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- 小さな宇宙の作り方 その1~13
小さな宇宙の作り方 その1
忙しさのわけ
毎日忙しい日々が続きます。
私だけでなく、日本中、世界中が
忙しくしていないのは罪悪だと思
っているようにさえ感じます。
ゆとりは贅沢なものであり、特別な
待遇や経済的豊かさの証として、
あこがれや優越の対象であり、人
生の目標となります。
純粋無垢な赤ちゃんとして生まれ
てきた私たちです。
全身で笑い、泣いて主張し、ありっ
たけのエネルギーを真っ直ぐに使
って生きようとします。
それなのにいつの間にか知識に
縛られ、純粋さを失い、汚れてい
きます。
いったいどうしてこんなことになっ
てしまうのか。
私たちはどう賢い消費者になって、
忙しく動き続ける存在になったか
を思い出してみましょう。
まず「働かざる者、食うべからず」と
いう言葉が頭をよぎります。
働かない人は生きている意味や
価値がないということでしょう。
「労働に貴賎はない」というのは、
倫理の時間に出てきた記憶があ
ります。
職業の種類にかかわらず、懸命に
働くことは素晴らしいことです。
しかしこれらのことは、自然発生的
に自分の体験から導かれた生きる
上での常識となっていたものと、
これが正しいこととして強制的に
植えつけられたものでは、形は同
じでも内実はまったく異なり、むし
ろ正反対になることが多くあります。
時間をかけ、本人の自覚と創意に
よって得たものでなければ、ひとつ
の教養やマナーとはなっても、生
きる指針とはならず、肝心なとき、
追い詰められたときには崩れて、
自分本位の行動しかできなくなり
ます。
時間をかけて、個性にあった成長
を待つ余裕やそれを育てる眼が、
教育や社会での関係の中で持て
なくなっています。
いかに早く、安上がりに従順な消
費者を育てるかに主眼がおかれて
います。
定期的におこなわれる「テスト」で
は、記憶の正確さと時間を能率的
に使う合理的な思考が数値で現さ
れます。
それに適合できない人は社会の
落ちこぼれという烙印が早々に押
されます。
科学技術の進歩や人間の教養の
素晴らしさが教えられ、それに従
っていれば明るい未来があると思
わされます。
そしてそれを得られるのは学校で
の教育以外にはないとされます。
学校の教育システムが示され、学
校にランクがあり努力すれば上へ
いけると教えられます。
得られるはずの幸福を示され、も
しそれに至れなければ、才能の欠
如か努力の不足であり、本人の責
任であると納得させられます。
そうして教えられたことに従順で、
テレビやマスコミに依存する賢い
消費者が大量に生まれます。
常に上を目指し、人間の内実でな
く、仕事の能率と量で人間の価値
が計られます。
本来は楽しみであるはずの食事や
余暇も、仕事の準備におとしめら
れ、やらなければならない義務や
労働の苦労の憂さ晴らしとなりま
す。
コンビニや交通機関が24時間営
業し、携帯電話でいつでも連絡が
とれ、パソコンで世界中の情報が
得られ、商品を注文できます。
便利になっているようで、実はます
ます多忙になり、時間と心を奪わ
れていきます。
これらは内部不経済という言葉で
表現されます。
効率を求めて巨大化したために、
かえって社会的コストが増大し、
ごく一部に巨大な利益を得る人が
いる一方、大多数の人は貧しくな
っていきます。
私たちはこの社会に生きている以
上、こうした教育やシステムを完全
に拒否して生きることは出来ませ
ん。
人口のうち、自然食品に興味をも
ち購入する人は数パーセントで、
そのうち知識や情報でなく、品質
への自覚や内実への理解で買っ
ている人は更に少なくなり、全体
の1パーセント位かと想像します。
圧倒的に少数であり、多勢に無勢
で、非力です。
私たち自身も弱い存在で、決して
完璧ではありません。
けれどこの世に生まれた以上は、
この場所で自分を発揮して生きる
しかありません。
世界全体は変えられなくとも、身の
まわりならよりよくできるのではない
か。
そうしたことを食べ物や自然、私た
ちの身体を通して考えていきたい
と思います。
小さな宇宙の作り方 その2
民主主義国家で生きる
私たちが暮らす民主主義の国。
国民の総意が国を動かし、大多数
の人が自由を楽しみ幸せに生きら
れるはずです。
けれど今、満ち足りて心静かに日
々をすごしている人はどのくらい
いるのでしょうか。
人間は仕事をする生き物として位
置づけられ、社会の一駒として責
任を果たすことを求められていま
す。
そこから抜け出し息抜きをする機
会として、ゴルフやリゾート、絶え
間なく流されるTV番組、ネットの
情報や現実を離れたゲームの世
界があてがわれます。
同時に社会が巨大化しシステムの
不備が増大して仕事のストレスは
より多くなり、ネットに拡散するクレ
ームを恐れて仕事はよりマニュア
ル化し個々の責任はますます重い
ものとなります。
その憂さを晴らすために、与えられ
た楽しみへの依存はより大きくなり、
ケータイやパソコンの新型、新しい
商品が次々と現れて私たちの前を
通りすぎ、それによって豊かになる
どころか心も財布も貧しくなってい
きます。
そのサイクルから逃れるためには、
自分独自の回路を持つ必要があ
るでしょう。
医療に頼らず自身の健康を保ち、
学校で教えてくれないことを学び、
心から美味しいと思えるもので生
活を形作る、そんな暮らしは可能
でしょう。
しかし個人の充実では対処できな
いものも多くあります。
原発や放射能、政治の荒廃による
暴力や戦争の問題を避けて通る
ことができません。
それにしても今回の参院選の自民
党の圧勝には驚かされます。
ほとんどの人が現状を良いとは思
っていないのに、見せかけだけの
とりあえずの景気対策と分かって
いながら自民党を支持するのか
不思議でなりません。
精いっぱい想像を広げてイメージ
を持とうとしてみると、今の暮らしに
執着し、痛いこと、疲れることを嫌う
人たちの姿が浮かびます。
この世に生を受けたのだから、どっ
ぷりと現状に浸かっていたいという
感じなのでしょうか。
確かに日本にはまだ良いものが
たくさん残されています。
他人を思う細やかな心遣い、自己
を犠牲にして人に譲る精神、労働
を尊いものとして地道に働く人を
評価する謙虚さなど、他の国では
あまり例がないようです。
けれどこれらは自民党が守り育て
たものではありません。
中央集権的な天皇制や幕藩体制
はそのまま明治政府に受け継がれ
ました。
しかしこれらとは全く異質な、地方
それぞれに根ざした暮らしが脈々
と受け継がれていました。
集落の寄り合いの話し合いでは、
全員一致を原則とし、一人でも反
対者がいれば、何日でも話が続け
られました。
ついに一致しなければ、これで話
はおしまいということになり各自の
自由となりました。
京都や江戸の都会的洗練とは違
った、その自然や土地に根付いた
確固とした暮らしがありました。
それは根強かったため、尊重され
一定の領域を形作って、中央の力
も立ち入ることは出来ませんでした。
こうしたものが日本人の、自然とと
もにあり他人を思いやる精神を守
り育てていたのです。
しかし明治以降の近代化とともに、
学校教育や過剰な医療、情報の
暴力的な洪水の威力で、生活手
段は画一化され、人間本来の自
立的領域はますます細々としたも
のになってきています。
自民党は保守として昔からのもの
を守るように見えながら実は破壊
者として、金と権力を手段と目的と
し、土建的な体質で日本を荒廃さ
せてきました。
工業製品を輸出するために、海外
の食料を大量に買うため、国内の
農産物の価格は押さえ込まれてい
ます。
補助金や助成金で農業を守って
いるよう見せかけながら実は農民
の地位を貶めています。
年金の破綻、国家財政の切迫、
原発の推進、これらは全て自民党
政権下で推し進められてきたこと
です。
そうした人たちが「美しい日本」「日
本をとりもどす」などと言ってとりあ
えずの景気対策で目先の夢を語り、
後世に借金や負担を押し付けてい
るのを支持する人が多いことが、
私には全く理解することができま
せん。
ましてや原発の再稼動を画策し、
誤魔化しの上塗りを重ね、選挙の
次の日に汚染水の漏洩を認める
など、こんな人を馬鹿にしたことが
まかり通ることに怒りを感じます。
政治が良くなったからと言って、そ
れで私たちが幸せになるとはかぎ
りません。
しかし、悪い政治や戦争、原発事
故では確実に多数の人が不幸に
なります。
今の私には、自民党が日本の守
護者ではないことを指摘することし
かできません。
かといって全面的に支持できる政
党があるわけでもありません。
どの政党でも選択できる政策の幅
は限られています。
しかし今回の麻生副総理の「ナ
チス発言」問題に示されるように、
自民党の反省なしには同じ過ちが
また繰り返されるでしょう。
けれど少なくとも私たちは、今を生
きる痛み、同じ時代を生きる人たち
の痛み、これから先を生きる人たち
の感じるだろう痛みから目をそらそ
うとは思いません。
この痛みを多くの人たちと共有で
きれば、日本の個性は保たれ、新
たな歩みを続けられるでしょう。
ここに生きる覚悟、変らずに続ける
意思といった精神的な働きがなけ
れば、根を失います。
人間は常に、個としての充実だけ
でなく、時代を見つめる厳しい眼
も求められます。
けれど知に流されず、今のひととき
を楽しむ悦びも欠かせません。
今の世の中で自分らしく生き、身の
まわりに等身大の小さな世界を築
きたいと願うとき、この厳しい眼と、
ここに生きる覚悟と、今を楽しむ悦
びの、同時にありながらいつも微妙
に立ち位置を調節するバランス感
覚が求められるでしょう。
それは難しい道ですが、厳しい時
代だから鍛えられる思想や生活形
態があります。
私たちの生活とは遠いところにあ
る政治の世界ですが、ひとたび大
きな出来事があれば全ての人が
まきこまれます。
やはり私たちの選択には重い意味
があります。
今の現状に苦味を感じ、辛い境遇
にいる人たちの痛みを感じ、それ
でも日々の懸命な暮らしの中に悦
びを見いだしていく草の根の強さ
が私たちの力です。
小さな宇宙の作り方 その3
好きと嫌い
最近、「好き」と「嫌い」について考え
させられる出来事がいくつかありま
した。
お客さんが知人を連れて店にやっ
てきた時、たまたまあった胚芽食
パンにシュレッドチーズをのせて
オーブントースターで焼いて試食
してもらいました。
時間があって、なんとなく閃いた
時にする、私にはごく日常的な行
為なので、食べたその人がその
チーズを買って帰ったのは自然の
なりゆきで、特に印象に残ること
ではありませんでした。
けれど後日そのお客さんがやって
きて、「あの人チーズが苦手で、
出てきたときはしまったって思った
らしいけど、あんまり美味しいから
買って帰ったの」と言われて、驚い
ていました。
嫌いなはずのものを美味しいと感
じ、さらに買って帰るとなると画期
的なことに違いありません。
それでもそのお客さん自身、こん
にゃくが嫌いで、こんにゃく好きの
ご主人は家でこんにゃくを食べる
ことができなかったのだけれど、私
に「騙されたと思って」と言われて
買ったこんにゃくが気に入り、食卓
にのるようになったといういきさつ
があります。
それには更に後日談があり、正月
にご主人の実家にいくと、こんにゃ
く好きと知っているお母さんがこん
にゃくの料理を出してくれるのだけ
れど、今までは美味しいと思って
いたものが喉を通らずに苦労する
ということも教えてくれました。
今まで嫌いなものを好きになり、好
きだったものが嫌になるという味覚
の嗜好の逆転みたいなことが起き
ることは確かにあります。
晴屋の店頭でも、人参嫌いの子が
晴屋の味の濃い人参なら食べたり、
蓮根が好きではなかったのにうち
の蓮根を食べて蓮根ファンになっ
たりという話はよく聞きます。
日本酒を好きではない人が美味し
いと思う日本酒、おこし嫌いが食
べ続けて止まらないおこし、蜂蜜
嫌いがはまる蜂蜜などなどあげれ
ば切りがありません。
本物にはみんなを納得させる力が
ある、と単純に考えていたのです
が、最近はちょと違う見方をする
ようになってきました。
ひとつには、好きと嫌いは正反対
ではなくとても近い感覚なのでは
ないかということです。
自分の感覚にひっかからないもの
は、どうでもよく、嫌悪感も起きま
せん。
嫌いと明確に感じるのは、好きと
紙一重で微妙な違いを強烈に感
じとってしまっているからでしょう。
これは食べ物より人間の好みをみ
ると明確に分かります。
嫌だと思う個性は、多分に自分の
中にある見たくないもの、否定した
いものだということはよくあります。
食べ物では本当はこうあるべきな
のに、違う一点が許せないのが
嫌いという感覚を起こさせます。
だからその一点をのり越して、物
の本質に近づけば好きになりえる
のです。
もうひとつはその感覚に固執して
いると、やがて感覚も錆びていく
ということです。
好きと嫌いは正直なその人のもの
で、否定するものではなく、生かし
ていかなければならないものです。
けれどそれに執着し、嫌いを遠ざ
け、どうして好きなのか、なぜ嫌い
なのかを追求していかないと、感
覚だけでなく心やからだ、魂まで
も腐っていきます。
そしてまた、他人のそういう状態は
私たちにたまらなく不快な感じを
起こさせます。
これは好きと嫌いということとは別
の嫌悪感ではあるけれど、やはり
自分にもそれに陥りそうなものが
あるからこそ感じるという意味では、
同じ根があるといえるでしょう。
私たちは毎日忙しい日常をおくり、
圧倒的多数のどうでもいいもの、
時折くるどうしても嫌なもの、ごくご
くたまにあるとても素敵なものに囲
まれて生きています。
自分にとって大切なものを守るの
は当然のことだけれど、それを固
定しようとするのではなく、日々新
鮮に向き合っていかないと、私た
ち自身も錆び、腐っていってしま
います。
腐敗よりは発酵の側にいたいもの
です。
感覚や私たちの存在自体をより
研ぎ澄まし、余分な物を取り去り、
成長を見つめ、熟成させていきた
い。
悪くなる一方の世の中でその片棒
はかつぎたくないし、自分自身の
持って生まれた感性を生かしてい
きたいと思います。
それには好きと嫌いをいつも静か
に見守り、その微妙なうつろいや
変化を見極めて、自分の体調や
年齢、世の関わりや天候の影響
などを感じ取りながら、日々の送り
方を決めていかなければなりませ
ん。
だれも教えてくれない、だれも代り
にはしてくれない、この作業をき
ちんとこなしていかないと、本当に
生きることにはならないでしょう。
小さな宇宙の作り方 その4
プライドと誇り
整体法の野口晴哉が残した言葉
でとても印象に深いものがあります。
「不快によって生じた快は、常に
不快の支えなしに存在できない」
というものです。
はじめ見たとき、まったく意味がわ
かりませんでした。
暫く反芻し、考えをめぐらして、こ
れはとんでもないことが書いてあり、
私など足元にも及ばないような人
間への理解によって生み出された
言葉だと理解しました。
世の中にある無駄で、雑多で、余
分なことのほとんど全ての本質を
いい当てているのです。
私はこんな風に解釈しました。
人は育つ過程で様々な傷を負い
ます。
修正でき経験として生かせるもの
から、致命的で身も心も本来の輝
きを失ってしまうものまで色々です。
無垢で汚れないけれど、大人の
保護なしには生きられない赤ちゃ
んとして生まれてきた私たち。
全身で表現する喜びや、安らかな
寝顔は私たちをひきつけます。
大人は本能的に面倒をみようとす
るし、赤ちゃんもそれを当然のこと
として受け入れます。
勘のよい親なら何も言わない赤ち
ゃんの要求を充たし、赤ちゃんは
人間や周囲は自分を受け入れて
いると感じ、信頼し、まっすぐに向
きあって育ちます。
泣いて要求を表現しても、それが
充たされれば泣きやみ、要求すれ
ば応えてくれると感じます。
泣いても全く充たされなければ、
誰も自分を顧みないと感じ、それ
でも生存のために過度に要求を
表現するようになり、満足し、充ち
足りるという感覚を知らずに、必要
以上の欲求をするようになります。
本来は親の注意を集めたいだけ
なのに、大げさな素振りで泣きわめ
いて、次から次に欲求を募らせます。
こうしたことは2歳くらいまでの間
に起き、その人の人生の方向を決
めてしまいます。
潜在意識に入ってしまうので、修
正は極めて難しいのです。
とても怖いことです。
その後も学校の教育や友人関係、
ゲームやテレビなどの影響で、私
たちは恐怖心やコンプレックスを
植えつけられ、本来の自分を見失
い、不満を感じながらも世のシステ
ムに組み込まれていきます。
そうした心の傷を、整体では心と
身体はいっしょのものなので身体
の傷でもあるけれど、持つ私たち
が求める快というものが、その傷を
埋めるためにあり、そのことによっ
て不快を当然のものとして認め、
欠かせないものとして不快を強め
ることによって、更に欲求も強くな
っていくという負の連鎖、終わりの
ないカルマに陥っていくということ
をこの言葉は伝えています。
ここまで人間の根本を一言で伝え
る野口晴哉の天才に感嘆するとと
もに、脱出も不可能なことではない
という一縷の希望も感じることがで
きました。
ここでやっとプライドの話になります。
「プライド」は日本語に訳せば、「誇
り」になるけれど、私たちにはずい
分と違うものに感じます。
誇りというと謙虚さや自分を静かに
見つめる内省的な視線をイメージ
させます。
けれどプライドというと、気位の高さ
や自尊心というような、外に自分を
認めさせようという自意識を強く感
じます。
そして私たちが何故プライドを持つ
かというと、心の傷を補うために他
ならなりません。
それは親に振り向かれない反動と
して、要求を見失い満足すること
ができなくなり、際限なく刺激を求
めるためかもしれなません。
学校での成績のランク付けで劣等
感を植え付けられ、それを充たす
ためにブランド品や資格などを得
ることで自尊心を充たし、優越感を
えるためかもしれません。
窮屈な日常を逃れる手段として、
流行やドラマ、ゲームの世界など
に救いを求め、自分や周囲に向き
合うことなしに、安易な生活を正当
化するためであるかもしれません。
いずれにしろ傷の痛みを忘れ、
本当の自分の要求に向き合うこと
なしに、分かりやすく、世の中で認
められたもの、ブランドや権威や
流行に寄り添うことで、安心感をえ
ようとしています。
前回書いた「好きと嫌い」にも当然
プライドによる嗜好が混じります。
だからこの連鎖から脱出するに
は、自発的に自らの要求に向き合
う必要があるのです。
他人からいくら言われてもプライド
の高い人は自分の非を認めないし、
プライドの高さも当然のことと思って
います。
彼らにとっては、それが自分の原
点と思い、正当性を主張できると
信じているから。
優れた理念や、強い知性によって
も変えることができません。
子育ては真剣に子どもと向き合い、
こちらの存在をかけて共に生きれ
ば、いっしょに育つものがあり、よ
い機会となるでしょう。
整体法では「活元」という無意運動
を誘導し、自立性を回復すること
によって、傷をのりこす力を得る
手助けをしています。
怪我や病気は決して偶然ではなく、
その人の内的な要求や必然性で
おきるというのが整体の立場です。
「怪我」は我を怪しむと書きます。
傷を追ったとしても、それは自分の
せいではないかといぶかるべきと
いうのがその言葉の由来です。
そしてこの視線と姿勢が、「プライ
ド」と「誇り」を分けるものとなります。
西洋と東洋の個性の差ととらえる
こともできます。
ブランド志向、流行への追従とい
うことばかりでなく、いじめ、モンス
タークレーマー、虐待などの個の
問題から、現実への不満のはけ口
としての他の民族との諍い、戦争
にいたるまで、このプライドに関わ
る同じ根でおきています。
自身が負っている傷を他者に負
わすことを厭わないこの連鎖を広
げる側に加担するか、その輪から
できるだけ身を離し赤ちゃんのす
こやかさを守る側にいるか、ひとり
ひとりが問われています。
誰もがプライドと誇りという一見同じ
ようにみえ、実は反対の性格をも
つ両側面を持っています。
自分の中にどの価値を認め、育て
るかで、長い時間の間にはずいぶ
んと違った人生となるでしょう。
プライドの高い人がその価値感を
押し付け、認めさせようとしてくるこ
とは私たちの日常にもよくあります。
欠点の指摘や否定は受け付けま
せん。
そして、馬鹿にされたり、ぞんざい
に扱われることに、過剰に反応し
ます。
そうした人の生き方を変え、本来
の個性を持って生きるように導く
には、まず認めることからはじめな
くてはなりません。
それも本人が認めて欲しいと思う
ポイントよりも深い部分を認め、権
威や外からの価値ではなく根本に
ある生きる素朴な感覚を目覚めさ
せ、呼び起こし、個性を引き出す
必要があります。
それを理屈として諭すのではなく、
共に生きる感覚で伝えいっしょに
変っていく覚悟が必要でしょう。
そこまでの覚悟がその人に持てな
いのだったら、敬して遠ざけるしか
付き合う方法はありません。
晴屋は、美味しいもの、感覚を呼
び起こすもの、本来の個性を取り
戻す手段になるものを提供するこ
とで、負の連鎖から抜け出すきっ
かけや手助けになりたいと思って
います。
この世の中ではまったく微力なの
だけれど、平凡な私たちにできる
最大限のことが、世の流れから距
離を置き、価値観の近い人たちと
共に生きるための食べ物や情報
を提供することです。
プライドに凝り固まり、感覚を鈍らせ
て何かに執着する人を見るのはと
ても不快です。
心と身体を柔らかく保ち、伸び伸び
と生きている人に、快感を覚えます。
音楽や芸術は正にそうしたもので
しょう。
私たちがその感覚を失わない限り
この世にはまだ生きる意味がある
と思うのです。
小さな宇宙の作り方 その5
音楽の力と二面性その1
音楽には不思議な力があります。
聴くその場でその瞬間を楽しんで
いながら、心はその場を離れて飛
翔し、過去やまだ見ぬ世界、永遠
までも感じさせます。
疲れを忘れさせ、新たな意欲を引
き出す一方、深い感動で身動き
できなくなったり、涙さえも流させ
たりします。
ただの空気の振動でしかないもの
が、私たちの心の奥底まで届き、
作曲者や演奏家の創意、工夫だ
けでなく、微妙な心のうつろいや
深い情動まで映し出します。
私たちの心をゆり動かす美しさも、
一瞬も踏みとどまることなく、形も
とどめずに空中に消えていきます。
瞬間でありながら永遠であり、心に
強く明確なイメージを作るのに形が
なく、全体として調和しているのに
新たな動きがひそんでいるといっ
た、対照的な二つの側面が常に
同時にあります。
この二面性が、最近私の心をとら
えています。
単純な構造の私にはすべてを捉
える力がないといえばそれまでな
のですが、それには還暦を過ぎて
の私の人間や社会への認識の変
化も関係しています。
今まで私は個としての人間という生
き物に対して、アメーバーのような
イメージを持っていました。
状況や欲求によって形を変化させ
自分の世界を作っていきます。
フロイト的なエロス一元論よりは、
多元的な動機でさまざまに形を変
えていく、活動的な微生物のような
イメージです。
社会もそうした微生物が全体として
調和した世界を作る、いわば有機
農業の世界の土の中の相互の支
えによって、少宇宙が充実し、大き
な世界もまた満ちたりているイメー
ジです。
それにどれだけ現実の世界が近
づけるのかというのが晴屋のテー
マだと思っていました。
しかし残念ながら世界や周囲の
状況はますます悪くなる一方で、
出口や解決の糸口はみえません。
歳をとってきたので、こうであるは
ずだとか、いかに理想に近づくか
を追求するエネルギーや力みもも
てなくなってもきました。
そうすると人間や社会のイメージが
変り始め、多層的で多面的なもの
として感じるようになってきました。
歴史的なものや社会の構造といっ
た大きなものから、気候の変動や
それにともなう身体の変化、世界
から押し寄せる情報や私たちを
具体的に形作る食べ物、生まれつ
きの個性などが複雑に積み重なっ
て人間や社会を作っています。
それは層というよりは、波動に近い
かもしれません。
互いに絡み、影響しあいながら自
分の世界を持っています。
粒子という個々別の存在よりは、
波として揺らしあっている感じです。
複雑な場では、絶対的なものは
存在できず、多くの価値が混在し
ています。
こうした中で力を発揮する音楽が、
多元的というより二面性を持ってい
るということにとても興味を感じるの
です。
バッハは教会が絶対の中にあって
厳格な神の摂理を音楽の中に求
めましたが、そこにはいつも新鮮な
悦びがありました。
峻厳と愉悦という対照的な二つの
ものが両立しています。
刹那的な快感と上品な哀愁をあわ
せもつのがモーツァルトです。
ベートーベンでは粗野で素朴な
情動と、知的に洗練された精神の
力を同居させています。
言葉で表せば矛盾しているとしか
いえないものが調和し、私たちを
魅了し、新たな世界を切り拓いて
いくという現実にあらためて驚きを
感じてしまいます。
もちろん芸術である以上、自分を
いかに表現するかということと、そ
れが相手にどう伝わるかというふた
つの別な側面は常に考えられ、鍛
えられているでしょう。
それでなければただの自己満足
か技術のひけらかしになってしま
います。
しかしそれは音楽だけでなく、他
の芸術分野でもいえることです。
とりわけ音楽にこうした二面性を
強く感じるのになぜなのでしょ
うか。
小さな宇宙の作り方 その6
音楽の力と二面性その2
とりわけ音楽にこうした二面性を
強く感じるのになぜなのでしょ
うか。
こうした疑問を持ちながらしばらく
反芻を続けるうち、突然に別の方
角から道が拓けてきました。
音楽は完全な世界を現しているけ
れど、言葉には何か欠陥があって
不完全な世界しか提出できないの
ではないか。
人間は知性によって自分の世界
を拡大してきました。
新しい食べ物、食べ方を考え、住
む場所を拡大し、言葉によって知
識を伝え、蓄積してきました。
今や言葉によって規定された世界
が自分の世界だと思い込んでい
ます。
名前、出身、学歴、趣味、そして
希望や絶望も言葉として心にとど
まります。
しかしそれは本当に自分なのでし
ょうか。
言葉による規定はものごとを能率
的にとらえ、知識の拡大には役立
ちますが、必ず反対の作用もうみ
だします。
天使と同時に、悪魔が誕生します。
敬虔で誠実であろうとするジギル
博士の内側に、残忍で邪悪なハ
イド氏が宿ります。
自分の民族や宗教に対して誠実
であろうとする極端な行動が戦争
という悲惨をうみます。
弱者への思いやりとしておこなわ
れる援助やケアが、経済のグロー
バル化をおしすすめ、より大きな
搾取と経済格差を生みます。
もちろん私たちは人間として言葉
を捨て去ることはできません。
矛盾を感じながらもともに生きてい
くことしかできません。
けれど言葉を絶対的なものとして
信頼することもできません。
政治家の発言を真にうける人はま
ずいないでしょう。
哲学者たちの言葉に本当に力が
あるのなら、世界はとっくに理想郷
となっているでしょう。
この世界の矛盾や混沌が自然で
あり、純粋にすくいとったものには
魅力があっても毒を含んでいると
言ったら言い過ぎでしょうか。
こうした世界で音楽は引き裂かれ
た両面性を統合し、完全な自足と
自由を与えてくれます。
自分を取り戻し、新たな課題へと
取り組む意欲をよみがえらせます。
過去の作曲家たちも必ずしも恵ま
れた状況の中で暮らしていたわけ
ではありません。
意欲と状況との葛藤の中で、必死
に紡いだものが形となり、内実を伝
え私たちを感動させます。
ですから音楽であれば何でもいい
というわけではありません。
音の間や響きといった微妙なニュ
アンスを含まないものは、ただの
刺激的な音の羅列にすぎず、私に
は暴力としか感じられません。
そうして今の世にはそうした苦悩や
葛藤などの人の営みをふくまない
単純で扇情的なものが多く出回っ
ています。
言葉がすべて一面的で多様性を
否定しているかというともちろんそ
んなことはなく、私たちの眼と感覚
を拓き、日常の意味をきちんと伝
えるものもあります。
例えば「バッハの峻厳と愉悦」とい
うとき、「峻厳と愉悦」こそバッハで
あり、他の物は違うと思い込めば、
固定化した観念はまた心のうちに
補償するための何かの欲求が芽
ばえたり、その言い訳として新たな
固定化を求めたりします。
けれど「峻厳と愉悦」という言葉で、
新たな発見があり、それによって
想像力を広げることもできます。
そうした言葉は暴力的な断定があ
りません。
文章の間や表現の跳躍でその人
の精神の働きを伝えます。
私たちは巷にあふれる分かりやす
い断定や見せかけの思いやりなど
に装われた言葉や音楽から本当
によいものを見つけ出す作業を強
いられます。
生きるのが難しい時代の中にわた
したちはいます。
整体法の野口晴哉は「生きるのに
意味はない。ただ生きることにのみ
意味がある。」と言い切りました。
多少の反発を感じつつも、人間と
してより高みを求めたり、理想を追
求するという今までなら当然と思っ
ていたことが、自分を狭いところに
押し込める自己満足という逃避と
うらはらであると認めざるをえません。
世の中のこんなにひどい状態を
容認しているのも人間ですが、そ
れでも多くの人が正気を失わず誠
実に生きているということが奇跡的
であり、人間の素晴らしさの証でも
あります。
真実はどちら側にもなく、中間にも
なく、この現実だけがあります。
音楽の助けを借りながら、出会っ
たものに向き合い、自分らしく生き
ていくこと以外のことは私にはでき
ないでしょう。
ここには大きな希望や理想はあり
ませんが、虚無や絶望もありません。
さまざまな情報が私たちの眼を眩
ませます。
人間の特権として生きることが保証
され、いつまでも若々しい見かけを
保つための商品の宣伝が次々に
流されます。
老いていくことにもひとつの価値が
あるという文化を育てなければ、
生きることの本当の充実をえるこ
とは出来ないでしょう。
この時代に生まれた私たちには、
それを達成する可能性が含まれて
いると思うのです。
小さな宇宙の作り方 その7
イメージと人生のモデル
子どもは大人が認める方向に育ち
ます。
いたずらをした時、悪い児と言え
ば自分は「悪い」と思いますし、頭
がいいんだなと認めれば頭を使う
快感を意識します。
テストの成績が良かった時、点数
や順位を褒めれば人を蹴落として
も上へ昇ろうとし、勉強が好きなん
だと認めれば知識を深める楽しみ
を見いだします。
同じことが、与えられるイメージによ
って、まったく異なる結果をもたら
します。
そういう意味で人間はイメージによ
って形作られていると言っても、い
い過ぎではありません。
大人になってからも、自分が選ん
だイメージを自分とかけ合わせ、
現実の自分でなく、自分が自分だ
と思い込むイメージの自分を認め
させようとします。
芸能人やテレビののキャラクターを
現実に演じようとしている人たちを
多くみかけます。
そこまで露骨でなくても、私たちの
内側には雛形になるような人間像
が必ずあります。
キリストや仏陀などの純潔で孤高
の人格や、学校や教団で教えられ
る権威としての人間像、本やアニ
メに登場する架空のパーソナリテ
ィなどが、人間の理想像を提供し
ます。
私たちはそうしたイメージと現実を
照らし合わせ、そこから類推し、予
想して判断を下します。
これらのことを無意識に瞬時にこ
なしてしまう人間の脳というものは
本当にすごいものだと思います。
しかしスーパーコンピューターをも
上回るような高性能であるため、か
えってその力を制御できず、頭の
暴走に自分を忘れることも多くあ
ります。
それだけにどんなイメージとしての
人間像を持っているかで、感受性
の方向は大きく左右されます。
私たちがどんなイメージを持って
いるか見直すことが自分を知り、
個性を生かすのに役立つでしょう。
もう古い人間である私の中に浮ん
でくるのは「良識ある市民」モデル
です。
本によって知識を蓄積し、円熟し
て則を越えず、調和した豊かな世
界を代表しています。
しかし「市民」というとき、私たちは
「市井の人」というような庶民的な
イメージを持ちますが、ヨーロッパ
での本来の意味は城壁の内部に
住むことを許された特権的な人々
を指しています。
それが市民層の台頭により多くの
人たちの権利として認められ、拡
散することで薄まりながら万人のも
のとなっていきました。
今日でもヨーロッパやアメリカには
依然として階級が存在し、名目上
の自由とは別のルールが存在しま
す。
そういう意味で尊大で、かなり上か
ら目線でもある人間像です。
産業革命によって物資的豊かさを
えて社会の規模が拡大した時に
うまれてきたのが「やり手の営業マ
ン」モデルです。
スマートで、機転がきき、世の中を
うまく泳ぎ回って、自分の欲求を
実現していきます。
昔のアメリカのホームコメディーに
は良くでてきたタイプですが今は
パロディ的にしか扱われません。
未だに私たちの中には仕事人間
としての残像はあります。
それとほぼ同時に現れているのが
非現実の権化ともいうべき「スター」
たちです。
映画やスポーツ、ポップミュージッ
クの数多のスターたちが個性を主
張し、強さ、華やかさを競い、現実
から離れた虚構の世界を万華鏡
のように写します。
憧れや希望によって現実の重苦し
さを忘れさせるカタルシスの効果
は絶大です。
流行に自己投影して憂さを晴らす
のはその時代に限ったことではあ
りませんが、マスメディアの影響で
個人から社会的な傾向となりまし
た。
そして「ビートルズ」モデルで極限
に行きつきます。
みんな自由に何をしてもいいんだ
と主張し、個の力が世界を変えると
発信します。
映像やレコードで多くの人に感動
と共感を与え、社会の色彩を変え
ました。
創意やひらめきだけでなく、幼児
性やエゴまでも認めるべきものとな
ります。
個を発信することが自由な風潮は
一方でモンスタークレーマーも生
むことになりました。
世の混乱は増すばかりです。
もう一方「ニヒリスト」モデルもいつ
の世にも存在します。
全ての価値を否定し、何も頼るべ
きものはないというこの立場は、厭
世的な気分に浸って逃避するか、
何をしてもいいんだから勝手をす
るという二つの傾向に分かれます。
現代ではオタクやテロリストに収斂
していきます。
「農耕民」モデルもあります。
特に日本では、京都や江戸のお
上には統御できない独特の地方
の生活形態や文化がありました。
例えば集落の寄り合いで話し合い
で決めようとするとき、ひとりでも反
対者がいれば延々と話が続き、数
日に及ぶこともありました。
多数決ではないある種の民主主
義は、自然と人との調和と連帯を
前提としたものでした。
大地から離れて暮らすことを余儀
なくされている私たちですが、大き
な災害時にも暴動にならず、自然
を恨んだりしない穏やかさの内に
は、こうした傾向がまだ残されてい
ると感じます。
その他のモデルも多くあり、雑種
や変種も多数あります。
ここまでのモデルは何らかの価値
を前提にしています。
現代では価値ではなく、行動パタ
ーンのみが求められているように
感じられます。
「キャラ」という概念で、一つの個性
としてそれを演じることで、社会や
属するコミュニティで居場所を見つ
ける感覚です。
今の漫画やドラマではストーリー
よりも、どれだけ個性的な「キャラ」
を多く描いているかがヒットの要素
なのだそうです。
常に演じるべきキャラを探している
のでしょう。
自分が何かを演じている感覚でし
か世界とかかわれないというのは、
どんな気持なのか理解するのが
とても難しいのですが、ゲームの
世界に限りなく近い孤独や断絶を
感じます。
私たちの頭も中には多くのイメー
ジがあって複層的に重なり、顔を
出したり、意識下で方向付けをし
ながら反応や行動を導いています。
小さな宇宙の作り方 その8
人生の価値
しばらく前から頭の片隅にいつも
ある言葉がとぐろを巻いています。
「人生には生きる価値があるのか」
という命題です。
還暦を過ぎ、歳をとりつつある私
には今やっていることを維持する
だけで精一杯で、それ以上の価値
を人生に求めようとは思いません。
けれど若い世代や世界の状況を
見るとき、人類には生きる価値が
あるのだろうかと考えさせられてし
まいます。
生きる価値とは、そのために生きる
目的を見いだし力を出しきること
ができ、またそのために死ぬことも
できるような普遍的なイメージです。
わたしたちと世界とのつながりは
失われ、世界中から集る情報はど
こか空々しく、個人の力量では世
の中を少しも動かすことができませ
ん。
この分断は生まれつきのものでは
なく、成長の過程で強いられたも
のです。
産まれたての赤ちゃんは喜びに
溢れ、全身で喜怒哀楽を表現しま
す。
この時、感じることが世界の全てで
あり、世界と自分は一体です。
しかし要求が充たされなければ、
親や、人間や、社会は
小さな宇宙の作り方 その8
安全と知識といのち
馴染みのないお客さんで農薬の
使用回数や産地がどこか聞いて
くるひとたちがいます。
産地の質問は放射能を気にした
ものでしょう。
子どもを育てるもの、命を預かるも
のとして、安全性を確認するのは
今の世の中では当然のことと思い
ます。
けれどその一方でどうしても釈然
としない気持が残ります。
正当な態度と認めてはいても、そ
れだけを絶対的な基準とするのに
は抵抗を感じます。
それはいったいどうしてなのか。
手が届かない答えを無理には求
めず、長い間ずっと静かに見つめ
てきました。
それはタブーのようなもので、それ
に触れると、相手も自分自身も傷
を負うに違いないと感じていたか
らです。
けれど最近気持に変化がでてきま
した。
放射能の測定は続けていますが、
20Bq/kg以下不検出という基準
を超えるものはなくなりました。
こうした現状への安心感もあって
私の身体が反応して、「これは
おかしい、いのちに対して失礼な
ことだ」と訴えるのです。
食べ物や野菜に何を見、何を求め
るのか。
ただ単なる物として見るなら、安全
な方がいいに決まっています。
けれどひとつのいのちとして、また
生産者や自然と連なるものとして
みるなら、そう簡単に割り切ること
はできません。
もちろん安全性を確保していると
いう互いの信頼の上になりたつこ
とですが、野菜を選ぶ基準がある
としたら、何より美味しさです。
美味しいという感覚は、身体がこれ
は良いと肯定しているからです。
必要な栄養があり、嫌なものが無
く、いのちを育むものを備えている
証しです。
農薬の使用数や産地だけで野菜
を選ぶとき、この感覚を切り捨てて
います。
本来あるはずの自分に必要なもの
を自分で選ぶ感覚を知識によって
鈍らせ、いのちを守るのとは反対
の方向に向かっているのです。
作った人や野菜などへの感謝が
なければ、自分のいのちを大切に
することもできません。
確かに私たちはこの感覚を失いが
ちな状況に置かれています。
本当にいのちの力にあふれたもの
は手に入りにくく、その体験なしに
生きる人が増えています。
またマスコミやネットからの情報は
あまりに多く、その結果かえって
本来のものや自分に必要なものを
見失ってしまいます。
膨大な情報を前に判断をあきらめ
てありきたりのものでよしとする盲
目的楽観主義や、すべてを疑い
の眼で見て特定の情報にのみに
身をよせる埋没的悲観主義の両
端に分断されがちです。
わたしたちはそんなことに取り込ま
れ、自分自身を見失うために生ま
れてきたのではないということは、
言うまでもありません。
知識は私たちの世界を広げます
が、それによって私たちを取り込み
ます。
知識も物も持つことによって所有
され、方向と限界が決められます。
けれど美味しいという感覚、これが
いいという感覚は他の誰のもので
もありません。
知識や頭で作った快感ももちろん
ありますが、その検証をすることも
ふくめて、美味しい、心地よいから
すべてがはじまるのがいのちです。
個性を育み、発展させ、余分なも
のを捨て去り、脱皮してよりよいも
のを目指します。
この感覚を持つ人をみると同じい
のちを持つものとして心地よく感じ
ますし、それを失っている人に不
快を感じます。
赤ちゃんの無垢な感受性やからだ
全体で要求する素直さ、自分を鍛
えて歳をとり多くを知りながらそれ
にしばられない老人の天心などに
心惹かれます。
こうした感覚のつながりを少しでも
広めていく以上のことは、平凡な私
たちにはできません。
けれどこれほど大切なことはありま
せんし、今の世の中で達成するの
はとても困難なことでもあります。
だからこそ、生涯をかけて取り組む
意味のあることだと思うのです。
否定から肯定は生まれません。
何かを生かし、育てる側になりたい
と願うのは私だけではないでしょう。
美味しいは生きる悦びであり、い
いのち同士がつながる暖かさです。
食べることは食「欲」というだけで
なく、他のいのちとつながる要求
なのです。
小さな宇宙の作り方 その9
欲求と要求
人間は達成できるかどうかぎりぎり
の困難さを持った課題を与えられ
て生まれてくるというある種の運命
論を信じている私だけれど、それ
が自分にとって何なのかということ
になると、齢を重ねた今となっても
まだよく分かってはいません。
天才というのは人並み以上の力量
を持っているだけでなく、早くから
その課題を見つけて取りくみ成果
を挙げている人たちです。
私たち凡人がこれを達成できたら
生きる証しを明確にえられると納得
できるものを見つけるのは難しい
ことですが、多くの人たちが何かを
求めて努力し、見知らぬ何かを求
めてさまよいもします。
求めることの二つの側面、欲求と
要求は区別がつきにくいものです
が、それを分けるのは自分に本当
に必要なのか、そうでない余計な
ものかという視点です。
内からの求めに応じて自然に生ま
れ果たしていき、その結果に後悔
を含まないものが要求です。
何らかの知識に惹かれ目新しさを
求めたり、内なる傷みをごまかすた
めに次々に求めて、決して満足を
得られないのが欲求です。
この世界は「欲」にあふれています。
刺激的な言葉と断片的でセンセー
ショナルな映像で、私たちは世界
中の様子を瞬時に知ることができ
ます。
マスコミやインターネットの威力は
私たちに否応なしに事実を受け入
れさせ、自分の無力を思い知らさ
れます。
事実を伝えるものとしてそれらを信
じ、同時にやってくる便利な商品
の情報や猥雑な現実を超越した
ように見える格好の良さ、ゲーム
やドラマなどの刹那の虚構に束の
間の救いを求めます。
悲惨で痛ましい現実を提供して、
「恐怖」や「コンプレックス」、「責任」
が植えつけられ、巨大な産業が私
たちを取り込んで、数とお金に換
算しています。
私の愛するオーディオの世界でも、
次々に新しい技術が開発され、新
製品がもっともらしく宣伝されます。
けれどいまだに最高峰は、古のア
ナログのLPの音です。
柔らかいのに奥深く、微妙なニュ
アンスにあふれ、音や演奏者と一
体となる感覚があります。
しかしそれを極めるのには膨大な
エネルギーと時間が必要です。
信じている常識を覆し、知識を疑
って自分自身と戦わなくてはなりま
せん。
余分な物を削り取って、ボタンのか
け違いを正し、それではじめて欲
求と要求を区別することができるよ
うになります。
メーカーや評論家、マスコミの言葉
を信じているうちは「欲」から逃れる
ことはできません。
これはオーディオだけに限ったこ
とではないでしょう。
自分だけのものであり、分かつこと
のできない感覚であるはずの「食」
も産業化され、欲望の対象となっ
ています。
欲求と要求は求める瞬間には区別
つきにくいのですが、得られる感覚
はまったく別です。
欲求は口や頭に響き、刺激的で
冷たく固い感じで、すぐに新たな
刺激を求めたくなります。
要求が充たされると、お腹や胸に
響き余韻が残り、柔らかく、暖かい
感じが続きます。
目先の感覚に溺れずに、自分に
とっての「快」は何なのかを見つめ、
向き合って自らを育て、鍛える作
業を続けていかなければならない、
大変に難しく厳しい時代を私たち
は生きています。
小さな宇宙の作り方 その10
プロと仕事
イヴァン・イリイチという人がかつて、
社会への見方が変わるような提言
を多く残しました。
大変に頭が切れる人で、いずれは
法王になるだろうと目されていまし
た。
物事の本質を見極め、それを的確
に表現して私たちに示しました。
それは社会のシステムから離れ、
一人の個人として社会や神といか
に向き合っていくかを追及したもの
でした。
そのイリイチが1970年代を評して、
「プロフェショナルの時代と呼ばれ
ることになるだろう」と予言しました。
残念ながらそれは外れてしまって
います。
状況はより悪くなっているのに、今
だに多くの人がテクノロジーやシス
テムを信奉し、それから離れること
ができないでいるからです。
厳しくものごとを見つめるイリイチ
にとっては、多くの人たちがそれほ
どまでに自由を奪われていること
に寛容だということが考えられない
ことだったのです。
「プロ」という言葉は良い意味に使
われることが多いように感じます。
社会の中である専門分野の責任
を果たせば、その範囲内で権力を
持ち、当然のこととしてコストを請
求できる人たちのことです。
その存在を絶対化することで、能
率を重んじる分業化とお金の価値
を重んじる産業化がより押し進め
られます。
個人のあり方が問われることなく、
私たちは否応なしに社会の一駒
となり、狭い範囲で同じことを繰り
返していくことを求められます。
けれどこのような極端な状態は西
洋でもせいぜい200年ほど前から
で、モーツァルトの時代には本業
は肉屋で必要な時だけホルンを演
奏するというのは当たり前のことで
した。
日々の暮らしと芸術や得意分野が
別のものでなく、ひとつのものとし
てあったのです。
プロとしてひとつの専門分野を極
めたいという欲求も理解はできま
すが、それによって失われるもの
も多くあります。
また日本には特殊な感覚も根づ
いています。
職業に貴賎を与えず、黙々と働く
人を評価するのです。
西洋社会ではただ黙って働く人を
能力の無い人と見なします。
ですから私たちが「プロ」という言
葉にこめるニュアンスは単なる専門
家でなく、熟練し、その道のすべて
に通じた完全な人となります。
現実的な利害や力関係と、理念的
な精神性の区別が私たちには曖
昧なものとなっています。
そのゆるさが、日本の良さ、すごし
やすさの一因ですが、一方で相互
依存や個性の抑圧にもつながりま
す。
日本ではクールに割り切るのは、
反社会的なことなのです。
こうした風潮はもちろん変わりつつ
あります。
ノスタルジーにひたって過去にし
がみつこうとしても、何もえるものは
ありません。
一方能率や利害だけを求めて、す
べてをお金や数字に換算する世
知辛さや、クレームを恐れてのマ
ニュアル絶対の世のあり方に加担
したくもありません。
プロフェッショナル=専門家という
形式ではなく、熟練や達成の満足
度で物事を計る文化や社会の形
成が必要です。
数字に現せない、客観的に伝える
ことができないものは、小さくて多
様なものとなります。
社会で果たさなければならない責
任と、生きる上で自ら負っていく責
任を区別して生活を組み立ててい
くことが求められるでしょう。
小さな宇宙の作り方 その11
責任の感覚
責任というものほど、人間を疲れさ
せるものはありません。
任されて結果に対してすべての責
務を負うというのが責任です。
普通は社会の中で何かを背負い
ます。
個人に任されていながら、相手は
社会全体なのですから、プレッシ
ャーは相当なものです。
それだけ私たち人間は社会的な
生き物なのだなあと改めて思い至
ります。
その社会で生きてゆくには、法律
やルールを守り、他人に迷惑をか
けず、社会の権威を認め、仕事を
して自身の力で生活していく「責
任感」を持たなくてはならないと教
えられます。
それができなければ社会的に価
値のない人間と判断されます。
責任感の強さは人によってまちま
ちですが、その人が持って生まれ
た集中力に比例しています。
人間は集注(一生懸命頑張ること)
と、鬱散(開放し弛むこと)の二つ
の力のバランスと波によってなりた
っています。
弛みきることがなければ完全な集
注は出来ませんし、頑張って力を
出し切らなければ本当の脱力もあ
りえません。
ですから集注と鬱散は表裏一体
のものです。
けれどその人の個性はどちらかに
集約されています。
集中力の強い人にとっては、責任
を果たすことはやらざるをえない
生きていく感覚そのものですし、
体力のある人には独立心も宿りま
す。
鬱散が感受性の個性である人たち
は、ゆったりくつろいだり、その時
を楽しむことが主で、責任は仕方
なく引き受けることで、負担で疲れ
ること以外の何物でもありません。
また責任の持ち方もまちまちで、
自ら求めずにはいられない人、疲
れるのでできるだけ避ける人、す
べてを負うふりをしながらまったく
責任を持たない人、他人のことと
して関係ない顔に撤する人なども
います。
責任感と独立心の強い人は、その
重さを知っているためにかえって、
他人の責任の範囲に口出しするこ
とができません。
教えられ、与えられた責任の他に、
自らに課す責任もあります。
命に対する責任です。
この世に生きていくのにどうしても
曲げられないものたちで、原則や
規則、正確さ、伝統や芸術、愛憎
や血統などさまざまな対象があり
ます。
持って生まれたものと育った環境
が織りなして、自分はこれだと思い
こむ信条が出来上がります。
私は便宜上、与えられたものを「責
任感」、自ら選んだものを「責任の
感覚」と表現して区別しています
が、いずれにしろ人間は思い込み
やイメージで作られる部分がいか
に多いか思い知らされます。
自分はこういう人間だと思い込む
ものを他人にも認めさせようとする、
私たちはある意味正直な生き物な
のです。
そんな私たちにテレビやインター
ネット、マスコミなどを通じてあらゆ
る情報が押し寄せます。
この情報の過多の世界では、あら
ゆる快楽を手に入れることが可能
だと知らされ、またあらゆる悲惨に
責任があると迫られます。
この世で生きていく以上、どうして
も果たさなければならない責任も
多くあります。
しかし、私たちは全世界のことに
責任を持つことはできません。
伝統的な暮らしは、便利な商品に
その座を奪われ、質素で心豊かな
貧しさは、より高いものを求める焦
燥感をともなった充たされることの
ない貧しさに変貌します。
より多い収入を求める農業は、そ
の効率化のために自然の地力を
すべて奪い、後には不毛が残され
ます。
悲惨はさらなる争いを呼び、戦争
によってより利益をえる人たちが、
新たな争いをつくります。
善意による施しも、新たな支配を
助けます。
このような飢饉や悲惨を前に私た
ちはどんな責任が持てるのでしょ
うか。
社会全体あるいは会社全体の責
任を持つことなど不可能なことです。
すべてに責任を持っているという
人がいるのだったら無知か思いあ
がりとしか考えられません。
けれどどうしても譲れない生きる故
の責任は、果たさなければ生きて
いる意味がなくなる切実なもので
す。
責任の感覚と独立心の強い人ほ
ど、世の矛盾を背負いやすい不
条理な社会です。
目前に同等に並んでいるように見
える「責任感」と「責任の感覚」を区
別していかないと、自分を見失い、
生きる方向を誤ります。
私たちは持って生まれた力を使い
きらなければ生きていることになり
ませんが、自分を鍛えて老いての
天心という人間の理想を達成する
のはとても長く、困難な道のりです。
小さな宇宙の作り方 その12
政治ということ
私たちは政治によって決められた
法律に従って生きています。
政治というのは社会での支配と服
従のルールです。
ですから政治家の仕事というのは、
多くの異なる意見をまとめて、多く
の人たち、特に自分を支持する有
権者の利益を守ることとなります。
いかに妥協して大多数が納得す
る道を探り、指し示して、結果を求
めるのが政治家の責務です。
けれど私たちが目にする政治家の
多くは世襲や組織の代表で、自分
たちの利益を守ることに腐心し、
選挙のときだけ私たちの前に現れ、
もっともらしいお題目を並べて、す
べてが良くなるような目先のごまか
しに終始しています。
選挙さえうまく通り過ぎてしまえば、
後は優越的立場で好き勝手がで
きる自由を保障されます。
いきおい、見かけやイメージで票
を多く集められる人が政治の表舞
台にでます。
けれど本当に理想を持ち、現実を
直視する人は、甘い言葉での利益
誘導などはしません。
解決すべき問題があるとき、それ
によって得られる悦びと道筋にあ
る傷みをさし示し、それでも前に
進む熱い理想を語るでしょう。
今の世の中で政治家として理想を
求め、その実現に一歩づつ進む
のはとても難しいことです。
私などにはとても出来ることではあ
りません。
一見経済の上位にあって、そのシ
ステムをコントロールしているように
思える政治ですが、グローバル化
した経済システムの前ではほとん
ど無力といえます。
政策の選択の余地は狭く、誰が
やっても大きな変化はありません。
結果として無難な選択や自分たち
の権益を守ることが中心となります。
そんな状況を嗅ぎ分けている私た
ち現代人は、政治に多くを期待せ
ず、むしろ軽蔑を感じています。
大事なものだとわかっていながら
も、託すべきものがないのです。
しかし日本の庶民の人の良さに付
けこんで、混沌と混乱の道を歩もう
としている現政権を黙って見過ご
すことはできません。
いつの世も、戦争や動乱、天災が
あっても、その混乱の中でより多く
の利益をえる人たちがいるのです。
人生は戦いといえますが、人を殺
し、他の人の犠牲を強いるための
戦いでなく、自分をより高める戦い
をしたいと願います。
スマホやインターネットの情報、断
片的でセンセーショナルな報道、
機能を誇る新しい商品など多くの
ものが私たちを真綿のように包ん
で、身動きをとれなくします。
けれどどうしても必要なことはあり
ます。
その中で政治に関していえば、原
発を止めることです。
原発が持つ大きな危険性だけで
なく、巨大な利権と後世に災いと
負の遺産を残すことに気をとめな
いエゴイズムを断ち切れたら、社会
のあり方は大きくかわるでしょう。
そしてもし10%投票率が上がれば、
それだけで大きな変化がやってき
ます。
今の自民党は投票率50%の半分、
全体の25%にしか支持されていま
せん。
60%の投票率では過半数を割り
惨敗となります。
生活の感覚からは遠い政治の世
界ですが、危機的な今こそもっとも
身近なものといえるかもしれません。
小さな宇宙の作り方 その13
責務とつとめ
最近のマスコミの話題の中心は、
日大アメフト部の暴行、安部首相
のモリカケ、MeTooに代表される
セクハラなど、社会の中での権威
と責任のあり方を問うものが目立
ちます。
巨大化し、複雑に利害が入り組ん
だこの社会では、誰がリーダーで
も大きな方針や政策の違いはあり
えません。
けれどその中でもごくわずか、もし
かしたらほんの1%に満たないかも
しれませんがトップの裁量の範囲
はあるでしょう。
こうした利権は今の世の中に始ま
ったことではありませんが、巨大な
社会のピラミッドの頂点に立つご
く一部の人たちにより大きな権力
や利権が集中します。
全体からすればごく小さな割合で
も、大きな組織では個人では考え
られないような大きな金額が動き
ます。
上流、中流、下層というかつての
緩やかな階層ではなく、数%のごく
少数とそれ以外という圧倒的な格
差社会です。
一方、情報システムも巨大化して
速度をより速め、インターネットで
瞬く間に情報が大量に拡散しま
す。
大きなシステムを動かす人たちに
とっても、このマスコミやインターネ
ットの動きを無視することはできず、
むしろ非常に気を使わざるをえま
せん。
そうした中で責任の取り方がますま
す世の中の注目を集めます。
責任を果たすことが生きている証
しであるように。
私たちは社会に対して責任がある
と教えられ、それを果たすのが社
会人の責務だと思ってます。
法律とマニュアルを守り、戦禍にさ
らされる子供たちの食べ物の心配
をし、マイノリティの権利を保障し、
後進国の教育を推し進めようとし、
環境への配慮も求められます。
それをしなければ世界に対する
責任を果たしていない、多くの人
が責任を果たさないために、世界
はいつまでも良くならないのだと
思わされてます。
それに対して、イリイチやフーコー
等の先進的な社会学者たちは、
「責任などというものは無い」と言い
切ります。
人間はいつも進歩するものだとい
う前提に立った、社会が作った幻
想でしかなく、世界を支配する巨
大なシステムを維持し、補完する
ためのものだというのです。
違う会社、別の国では、要求され
る責任は変わり、その場だけのもの
で、永続的ではありません。
けれどそうした社会的な責任でな
く、ひとつの命であるからには、命
として全うせざるをえない責任も
あります。
この世に生まれて命を輝かせなけ
れば、生きている意味はありませ
ん。
また命同志としてつながっている
人たちへの責任も当然あります。
こうした責任は「つとめ」と呼ぶ方
が似つかわしく感じます。
本能的であり、自然発生的であり、
命が続く限り不変です。
それに対して社会が要求する責任
は立場が変わればまったく別のも
のとなってしまう「責務」です。
責任として同じように見え、区別し
にくく、現実にはつながっているこ
との多いこのふたつを分けて見
ないと、私たちは何のために生き
ているかを見失ってしまいます。
報道されるニュースへの興味と違
和感も、責務がひとり歩きすること
への共感と反感の葛藤です。
人とつながることに快感を感じる人
たちが、政治や権力に興味を感じ
ることは当然でしょう。
けれど、命の自然なはたらきから
離れると、とてもグロテスクなもの
に変質してしまいます。
それは彼らだけでなく、私たちの
身のまわりにも同じように起こりえ
ます。
10人にも満たない晴屋の責任でさ
え、私には重くのしかかります。
これが100人、1000人、それ以上
の見知らぬ人たちにまで責任の
範囲が及ぶなど考えることもでき
ません。
クレームを言い権利を主張するこ
とと、裏返しにある責任を負うこと。
商品の選択の自由と便利さと引き
換えに、社会システムへのより強
い呪縛が要求されます。
この連鎖を断ち切って、小さな社
会を再構築するには、責務とつと
めをはっきりと区別する生活と文
化が求められます。