は必死なのに、聞いたり
見たりしている方は癒され、心豊かに
なる。
でも、出来るなら食べている人にこの集
注を知ってもらいたい。
それが少しでも感じてもらえたら、この
文章の意義はあるのだけれど。
(この文章は2003年(晴暦24年)12月に晴屋通信に掲載したものです)
作る楽しさ耕す人たち
その3 小平さんを悼んで
動じない精神と可愛くない精神から
小平さんが、煙のように消えてしま
った。
いつかは来ると思っていたけれど、
受け入れざるを得ない圧倒的事実
として、死というのはやってくる。
離れたところにいる私のような人間
にとっては悲しいという肉体的な感
覚よりは、心にポカッと穴が開いて
しまったような感じがする。
家族や周囲の私たちだけでなく、
本人にとっても、予想以上に早い
最後だったと思う。
しかし、不思議とまだどこかで私た
ちを見ているようで、心の中に生き
ているようでもある。
今までに知らない死との向き合い
方だ。
今こうして書き始めている文章の
きっかけは、以前書いた小平さん
の紹介の記事にある。
全体としては気に入ってくれたの
だけれど、「動じない知性」という
表現が格好良すぎる、酒が飲めな
いのは若い時から「痔主」だったか
らとか文章を変えてくれないかと
本人から注文を受けた。
それには私も心当たりがあった。
「動じない知性」は実は最初は「可
愛くない知性」と下書きしたものだ
った。
しかし、その表現だけではいかにも
説明不足だし、誤解を与えそうな
ので、無難な言葉に変えたのだっ
た。
そう電話口で伝えると「それなら分
かるネ」と納得していた。
その「可愛くない」という表現が初め
に浮かんだのは、インタビューを
依頼した時だった。
「シリースで生産者を紹介したいの
で、松田さんの次に岩手繋がりで
お願いします」と言うと、「生きてる
うちに書こうっていうの?」とこちらの
意図を見透かされてしまった。
私だったら分かってもそんなことは
言わないよな、可愛くない!と思っ
た。
しかし、その言葉には皮肉も感情
の反発も含まれていなかった。
ただ、感じ取った事実、真実を冷静
に言葉にしたものだった。
これこそが可愛くないほどの知性
なのだ。
この本質を見抜き、意識し、言葉に
置きかえる力は、死だけでなくあら
ゆることに向けられたに違いない。
本質は知ったからには、突き詰め
ないではいられない。
知性と精神への責任に於いて小平
さんはそれを続けた。
それだから、本と絵の世界に浸る
喜びを知りながら、多くのエネルギ
ーをりんごにかけたのだった。
喪主である奥さんの玲子さんの挨
拶に次のような言葉がある。
「夫は、強靭な精神の持ち主であ
ったと同時に、繊細な心の持ち主
であったと思います。その精神力
と、繊細で純粋な感性のはざまで、
生身の体のほうが根を上げてしま
ったのだと、今は理解しています。」
強靭で、可愛くなくて、動じない精
神。
小平さんの精神は確かにそうした
もので、傍にいるものにその存在
を感じさせ、ある人にはうとましく、
ある人には魅力的に映った。
しかし、実際には精神というものは
見ることも、触ることも出来ない。
あると思えばあるし、無いと思えば
無いものだ。
知性という本質を認識する力と、
感性という現実と係わる二つの別
の力に支えられ、ホロスコープの
ように幻のようでありながら、感じ
とることの出来る人には、本質の
エッセンスそのものである精神。
精神が、不滅であり、永遠だという
のは、伝染性を持って、近づく者
を染め、伝えていくからだ。
人間は精神によって、一兵士とな
って人を殺すこともできるし、ジャン
ヌ・ダルクのように自らの命を投げ
出して理想を追求することも出来る。
それは肉体だけでなく、言葉や芸
術や作品、時には食べ物の中にも
宿る。
小平さんの精神は、静かで、強靭
で、高潔だった。
それは故人を直接知る私たちにも
伝わり、りんごを食べる多くの人た
ちにも伝わっている。
本人が書き残していった文章の中
で、「二人の娘の親になれたこと、
これ以上の喜びを感じたことはあ
りません」と思いを込めていた双
子の女の子たち、悠水(ゆみな)ち
ゃんと存野(ありや)ちゃんも、「りん
ご作るの止めないで、私たちも手
伝うから」と言っているという。
来年度は畑を3割ほどにし、家の
周囲に限定してりんごを作り続ける
ことにした。
小平さんの精神を最も受け継いで
いるのが子供たちだとすれば、最も
共有してるのが奥さんの玲子さん
だ。
「しかし、どんなに厳しい現実であ
れ、その認識を夫と共有している
ことが、わたくしの励みになりまし
た。希望はもとより、絶望でさえも、
共通の認識を持っていることで、思
い出も、将来のことも、率直に話す
ことが出来ました。」
小平さんの書いた文章に魅かれ、
逢ってみて、押しかけ女房になっ
てしまい、小平範男という男を支え
とし、水沢というところで生きてきた
玲子さん。
子供たちが生まれた年に始めた10
年日記の次の一冊を託されて、喪
主挨拶の最後に、前の10年日記
に挟まれていた小平さんの生きる
指針でもあったと思われる言葉を
紹介してる。
これは、子供たちの名前の由来で
あろうとも書いてある。
「長いものに巻かれるな
媚びるな 不遜になるな
卑屈になるな
一個の人間としての自分を見つめ
永遠に向かって
ゆるやかに流れる
大河のように 生きられよ」
精神を感じられる者は永遠を信じ
られる。
今、雪が積もる水沢にも、やがて
季節は巡り、春が来て、りんごの
花が咲く。
(この文章は2004年(晴暦24年)2月に晴屋通信に掲載したものです。
りんごの出荷は玲子さんが続けられています。
ある流通のプロが「人が変わったら味が持つのは3年かな」という指摘がありましたが、
天候の異変が続く中、相変わらずの美味しいリンゴが出荷され続けています。
草刈や農薬の散布、そしてお手伝いにくるお年寄りたちとのやりとりなど、大変なこと
が多いと想像できますが、その中で品質を維持するというのはすごいことと思います。)
作る楽しさ耕す人たち
番外 可愛くない同志
小平さんとは、二十年以上の付き
合いがあった。
その間、りんごのシーズンの間は
毎週電話で話をし、何度か顔を合
わせ、水沢に遊びに行ったことも
あった。
喧嘩や言い合いには一度もならず、
嫌な思いもしたことがない。
それは全く、小平さんの謙虚な人
柄のおかげだけれど、二人の間に
美しい友情があったと言えば、嘘に
なると思う。
ある種の信頼関係はあったけれど、
心を開き、うちとけた感じとは違う。
二人が共通して持っている、他人
と絡んでいるよりは一人黙々と仕事
をこなす方が好きで、他人とは少し
距離を置いて付き合う性質にも関
係はあると思う。
しかし、私が感じるところでは、その
根はもう少し深い。
私から見ても、小平さんは質素で
静かな人だった。
内に炎を持ち、信念のために物事
を突き詰めるのに冷徹なところが
あり、それが他人から疎ましく感じ
られる時があったとしても、謙虚さ
を感じない人はいなかったろう。
りんごだけでなく、絵と言葉の世界
を愛しみ、大事に守り育てた。
しかし、残念ながら、私はどうもその
へんが不遜なようなのだ。
絵は好きだけれど、集中して描い
ている感覚が好きなだけで、他人
の絵(有名な人たちも含めて)に興
味が無いし、上手くなろうという向
上心も無い。
言葉も仕事上よく使うけれど、(八百
屋という仕事は運ぶ体力と説明す
る力があれば成り立つ)、言葉は
使うもので、使われるものではない
と思っている。
人間のコアを、感覚の凝縮感や
精神の軌跡といった動きとして感じ
ているので、言葉に固定化し、こだ
わる人の気持ちが理解できない。
わがままで、不遜で、知性へのあ
る種の危険性を持ってもいる。
大抵の人が私への初対面で感じ
る、歳の割には爽やかですっきり
したイメージと、暫くして分かる荒々
しさのギャップに驚かれることがあ
るけれど、小平さんはそのへんを
はっきり感じていたのではないか
と思う。
私にとって小平さんが可愛くない
と感じた瞬間があったのと同様に、
小平さんにも私は可愛くない存在
ではなかったか?
もちろん、小平さんは謙虚だから
そんな表現や感覚は持たなかった
ろうけれど、それに近いものを感じ
ていただろうと、私は想像する。
しかし、違いをお互いに意識して
いたとしても、先ほども書いたように
言い争いになった事は一度も無い。
基本的には私は八百屋であり、小
平さんはお百姓であり、流通業者
と生産者だ。
片や安く買いたい、片や高く買っ
て欲しいに決まっているけれど、
二十年の間、セールの時を除いて
価格の交渉を、お互いに一度もし
たことが無かった。
晴屋に来るりんごは、もみがらに
入って送られてくる。
それが一番りんごの鮮度を保ち、
痛みにくいからだ。
それは一般の流通の規格にのりに
くい、大きすぎたり小さすぎたりす
るものや、多少形がいびつで、プ
ラスチックのトレーに並ばない物も、
扱えることにもなる。
私たちは気にせず引き受ける。
美味しければ、それでいいからな
のだけれど、小平さんはプロだから
売りにくいものを売ってもらってい
るという自覚はあったろう。
だからこちらが何も言わなくても、
価格を売りやすく設定してくれたり、
品質の状態をニュアンスで伝えれ
ば、きっちりと次回には結果で帰っ
てきていた。
それは、敵対や争いではなく、協
力関係そのものだった。
お金や現実よりも、内なる精神の
世界を重んじるということでは、私
たちは共通していた。
この世とのつながりと責任におい
ては、やはりお金や現実という形あ
るものに負けないよう、戦っていか
なければならない。
その渦の中で、互いに力を認め合
っている者同志、いわば戦友のよ
うなものだったように思う。
私は数少ない戦友を失ってしまっ
た事になる。
というよりは、貴重な先達を一人失
ったというべきか。
小平さんより四歳年下だけれど、
私にはもう孫がいる。
それなのに、私はまだ青臭い。
分からないものに向かって、あて
の無い戦いを続けている。
誰に頼まれたわけでもないのに、
いたたまれずに、書きたい衝動だ
けで、この文章を書いている。
私にとって、大きな存在だったの
だ。
こんな言葉を連ねても、空虚な感
覚や寂しさをあがなえるわけでは
ない。
じっと冥福を祈り、その精神が私の
内にとどまって、少しでも謙虚とい
うものが理解できたら嬉しい。
そうしたら、自信を持って小平さん
が私の中に生きていると言えるか
もしれない。
(この文章は2004年(晴暦24年)2月
に晴屋通信に掲載したものです。)
作る楽しさ耕す人たち
その4 ロアンの岸さん
老いたる妖精の珈琲はうまいか?
笑った顔が、穏やかでにこやかだ。
目尻のしわや愛想の良さも、その
印象を深くさせる。
森の中でいきなり会っても、恐怖心
を持たずに受け入れてしまうだろう。
力まない、欲の無い、自然な雰囲
気を持っている。
若い頃は、中性的できれいな顔立
ちで、妖精のようだったかもしれな
い。
パートナーである、創立50年という
私立保育園のパイオニアである豊
川保育園の園長・荻村しをりさん
は、いつも元気いっぱいだ。
映画館で興奮して靴のかかとを床
に押し付けていたつもりが、実際は
岸さんの足の上だった。
痛いのを一言も言わずに最後まで
我慢していたのが、二人のなれそ
めらしい。
しをりさんは、明るく真直ぐで、おお
らかな感性を持った人なのだ。
そして数年前の二人の会話。
まじまじと改めて顔を見られて、
「汚くなったわねえ!!」。
自家焙煎珈琲工房ロアンの主、岸
さんはそれも笑って受け流す。
東京のはずれ、都市計画から取り
残され緑が色濃く残る街、東久留
米の駅から離れたさびしい商店街
の一画、もう少しで狸の親子で有名
になった黒目川にいきつくという所
に、ロアンはある。
店から見えるのは、紫陽花と畑と
野菜の直売所、たまに行き来する
通行人だけだ。
だから、友人の看板屋さんが作っ
てくれた、センスの良い緑色のテン
トや看板も周囲と調和し過ぎて目
立たない。
店の中は、ブーブーこと栗ちゃんが
作ったテーブルと椅子、私が作っ
た棚に珈琲や紅茶、雑貨が並んで
いる。
周りがなんとなく協力してしまうの
も、やはり人徳と言うべきか。
そして、いれてくれる珈琲、焼いた
豆はめちゃめちゃ美味だ。
おまけに安い。
珈琲、紅茶が一杯300円。
それなのにお客さんをみかけるこ
とが、少ない。
不思議だ。
時々、碁を打ちにくる人がいるけれ
ど、その時はいつになく真剣な顔
をしている。
後から来たお客さんには一応、「ま
いどー。ちょっと待ってね」と愛想
はいいけれど、どうも迷惑そうだ。
お客さんの方が気にしてしまうか、
全然遠慮しない人しか常連になら
ないかもしれない。
珈琲を入れるのに特に変ったこと
をしている気配は無い。
水も水道水だし、フィルターもごく
普通のものだ。
それなのに、何かが違う。
晴屋でも置いてるロアンの無農薬
珈琲豆ペルーも好きな人には強く
支持されている。
やや深煎りで香りがよく、すっきりし
て、もたれない。
こんなコーヒーは飲んだことがない、
理想のコーヒーだと言われることも
ある。
でも、本人はあまり珈琲は好きでは
ないらしい。
珈琲よりは紅茶を好む私とは、意外
に共通点がある。
同じ年(昭和29年)の生まれで、近
くの氷川神社に一緒に厄除けに
いったこともあった。
27歳で自家焙煎工房の先駆け・
珈琲実験室に住み込みで薄給の
店員になり、その頃私は八百屋を
始めた。
33歳で店を持ち、私もその頃東久
留米に店を作る。
しかし、行動パターンは反対で、考
えたことはすぐに形にしないと気が
すまない私と、構想10年でもまだ
動かないロアンさん。
静かにそっと生きる喜びを知って
いるのだろう。
しかし、意外に激しい面もある。
一度相手を許さなくなると、自分の
世界に決して立ち入らせない。
表現はしなくても、好き嫌いははっ
きりしているのだ。
コーヒー好きじゃないのに、どうし
てコーヒー屋始めたの?
「コーヒー屋は楽だから。そんなに
好きじゃないけど、飲むよ、俺も。
(仕事は)いろいろ、転々としたけど
長続きしなくて」
コーヒーは美味しいけど、どうして
なんだろう?
「う~ん。わかんない。特別なこと
は何もしてないよ。」
でも、味が違うのはどうしてなんだ
ろう?
「さあー。どうしてかなあ。こだわり
は、無いんだよ。」
コーヒー焼くとき、何を心がけてい
るの?
「同じ味に焼きあがるタイミングか
な。」
どういう味にしたいと思って作るの?
「特に、ないんだよ。」
(比較的気が長い私もいい加減に
じれてくる・・・・少し強い調子で)
じゃあ、どういう味が好きじゃない
の?
「う~ん。土っぽい、ほこりっぽい
味は好きじゃない。すっきりして飲
みやすいのが、いい。」
ほら、ちゃんと好みがあるじゃない。
「ほんと~。」
たったこの言葉が出るまでに、約
30分の押し問答があった。
感性も、好き嫌いもあるのに、表現
しない個性なのだ。
私にはこの人が、森の住人の末裔
であるような気がしてならない。
木々の間にいるときは生き生きして
いられたのに、不幸にもこの時代
に降り立ってしまった。
末っ子に生まれ家族に疎まれ、
世間の波に流され、「元祖フリータ
ー」として職を転々とし、愛想の良
さでなんとか切り抜けてきた。
今は森の主のような、しをりさんの
傍らに身の置き所を見つけた。
それでも何か小さい物に命を吹き
込む力はあって、コーヒーをいれ、
豆を焼いている。
他の人には無い、細やかな不思議
な力が、あるのかもしれない。
少しは老いて、汚くなってしまった
かもしれないが、妖精のいれるコー
ヒーは、やはり格別だ。
(この文章は2004年(晴暦24年)3月
に晴屋通信に掲載したものです。
その後、ロアンは改装し明るく広く
なって入りやすい雰囲気になってい
ます。
晴屋とはコンセプトの違いがあって
今は品物のやりとりはありませんが、
これからもゆったりとしたペースを
貫いて頑張って欲しいと願ってい
ます。
岸さんは今年2019年6月に店を若い人に託して、引退しました。
誰かに「自分探しの旅に出る」と言っていたそうですが、
まだ旅だったという話は伝わってきません。
そのままの岸さんがいいと思います。)
作る楽しさ耕す人たち
その5 プチフールの宮沢ロミさん
繊細と野性が求める和の味
いつものように一応チャイムを押す
と、応答のないまま玄関のドアを開
けた。
晴屋のための焼きたてのパンが、
湯気がたったまま箱に入って用意
されており、その向こうのダイニング・
キッチンでは数人の私とほぼ同年代
の女性たちが、忙しく、にぎやかに
働いている。
宮沢さ~ん?ニンニク以外に苦手
なものは~?(数メートル離れてい
るので、トーンが自然と高くなる)
「男のひと~」
じゃあ~、女装して、待ってま~す。
こんな、他愛のない会話がインタビ
ューのとっかかりだ。
ここは、プチフール。
小さなかまどという意味だ。
玄関脇の十字路に面した所が一坪
ほどの店になり、さっきのダイニング・
キッチンを挟んで反対側の二坪ほど
のスペースに、石釜のパン焼き器
やこねる機械などが所狭しと置い
てある。
実態は、宮沢家の台所そのものだ。
パン屋を始めて、13年目。
外国産小麦を原料に使い、イース
トと天然酵母を半々で使う、比較的
簡単な「主婦でもできる」方法から
スタートした。
10年前、ハード系の、固くて重く、
味も噛み応えもあるパンを国産小
麦と天然酵母で焼いてみたいとい
う宮沢さんの思いと、その時点で扱
っているパンに満足していなかっ
た晴屋の要求が一致して、名作
「胚芽食パン」が生まれた。
国産小麦と洗糖と塩の割合で味の
基本的なバランスを決め、発酵の
時間と方法で味の深さを求め、焼
き時間で酵母の発酵臭を押さえ
香ばしさを加えた。
何度も試作を重ね、私たちもその
都度ああでもない、こうでもないと
口を出した。
だからずい分と口をきく機会があり、
言いたいことを言える間柄のようで
ありながら、実際にどんな事を考え
何をしたいか、聞いた事はなかっ
た。
いつも忙しそうで、家の中にこんな
に人がいて、疲れないのだろうか?
それでも晴屋にはいつも新しい物
を試作してきて、遊んでいる節も
見られる。
「前に考えるなんて、いや。パン作
りは誰に教わったわけじゃないし、
自分で探っていくものなのよね。
難しいし、分からないから面白い。
冒険の感覚が好きなのかもしれな
い。」
パンはそんなに好きじゃないって
聞いたけど、何が楽しいのだろう?
「形を作るのが面白い。絵はだめ
だど、立体の感覚が好きみたい。
焼いて形になっていくでしょ。
星野酵母も最近は品質が安定して
きてるみたい。前の社長が亡くなっ
てから講習会もよく開いているみた
い。でも、意地でも教わらないし、
自分で考えて作っていかないと、
意味ないし。」
元々、しぶといんですか?
「父親が工場やっていて、いつも
他人が家の中にいるのは、慣れて
るから。若い頃は、何も長続きしな
かった。フリーターを転々ていう感
じ。パンのおかげで、一つのことを
やれた達成感がある。始めた以上
は、止められないし、縛られてもい
る。自分で作ったんだけど。ここま
でやらなきゃいけないっていう設定
するのが好き。性格的な悪さかな。
布団で寝るとかえって疲れて、朝
起きられないから、ソファーで寝て
る。」
でも、どうして天然酵母のパンなん
だろう?
「人がやるのは、いや。若い頃は、
学生運動とかあって、その流れか
な。
パン屋になりたいと思ったのは、フ
ランスパンだった。こんなの焼きた
いと思って始めたんだけど、(パン
屋を始めてから)研修でフランスに
行ってパン作り見てたら、ダラッとし
た生地て大丈夫かなって思ってい
たら、となりでヤマザキパンの偉い
人が、こんなの駄目だうちの方が
技術があるっていう顔してるんだけ
ど、焼きあがったらちゃんとなって
いるのよね。身体に沁みついたも
のには、敵わないと思った。
好きなパンは、きなこパンとリュース
ティック(手ごねパン)。」
捻じって揚げたふっくらしたパンに
きな粉の甘さと香りの良さが不思議
なほど合う、きなこパン。
国産小麦を自然発酵させ、味の深
みはたっぷりなのに、水分が多い
せいかもちっとした感覚のある、手
ごねパン。
そして、一度食べたら病みつきに
なると、一部で熱狂的に支持され
ているライ麦パンも、もちもち感が
ありどこか柔らかで優しい味わいで、
他には無い美味しさだ。
どれも、日本的な味がする。
素材感があり、バランスよく、でしゃ
ばらない。
欧米からやってきて、目新しさや
エキゾチックを目指すことが多い
一般のパンの世界とは明らかに
違う。
一見平凡のようで、実は極めて個
性的だ。
こんな「和」のテイストを、純粋日本
人ではなく、白系ロシア人の血が⅟₄
いり、自己の要求をはっきり自覚し
て主張する宮沢さんが求め、作る
のは、面白い。
最近娘さんがスリランカの人と結婚
して、孫が出来た。
何か、変ったことはありますか?
「ちょっと寂しい感じ。もう世代が
変ってきてるわけでしょ。でも、ま
だまだ、やるけどね。」
そう、そうでなきゃ。
この懲りないしぶとさがなければ
ロミさんとは言えない。
繊細で野性的、豊かでいい加減。
いつも同じものを作らない、作れな
い、プチフールのパンはこれから
も、私たちを飽きさせず、楽しませ
てくれるだろう。
(この文章は2004年(晴暦24年)4月
に晴屋通信に掲載したものです。)