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放射能への対処
毎日多くの品物が届けられる晴屋ですが、その中には茨城産や千葉
産のものも含まれてます。
原発事故の被災地・福島にこちらより近い分、汚染度は東京より多い
かもしれません。
しかし、30年以上付き合っている生産者もいて一概に切り捨てるこ
とはできません。
けれど安全を求めてくるお客さんたちへの責任ももちろんあります。
原発事故以来、ずっと頭の中にこの揺れる気持ちが晴れることはあり
ませんでした。
それでも少しづつ落ち着きを取り戻しはじめ、個別に対応してきた生産者
たちの状況もつかめてきました。
今回まとめてお知らせして、みなさんの選択の基準にしてもらおうと
思います。
まず高橋乳業の牛乳は那須に牧場があります。
飼料の藁はサイレージという昨年収穫したものを発酵させ貯蔵した
もので、今年のものは一切与えていません。
今後は国産の藁は使わない方針だそうです。
毎週行っている放射能測定では不検出でまったく問題がありません。
群馬の野菜くらぶも毎週検査をしています。
こちらも全て不検出です。
同じ群馬のあずま産直ネットでは3月25日に検査した結果がきてい
ます。
キャベツは不検出ですが、その他の野菜は20~30Bq/kgという数字が
出ています。
ご存知の通り暫定規制値は500Bq/kgなのでかなり低い値といえます
がやはりゼロではないこともあります。
ただしそれ以降の時間の経過があり、数値はかなり低くなっているで
しょう。
茨城でルッコラ等のハーブ類を生産しているレインボーフューチャー
では全て不検出でした。
ここは全てハウスで栽培しています。
千葉で多くの野菜を生産している和郷園のものは小麦以外は不検出
でした。
小麦は晴屋には来ていませんが、数値は104Bq/kgだそうです。
栃木の矢板では晴屋のお米が作られています。
米の収穫はまだですが、麦の収穫は終わりました。
数値は20~30Bq/kgだそうです。
米は多分これより少なくなるだろうと思われ、検出限界以下の不検出
になると予想しています。
新潟の魚沼に牧場のあるアルファーでは、昨年の稲藁しか与えてい
ないので、牛肉などからは不検出となってます。
また四国の山地酪農の牛たちは、基本的には山の草しか食べていな
いので、検査はしていないけれど問題はないでしょう。
以下にまとめてみます。
なお不検出というのは全て測定限界以下という意味でまったくのゼロ
ではないかもしれません。
那須 牛乳 不検出
群馬 野菜くらぶ(レタス・小松菜・法蓮草・トマト・キャベツ) 不検出(ALOKA
社製GMサーベイメーターTGS-186にて測定)
群馬 あずま産直ネット(キャベツ)不検出 長ネギ22Bq/kg ミニトマト26
Bq/kg きゅうり30Bq/kg(同位体研究所)
茨城 レインボーフューチャー(ルッコラ・ベビーリーフ・ミズナ・小松菜他) 不検出
(日立協和分析センター)
千葉 和郷園(法蓮草・春菊・パセリ・他)不検出(千葉県農林水産部安全農業推
進課)
新潟 アルファー(牛肉) 不検出(新潟環境衛生中央研究所)
今のところ集ってくる数字に問題がありそうな感じはしません。
けれどその地区では調べていても、生産している畑でとれたものを直接
は調べていないところもあり、この数字だけではわからないところもあ
ります。
それで晴屋でも独自に簡易検査をすることにしました。
CPMやCPSといった単位時間あたりのベータ線とガンマ線の放射
線量をある程度正確に計れる比較的高度な機械があります。
感度のいい機械なので環境中の自然放射能が刻々と変化していく
のがわかります。
CPMというのは1分間に通過した放射線の本数を表しているのです
が、11から28までの間で大きな変化があります。
鉛の箱を作って、環境中のアルファ線とベータ線をカットして精度を上
げています。
ガンマ線のカットには10cm厚の鉛が必要でそこまではできません。
一品目に約一時間かかります。
環境中の放射線量を計測し、次に食品の放射線量を計測してから環
境の量をひけば、食品が持つ放射能の量がわかります。
その数をもとに近似値的にBqの値を求めることができます。
簡易検査だからもちろん完璧ではありませんが、もし40という数字が出た
ら最大で80、最小で20という範囲での値になるという説明を受けていま
す。
絶対値との誤差はありますが、相対的に比べるのには実用性がありま
す。
国の暫定基準値は500Bq/kgですが、晴屋では100Bq/kgという数字
を基準にしてみようと思います。
誤差の最大では200Bq/kgということもありえます。
この数字だからまったく問題ないと言うことはできないかもしれません。
けれど、他の国の基準をみても現状では妥当な値といえると思います。
この基準を作り野菜を売ることで、私たちは茨城をはじめとする生産
者への少しでも支援ができるかもしれないと期待しています。
それを判断されるのは消費者のみなさんですが、私たち晴屋としても
曖昧な表現でなく野菜をおすすめすることができます。
ただし数値の公表はしないつもりです。
相対値としては信頼できますが絶対値ではないので、数字が一人歩き
すると生産者に迷惑がかかる場合もあります。
晴屋のものだけに限り、晴屋の責任においての行為になります。
機械の貸し出しや測定の依頼もお断りしようと思っています。
放射能の危険に心を奪われ、ものの本質を見失う風潮を加担し助長
したくはないのです。
晴屋の店頭にあるものは全部が簡易測定値100Bq/kg(最大誤差で
200Bq/kg)以下という保証ができることになります。
放射能はもちろん身体に害を与えます。
しかし有害な化学物質といっしょになる時、相乗効果で被害は増えま
す。
普通は被害の出ないはずの低放射線量でも、だるさや目まいなどの
環境不適応症候群という症状がでるのはそのためでしょう。
また、多少の被爆でも癌になる人の割合が増えるだけで全員がなるわ
けではないのも、遺伝的要素だけでなく、食生活や環境の影響が多
くある証拠です。
私がお世話になっている整体の指導者は、放射能の影響は肝臓で
確認するといっています。
CTやレントゲンの撮影の後はすぐわかるといいますが、今のところ指
導室がある国立市周辺では福島の事故の影響が出ている人はいない
ということです。
ちなみに整体では肝臓と共に盲腸を放射能の排泄の急所として、必
要な時には手入れします。
整体法を創設した野口晴哉が広島に通って確認し、技術として使って
いたということです。
放射能には気をつけた方がいいけれど、恐れていてはかえって自分
の自立性が損なわれ、影響を受けやすくなるでしょう。
数字はあくまで数字です。
それを判断する人の気持ち、受けとりかたでどうとでもなります。
今の天候も人を疲労させますし、普段以上に身体のケアは必要です。
楽しんで、心配の少ない美味しいものを食べること以上の、放射能へ
の対策と癌の予防に有効なものはないでしょう。
放射能のことを調べようと最近はインターネットでいろいろなサイトを
覗いているけれど、「体でなく、頭が放射能に犯されている」というブ
ラックな書き込みがあって思わず苦笑したりします。
癌は精神的なストレスや、感情の欝滞が大きな原因になります。
私たちは食べ物の心配という理性的防御ができるだけでなく、いつで
もゆったりとした気持ちを持つ強さも求められています。
チェルノブイリに学ぶ放射能対策
チェルノブイリ事故から25年。
隣のベラルーシにもセシウムを中
心とした大量の放射性物質が降り
注ぎました。
そのためベラルーシでは日本を
はるかに上回る健康管理が必要と
されおこなわれています。
NHKが現地の研究所で行なった
取材と、ベラルーシで財団を作り
放射能の害を減らそうと努力して
いる人の報告をまとめて、私たち
の参考にしてみたいと思います。
まずベラルーシでは、放射能の測
定が誰でもできる体制が整ってい
ます。
各学校や保健所には必ず測定器
があり、食べ物や人体に蓄積した
放射能の量を知ることができます。
時間は10分ほど、料金も100円位
で計ってくれます。
これはぜひ日本でも見習わなけれ
ばなりません。
必要な情報を自分の納得いく形で
手に入れられる状況なしには私た
ちは本当には安心できません。
食べ物を持っていくとそのまま鉛
の容器に入れ、10分で結果が出て
安全なら証明書を発行してくれま
す。
刻んだり、ぎゅうぎゅうに詰め込ん
だりはしません。
ベータ線やガンマ線は浸透力が
強いため、刻む意味がないといい
ます。
特に空気が混じって放射能値が
変わるようだったら、測定をやめて
すぐに逃げ出さなければならない
といいます。
そんな高放射線量状況は考えられ
ないそうです。
時間も10分は必要だけれど、それ
以上は意味がないそうです。
厳密な値より、わずかな違いはあ
っても、多くのものを手軽に計っても
らえることのほうが意味が大きいで
しょう。
計って安全なものは、持って帰っ
て食べることもできます。
長年の経験が生んだ合理主義で、
私たちも見習わなければなりませ
ん。
そして問題なのは基準です。
ベラルーシでは内部被爆・外部被
爆合わせて年間1ミリシーベルトを
超えないというのが基準になってい
ます。
もちろんそれ以下でも影響がでる
人はいるますが、低放射線量によ
る環境不適応症候群は、添加物や
化学物質やストレスなどのその他の
要素との複合的な問題と考えるほ
うが妥当でしょう。
それらは放射能よりはずっと解決が
容易です。
日本は現在セシウムとストロンチ
ウムのみで年間5ミリシーベルトを
超えないという基準になっています。
それで日本では食品は500ベクレル
以下、飲用水・牛乳は200ベクレル
以下というのが基準になっていま
す。
これはあまりに酷い数字だと研究
所のネステレンコ所長は指摘しま
す。
ベラルーシの基準
乳児用食品 37ベクレル
飲料水 10ベクレル
牛乳 100ベクレル
じゃが芋 80ベクレル
牛肉 500ベクレル
豚・鶏肉 200ベクレル
お茶 3700ベクレル
日本よりかなり厳しい基準になって
いますが、長年の甲状腺などの身
体の測定や追跡調査でこの値なら
大多数の人に問題ないだろうとい
うのがこの数値です。
じゃが芋が厳しいのは主食で大量
に食べるためで、日本なら米にあ
たるでしょうか。
お茶の基準がゆるいのは、溶出が
少なく薄めて飲むからだそうです。
この基準なら静岡や小田原のお茶
は全部大丈夫になります。
生活状況に合わせて細かく分類
され、年間1ミリシーベルトを超え
ないよう管理されています。
晴屋の簡易測定値100ベクレル以下
(実質50ベクレルを超えたものはほと
んどない)と言う基準は妥当な数値
だと再認識しました。
ベラルーシでは食品に含まれる
セシウムを減らすための知識も一
般的になっています。
セシウムは水溶性のため肉や魚を
塩と酢を入れた水に4時間漬けて
おくと、30~40%の放射性物質が
取り除かれるということです。
またセシウムの吸収を防ぐために
カリウムを含んだ食品を摂取する
といいそうです。
チョコレートやココア、バナナ、皮
つきのじゃが芋がいいそうです。
また、セシウムを吸着して体外に
だしてくれる物としてペクチンが有
効だとこの研究所では言っていま
す。
リンゴ等の果物、野菜ジュースが
特に効果的ということです。
みかんの内袋にもペクチンが多く
含まれています。
国家予算の20%がチェルノブイリ
対策に当てられているというベラ
ルーシに学ぶことは多いと思いま
す。
日本では東電や政府の隠蔽体質
のため、不安は解消できません。
ベラルーシに習って早急に放射能
の測定ができる体制を作るべきで
しょう。
某大手宅配では、関西の野菜の
セットを作って売り上げを伸ばして
いるということです。
不安から欲しがる消費者がいるこ
とは理解できますが、流通の一端
にいる人間としては、野菜や生産
者に対する冒涜としか映りません。
確実に汚染されている地域で日々
暮らし、頑張っている人がいる中、
ただ売り上げが増えればそれで
いいのかと憤りを感じます。
500ベクレル/kgなどという基準は
論外ですが、ここまでは許容し、こ
こからはダメという基準を明確にし
て、共に育ち生きていく感覚なしに
は、この状況は乗り越えられないと
思います。
また別のネット販売では放射能の
測定をうたっていましたが、私の
知る範囲ではほとんど意味があり
ません。
晴屋では一品目に2時間近い時間
をかけて測定しますが、それは鉛
の10センチ厚の箱が用意できない
ためです。
短時間では放射線の種類や核種
がわかっても量の測定は不可能に
思えます。
こんなことたちがまかり通ったりす
るのも、ちゃんとした情報が開示さ
れず、手軽に放射能の測定がで
きないためです。
一日も早い国の体制作りが必要で
すし、不安によって本質を見失わ
ない消費者の冷静で合理的な判
断が望まれます。
晴屋の青い扉 その59
活性酸素と放射能と現代の不安
活性酸素といわれているものの中
の幾つかが、癌や老化の原因だと
いわれている。
H2O2、HO2、O2-などは極めて反応
が早く、他の物質と化合する。
いわゆる酸化だ。
それによって遺伝子や細胞組織が
壊れてしまう。
添加物などの化学物質や精神的
ストレスが原因で活性酸素が増える
という。
しかし意外と知られていないのが
放射能の働きだ。
放射線が直接に遺伝子を壊すので
はなく、活性酸素を発生させること
によって、悪い影響を及ぼすという。
最近は有機農業の野菜と放射能の
どちらをとるかという図式で語られる
ことが多いけれど、実際には農薬
プラス放射能ということもありえる。
人間にはある程度の遺伝子の修復
能力があるけれど、現代に生きる
私たちは常にその場のバランスや
知識との追いかけっこに付き合わざ
るをえない。
そして精神的ストレスも加わる。
放射能の心配をする人が増えるほ
どストレスによってかえって癌が増
えるのではないかと、私などは心配
になってしまう。
慎重であることが悪いはずはない。
人間は知識によって自分の世界を
ひろげてきた。
それは両刃の刃で、知ることによっ
て不安もかかえることになる。
自然災害、他からの侵略、愛する
ものの喪失、そうしたものへの恐怖
心が絶えずつきまとっていた。
それらにとらわれやすい体質、知
識に縛られやすい性質を産まれな
がらに多く持つ人もいる。
生きるということは何かに集中する
ことだから、それも一つの生き方に
違いないし、不安が生きる原動力
にもなりえるだろう。
けれど人間の持つ他の能力、例え
ば過去を忘れて新しいことに取りく
む積極性を上回る不安や恐怖心
は、物の実態や社会の現実には
沿っているかもしれないが、生きる
本質を見失わせる。
生きていて何の異常も感じないし、
疲れもしないということはありえない。
けれど行き過ぎると、自分の中の自
然な経過を見つめ明日を確信する
ことができなくなってしまう。
人類の歴史の中で悲惨や恐怖は
限りなくあり、多くの命が失われてき
た。
我々だけが災いから遠くにいること
はできない。
私たちは今の世に生きているし、
当面生きてもいけるだろう。
こどもたちの未来もばら色ではない
が、個性を生かして生きる余地は
残されている。
次の世代の持って生まれたものや、
生命力や創意を信じることしかでき
ない。
いやむしろ、信じることによってしか
それは育たないだろう。
庇って、守ることによってかえって
発育不全になることは多くある。
難しい時代を生きて、日々試されて
いる私たちだが、道は自ら選び、
あるいは切り拓いていかなければ
ならない。
物質主義や権威主義を超えたとこ
ろで、何に生きるよりどころを見いだ
すか。
巨大なものに頼らずまた隷属もせず
個としてあるという意味でそれは正
に、原発に反対するのと同じところ
に根ざしている。
恐怖や不安に押しつぶされていた
ら、原発や放射能に負け屈服する
ことになる。
一つの不安が解消しても次の不安
が私たちを襲い、新たな連鎖へとり
こもうとするだろう。
ある状況が揃えば一定の反応をす
る大衆の一人としてシステムに組み
込まれている。
否定から肯定は生まれない。
不要だからいらないという、生活者
としての、一つの命としての発信で
しか、利害を超え多くの人たちと連
帯し大きく世を動かすことはできな
いだろう。
それは今私たち、現代に生きる人
間に与えられた課題に違いない。
晴屋の青い扉 その60
哲学は未来をどう語れるか
復興と脱原発から
生命・自然・労働を考える 上
哲学熟「の・ようなもの」の3人委員
会の一人、哲学者の内山節さんの
講演会からの抜粋の前半です。
立教大学院教授で、「怯えの時代」
「日本人はなぜキツネにだまされな
くなったか」など著書も多数あります。
群馬県上野村と東京を往復して暮
らしているそうです。
哲学とは、現実の問題から始って、
現実の問題に出て行くという学問
です。
今回の震災に対しても、この現実を
どう見るのかと同時に、そこからどう
出ていけばいいのかということが、
哲学をやっている人間に与えられ
た課題だという気がします。
今回の大震災は、「自然の災禍」と
「文明の災禍」という、本来次元の
異なる2つの問題が同時進行で起
きてしまったことに特徴があります。
「文明の災禍」とは当然、原発事故
のことを指しています。「自然の災
禍」である地震や津波については、
日本はこれまでもくり返し経験して
きました。しかし、未経験の原発事
故はまだ終わっていないし、終わり
とは何を指すのかすらもかっていな
い。
古代から中世、あるいは江戸時代
でも、危機とは何らかの出来事によ
って、その地域の生活システム、労
働システムが崩壊することで発生し
たと考えられてきました。
江戸時代までの生活・労働システム
は、人々による手作りの生活・労働
システムでしたから、手作りで再建
することが可能でした。
しかし、今日の場合は、きわめて巨
大で完璧なシステムになっていて、
人々の手作りではどうにもならない
ものがある。とくに原発がそうですが
われわれが行って直すことも、手伝
うこともできない。
さらに、ひとつのシステムが崩壊し
た時に、連動して他のシステムも崩
壊していくという現実もあります。
電力システムが崩壊すれば、交通
システムも情報通信システムも、他
のいろいろなシステムも崩壊してい
く。しかも、どのシステムも、私たち
が自分で修復することはできません。
今回の震災に対して、日本政府の
対応が鈍い、問題があるという人は
たくさんいます。しかし、僕自身は
大筋あんなものだろうと思っている。
なぜなら、政府も巨大システムのひ
とつであって、すべてのシステムと
相互依存的な関係にある。
とくに原発が絡んでくると、東京電
力内部の意思決定システムや情報
システムに混乱が生じ、東電と経済
産業省の関係も機能していない時
に、政府だけがうまく機能するはず
がない。
むしろ、私たちはこのような社会で
よいのかということを問題にしなくて
はならない。
「政府がしっかりしていたら」という
言い方をする人は、政府さえしっか
りしていればすべて解決できると思
っている。その幻想の方が問題だと
思います。むしろ「政府なんてだれ
がやったってあんなもの」という気持
で、政府に依存しないかたちでみ
んなで再構築していかなければ、
同じ問題をくり返してしまう。
それが今回の震災の教訓だと思い
ます。
私はもちろん原発が安全なものだ
とは思っていません。ただ、あまり安
全か危険かの論点で原発を議論
したくないといのが本音です。
以前から「原発は安全に運転され
ていても、出ている放射能は無視
できない」という意見もあります。
そこには本当の対立点はない。
ですから、危険と言うのはどういう
概念なのかをきちんとみておく必要
がある。
私たちは高いところは危険であると
人類の誕生以来経験してきたから、
私たちの身体が記憶していると考え
ていい。火に対しても同じで、火は
いかに有効かとということも知ってい
るし、危ないものであるということも
知っている。人間は火と長くつきあっ
てきたので、有効性と危険性の両
方を身体が知っている。このように、
自分自身で判断可能かどうかが、
「安全」の基準です。
食品添加物が安全か危険かは、食
べても判断できないし、匂いでも判
断できない。そのこと自体がもう危
険であると考えたい。
私のように賞味期限をまったく考慮
しないという人間は、ひたすら自分
の判断力を信じている。だいたい腐
っていれば見ればわかる。つぎには
触ってみてダメだとわかる。匂いで
わかる。微妙だなと感じたら、ちょっ
となめてみる。噛んでみてダメだっ
たら吐き出してうがいをすればいい。
それくらいの抵抗力はありますから。
最近は賞味期限を信じる人が多く
なったのでずいぶん怪しくなりました
が、人類はずっと腐敗とつき合って
きたので、腐敗を見分ける能力も備
わっています。しかし、食品添加物
の危険は感じることができません。
われわれの五感では判断できない
のです。
放射性物質についても同じで、一
番の問題は人間の五感で判断で
きないところにあります。ただ天然の
放射能については、人類は長くつ
きあってきたので、DNAを壊された
としても、それを修復する能力ももっ
ている。ところが、修復する能力を
超えた放射線に被爆した場合、自
分の身体では判断ができない。い
ろいろな情報をもとに大丈夫かどう
かを疑い続けるしかない。そこにこ
そ、原子力の危険性がある。
今回の原発事故では、「想定外」と
いう言葉が頻繁に使われて、かなり
批判を浴びました。
ここで問題なのは、想定をもとにシ
ステム設計をされたものは、巨大に
なればなるほど、素人が介入でき
ない世界が拡大していくということ
です。
そこに素人のわからない世界、素
人の介入ができない世界が出来上
がっていく。
企業も同じで、小さな企業ならみん
なが仕組みを知っていますが、巨大
企業になると、そこに専門家集団が
発生していく。
専門家というのは「専門性のあるす
ぐれた人」ではまったくなく、自分の
専門領域からしかものを考えられな
い人のことなのだと、私はつくづく
思います。このことはすべての専門
家がきちんと理解しなくてはいけま
せん。専門家にゆだねるということ
は、その領域だけにやられてしまう
ということ。
今の社会は、いろいろな専門家の
暴走を許している社会ともいえます。
他の介入を許さない世界を生み出
している。
原発に関しても、直接対応できない
私たちにとってはイメージにすぎな
い。
現代とは、イメージ化することによっ
て、イメージのなかに人々を巻き込
み、イメージによって人を支配して
いくという社会が形成されています。
洋服を買う場合でも、その洋服の機
能というより、イメージで選択してい
る。イメージ化された消費市場が、
そこらじゅうに広がっていて、その中
のどれに手を伸ばすかという選択に
すぎない。そんな時代になっている
という気がします。
ですから、イメージ化できなくなって
しまうと、私たちは判断停止になる。
私たちは専門家たちによって動か
され、その外部で、イメージ化され
た世界の中で支配されていく。この
構造がもたらした現実を見据えてい
かなければと思います。
(農文協「現代農業」別冊・「季刊地
域」2011.秋号より抜粋しました。)
晴屋の青い扉 その61
哲学は未来をどう語れるか
復興と脱原発から
生命・自然・労働を考える 下
哲学熟「の・ようなもの」の3人委員
会の一人、哲学者の内山節さんの
講演会からの抜粋の後半です。
今回の地震、津波、原発事故の経
験の中で、考えなくてはならないこ
とに情報の問題があります。
歴史上初めて津波の全貌が映像に
残った。
その映像を私たちは何回か見るこ
とになりましたが、映像が持つ情報
量はべらぼうに多い。
ところが大量の情報を得た人々は
どうなったかというと、逆になんとな
く現実離れした映像に見え、映画の
一場面を見ているような気になって
しまった。
つまり、情報量が多いことが人間の
判断能力を停止させることが今回の
震災でわかってきた。
身体でつかんでいる情報は情報量
が多くてもすぐに処理できるのです。
しかし、頭に入ってくる情報は、情
報量が多いと逆に判断ができない。
近代的な世界は、知性で処理する
情報を増やしていって、それがより
よき社会をつくるといってきたが、こ
こには何か錯覚があった。身体や
生命が処理できる情報をとおして情
報を交換できる社会を考えていかな
いと、情報の問題が支配の問題に
すり変わってしまう。
私たちは復興と言う言葉をすでに
語り始めていますが、高台に町をつ
くるなどと言うものはグランドデザイ
ンではないと私は思っています。
グランドデザインとは、そこに人々が
暮らし存在してる意味がわかる、もっ
と簡単に言えば、ここで暮らしてよ
かったと思える町をつくること。たと
えばそこで亡くなるときに、ここに暮
らしてよかったと思える町でもいいし、
海を見ていると何時間でもそこにい
たくなるような町でもいい。人々がい
ろいろな家に寄ってお茶を飲める町、
子どもたちが道で遊んでいるような
町、どんなことでもいい。そういうも
のを「文学的、思想的、文化的グラ
ンドデザイン」と言っている。
つまり、とてもローカルなものとしての
グランドデザインです。それは作ろ
うと思えば一週間もあればできると
思う。そこに住んでいた人たちが集
って語り合えば簡単にできる。
国や県に復興の主体はない。東京
なんかでグランドデザインをつくるか
らどうしようもないものになってしまう。
それぞれの地域で、自分たちが生
きて存在していくことを、了解し合う
世界を作ることが復興であって、けっ
して最初に住宅計画や産業計画が
あるのではない。
自分だけでは十分に生きたかどう
かを考えたときには判断できないけ
れど、他者からの働きかけ、人々か
らだけではなくて、自然からの働き
かけがあってはじめて、自分が役目
を果たしてきたことを了解できるの
です。
ところが近代になると、働きかけられ
ながら生きていることを意識しなくな
って、働きかけるほうにシフトした。
これが「近代の主体性」で、こちら側
からどう働きかけるか、という生き方
に変わってきた。働きかける側にな
ってしまった瞬間に、人間たちは存
在が不安定になってしまった。
私たちはこれから、復興と日本の社
会をつくり直すことを同時にすすめ
なくてはいけない。
明確につかむまでにはもうちょっと
時間がかかるでしょうが、ともかく、
つかまなくてはいけない。そうでな
いと、今回の震災で亡くなった人た
ちを直視することができない。また、
そう思うからこそ、原発はまずい。
原発は人間の災害だけでなく、自
然への災害でもあったからです。
私は、人間の善意が善意として通
用するのがいい社会なのだと思っ
ています。ところが原発に関しては、
人間の善意が善意として通用しな
い。
原発については風評被害と言うの
は存在しないと私は思っています。
風評被害と言ってあげたいという人
たちの善意はわかるが、それがまっ
たく通用しない。人間的な思いとか
つながりとか、人間と自然のつなが
りをこれからどうしようとか、そういっ
たいっさいのことが崩壊してしまう。
それが原発の本質です。安全かど
うかの議論以前に、そもそもこういう
世界をつくってはいけないと私は思
う。
これらのことを考えながら、この震災
からの教訓をつかみ直し、私たちの
社会をどう変えたらいいのか、さま
ざまな議論を重ねていかなくてはな
らないと思います。
(農文協「現代農業」別冊・「季刊地
域」2012冬号より抜粋しました。)
人間に共有できる価値があると信じ
ている内山節さんの明快で力強い
表現で、私たちの未来への道が語
られています。
私も八百屋として、人の親として、
同じ道を歩みたいと願います。
内山さんは、「場」と「時」を取り戻す
ことによって、「里」という自然と人
間の共同体の再構築を目論んで
います。
晴屋の場合は「身体がつかんでい
る情報」というのを、「作る楽しさを育
てる」という言葉に置き換えていま
す。
いくぶん主体的な動きに重きを置
いた表現ですが、それには立場の
違いのためもあるようです。
私たちは、みな違う身体と感性を
持っています。
それを生かし、発展させるために
生まれてきたともいえます。
違うからこそ興味も湧き、伝えてみ
たいという情熱も生まれます。
作ることによって社会を組み立てれ
ば、都市でも創造的な関係は築け、
私たちの心や身体の自然や自律
は保てるのではないか、というのが
晴屋の立場です。
与えられた労働ではなく、自ら選ん
での創造には、規制や障害も多く
あると思いますが、それを克服する
ことで学び、自分の世界を再構築
する機会になります。
日本の伝統の中にある所作や間の
感覚の素晴らしさを認め、保ちな
がらも、新しい文化の創設が求め
られていると思うのです。
半面、個別性を前提にしている以
上、相手によって話す内容や方向
も変わり、伝えるのを最初から諦め
る場合もあります。
しかし、多くの人たち、ある意味で
世の中全体に対して語られている
内山さんの言葉に、驚きと爽快感を
感じました。
違いを感じながらも、心惹かれるも
のが多くありました。
信頼できる人が世の中にいると思
えるのは、とてもうれしいことです。
晴屋の青い扉 その62・63
巨大社会で生きる
今回の震災は私たちに多くのことを
突きつけた。
大きな自然の変動に今の社会はど
う向き合えるのか。
原発と言う、不合理で巨大な危うさ
をはらむ存在。
それらを前に私たち個人は何がで
きるか。
周囲や報道での情報では、問題は
当然あるとしても<避難所での節度
ある生活や、参加しているボランテ
ィアの活躍、多額の寄付金など、
一人ひとりとしては、全うに見えるし、
まだ世の中も捨てたものではないと
思わせてくれる。
しかし、全体として世の中を見た時
や、政治の状況を知るにつけ、もう
どうしようもないかなと無力感に襲わ
れることもある。
私にはこのミニマムとしての個人の
あり方と、マキシマムとしての社会の
あり方のギャップが、どうしても感覚
的に埋められないでいた。
知識と欲求で世界を広げてきた
人間が、作り上げたものの巨大さに
自分を見失い途惑っている。
先日、「ディスカバリー・チャンネル」
という科学番組を見ていたら、古の
武器の特集をやっていた。
名前は忘れたが、その武器の登
場で狩りもしやすくなったけれど、
何より集団の統率ができるようにな
ったという。
悪いことをすれば罰が与えられると
いう刷り込みは、集団の結束を高め
安定をもたらすという。
しかし、それも150人位まで、古の
集団はだいたいどこでもそれ位が
単位になっていたらしい。
150人というのは何か説得力を感じ
る。
全員が顔見知りで、名前や出自や
好みも知っている。
多少の派閥はあったとしても、十分
に理解できる範囲で見通しがきく。
強力な独裁は敬遠されるだろうし、
個人の極端なわがままも許されな
いだろう。
自律と規律がバランスすることがで
きるほどほどの数なのだろうか。
しかしそれを越すと、それだけでは
統制がきかなくなる。
我々の祖先はしきたりや風習といっ
た文化や、法律や教育や宗教的
規範によってその統御をおこなっ
てきた。
けれどそれも明らかに限界にきて
いる。
少し前までは、知によって人間は
生きる範囲を広げ、新しい未来を
切り開けると考えられてきた。
今では、社会の一員として役に立
つ歯車(パーツ)と一つとなり、文明
を享受する消費者として「賢い」存
在になることを教育されている。
その範囲での自由は保障されて、
テレビで宣伝している品物や、カタ
ログから好きなものを手に入れるこ
とができる。
流行や格好の良さは常に更新され
続け、巨大な渦が常に私たちを巻
き込もうとする。
先ほど人の把握できる人間の数を
150人と書いたけれど、それを一塊
とすると日本の人口1億3千万人な
ら、8500以上の集合になる。
とても認識できる量ではない。
そこでは個々人の個性などなんの
意味もない。
パターン化した行動やおりこみ済
みの嗜好があるだけで、私たちの
内的な必然性など考慮される余地
はない。
基底になるのは生きるために働き、
消費する人間の最低限の生活習
慣だけだ。
それは既に歪められ、自然との繋
がりを奪われて、巨大なシステムに
取り込まれている。
共通項からは、グロテスクな人間の
エゴしか見えてこない。
そこでは人間の善意は通じない。
個人が志を持っても、政治家が高
いスローガンをかかげても、何も変
わることはない。
世界の人口は約70億人、4700万
の150人の集団ができる。
気が遠くなるほどの膨大な数だ。
毎日見知らぬ土地から新しい情報
がやってくる。
栄光や悲惨、高揚や挫折が私たち
の目の前を通り過ぎる。
アフリカのこどもたちの惨状に心を
痛め、多少の寄付をしたとしても、
何もケアしたことにはならない。
そのお金で一時の食事や医薬品
や教科書が配られたとしても、結局
は商品経済に依存する消費者を
増やし、巨大なシステムを助長し
、地域との絆は失われていく。
スポーツ選手の活躍に心をときめ
かせ、その収入に驚きと憧れを感じ
ることもある。
夢を持ち続ければ実現すると、明
るい現実が提示されている。
それは確かに事実であるかもしれ
ない。
しかし真実であるとは限らない。
同じ時代を生き、苦境を乗り越える
カタルシスを感じさせてくれたとし
ても、私たちには無関係の現実だ。
私たちの知覚で認識できる150人
の範囲の出来事と、それ以外の情
報を区別して扱う必要がある。
その作業を怠ると、一瞬で自分の
居場所や何を求めているのかを見
失ってしまう。
知識によって人は物を精神的に所
有できるが、それと同時にその「物」
に縛られることになる。
「知」は現実を離れて飛び立とうと
し、しばしば足元がお留守になる。
そういう意味では人間と言う動物は、
自然の営みを忘れて暴走する、生
まれながらに呪われた性質を持つ
生き物であるかもしれない。
どうにか耐えられる日常を脱し、飛
び立とうと「知」を求めたのだろう。
しかし今、社会が巨大化し、本能が
置き去りにされていく世の流れにあ
っては、「知」の暴走は際限なく広
まっていく。
私たちは「正しい知」をちゃんとした
場所につなぎ止め、地に足をつけ
た生活を取り戻せるのだろうか。
そもそも「正しい知」などというもの
がありえるのだろうか。
私には「知」に頼っているうちは永
遠に安らぎはえられないのではな
いかと感じる。
人間を人間たらしめている「知」だ
が、絶対的なものではなく、むしろ
必要悪として限定する生活習慣が
求められていると思う。
自動車や電気と同じに、便利だけ
れどなるべく使わない方が、私たち
の生活の内実は豊かなものになる。
とりあえずの便利さや効率よりも、
手間隙かけても自分の生活を自分
で形作ろうという人は増えている。
個人主義にどっぷりと漬かっている
私たちが、完全に自然や共同体に
溶け込んで生きられはしないだろ
う。
それらの助けなしには心安らぐ生き
方ができないのはもちろんだけれど、
自分が何者であるかを追及する現
実を私たちは歩み始めている。
後戻りはできない。
本当に大切なものはそう多くはない
はずだ。
他者と出会い、余分な思い込みを
削り取り、洗い流し、譲れない最低
限のものを見つけ、育て、守ること
をどう達成するか。
人は常に進歩するものだと言う、近
代の人間主義のカルマを脱したと
しても、自分を特別な存在であると
感じる自意識のわなから逃れるの
は難しい。
多くの人にとっては、子どもを育て
ることがその有効な手段になりえる。
思い通りにならない時、成長をじっ
と待つ時、期待を上回る成果に喜
びを感じる時、私たちは人間の存
在の無垢な輝きと儚さと重さに向き
合い、自分に何が必要か思い知ら
されることになる。
そして、子どもは成長し、私たちと
同じように悩み、葛藤する。
手を貸すことはできない。
そして、年老い始めた私たちも、一
個の動物として次の世代を残すと
いう仕事の他に、自分には何が残
されているか問われることになる。
どう生き、どう死んでいくか。
このような時に、世界の圧倒的多数
の人々と自分を比べても何の答え
も返りはしない。
精神の永遠や魂の実存、神や宇宙
のエネルギーなどを感じ、信じられ
るかが問われるだろう。
それらはもしかしたら同じものの見
方を変えただけなのかもしれない。
選択するのは私たちなのだから、
その答えは自分の中にしかない。
何かを懸命に「つくる」と言う創造的
行為以外の、それを見つける手段
を私は知らない。
つくることは何より、楽しい。
誰にも邪魔されず、世の束縛を受
けずに自分の世界に入り、それを
展開することができる。
もちろん障害はある。
それによって、自分の世界での位
置を確認し、他者との関係も見え
てくる。
この材料なら、こうしたものがつくれ
るだろうが、違うものなら結果はこう
なって、価格はこう変わる。
品質や素材感、供給された場所や
時には作った人のことまでも感じ、
結果の作品の成果や他人が見て
どう思うかまで想像し、形なき物に
形を与えていくのは、極めて人間
的に高度な作業で、達成感と充実
感がある。
自分の可能性を試し、限界を思い
知らされることも多々あるだろう。
失敗や後悔も数限りなくあり、恥を
かくこともあるに違いない。
しかし、その全てが「私」なのだ。
成功だけが全てではない。
大きな会社の一部で製造にかかわ
ったからといって、つくっていること
にはなりえない。
最初の発想から、最後の結果まで
をやりきる喜びと覚悟と自信があっ
てこそつくることに意味が生まれる。
私たちがお付き合いしているお百
姓さんたちも、その充実があるから
続けている。
「場」と「時」を彼らは自分のものと
している。
自分なりに考え、工夫し、その結果
がよければ、誰にも文句は言われ
ない。
失敗したって、来年はこうしようかと
また次が想像できる。
食事をつくるのは消費だけれど、そ
こに創意や伝えようと言う気持があ
れば、つくることになりえる。
同じこともやらなければならないこ
ととするか、その中に工夫や創意
を盛り込もうとするかで、長い時間
の経過の中では、結果は大きく変
わってくるだろう。
物や作品だけでなく、人間関係も
あるいは自分の身体や精神も、「つ
くる」対象になりえる。
意思と創意を持ち続ければ、人間
には大きな可能性がある。
それはマスコミに取り上げられる社
会的な成功とは違うものかもしれな
い。
私たちがやっている晴屋は八百屋
であり、一小売業者だ。
流通や生産者に注文したものを、
消費者に売っている。
そこには何かをつくるという行為は
含まれていない。
しかし、この晴屋を始めた時の私の
思いは、自然の息吹や生産者の心
意気を届けたい、都市でそれがで
きなければ農村での本当の意味の
自然の維持や再生はできない、と
いうものだった。
そこでは直接物をつくるという行為
はないけれど、売ると言う行為によ
ってよりよい物をつくる人たちを支
援し、都市で暮らす人たちのつくる
喜びをかきたてるような物を届ける
と言う意味合いがある。
それまでになかった物の流れや情
報の流れを確立し、創意や工夫の
様子を相互に橋渡ししている。
けれど本来なら、流通や小売業な
ど無くてもいいかもしれない。
自給自足したり、消費者と生産者
が直接やりとりする方がよりよいか
もしれない。
ガソリンや電気料金、人件費などの
経費も発生する。
しかし、現実に都市と田舎が結び
つくのは難しい。
距離の問題だけでなく、生活感覚
や言葉の表現の違いもある。
晴屋をある種の必要悪であると認
め、痛みを感じる視点を持つことに
よって、私たちは辛うじてつくる側
に加担できていると感じている。
それには規模の問題もある。
前に150人が人間が把握できる人
数の限界かもしれないと書いたけ
れど、実際私個人が関わりを持っ
ている人数はそれくらいだろう。
その大きさを超えれば、私も晴屋も
つくる側には立てず、能率のため
に流されていくだろう。
今の世ではこうした自己規制の下
でしか、自分の位置や創意の継続
を保つことができない。
何をつくるかは、何かを諦めること
と同じだし、自分の人生を選択して
いくことに等しい。
晴屋はこれからも、つくる側に立ち
続けたいと願う。
世の片隅でそれを続けることが、
天才ではない私たちが、巨大なも
のに巻き込まれずに自分らしく生き
残れる唯一の道であるから。
それは晴屋だけでなく、多くの人た
ちにも通じることだと思う。
生産者や消費者と共につくり、共
に楽しむことができる間は、晴屋の
存在意義と寿命はあるのだろう。