晴屋の青い扉 その39 ~41 本の旅~イリイチをめぐって 

晴屋の青い扉 その39
 本の旅~イリイチをめぐって 1
年に数冊しか本を読まない。
忙しさにかまけて、向上心や探究心は、ついつい薄くなる。
楽しみとしての読書など考えることも出来ない。
けれど先日かかりつけの歯科医で、「地球家族」(TOTO出版1980円)
という本を見つけ、思わずネットで手に入れ読み始めた。
ピーター・メンツェルというカメラマンと、フェイス・ダルーシオというライタ
ーが共同で取材したこの本には、「世界30カ国のふつうの暮らし」とい
うサブタイトルが付いていて、30の国の平均的収入で平均的家族構成の
家族全員と、持ち物全て家具やペットにいたるまでを家の外に持ち出し
て一枚の写真に収めてある。
実はこの絵葉書版を晴屋でも取り扱っていた。
違う国の生活観や空気感が伝わってきて、楽しく微笑ましいものだった。
この本はその完全版で集合写真の他に数点の印象的写真とレポートが
添えてある。
この本を手にした私が望んでいたのは、なんとなくほのぼのしたものに出
会って、少し日常の疲れを忘れたいというものだった。
さまざまな条件の中で人間はこうも多様に生きられるのかと生活力の
たくましさが煌いている。
しかし、切実で行き詰った現実をつきつけられ、素朴さに触れ、より所を
求める期待は見事に裏切られた。
いたるところに商品経済の波は押しよせ、伝統的な暮らしは薄れていく。
鮮やかな色のビニールの包装が幅をきかせ、ブータンの修行僧がコー
ラをラッパのみする。
最も悲惨な印象を持ったのが、元共産主義国家だったアルバニアだ。
アフリカと比べ特に生活が貧しいとは見えない。
アフリカでは親がしたのとほとんど同じ生活で貧しさを苦にしていないが、
アルバニアでは家具もあまり無い家の中にテレビだけはあり、ローマから
飛行機で1時間ほどの距離だというともあり、一日中イタリアの豊かな暮
らしが映し出され、水道も無い、医療も満足でない、食べ物も質素な暮
らしを、救いようも無く貧しいと感じてしまう。
しかし、よく考えてみると、「先進国」にいる私たちもテレビやマスコミに先
導され、消費をあおられているのは本質的には変わりがない。
いたたまれない気持ちが心にのしかかったが、それで何故か火がついて
しまった。
次に手にとったのは、イバン・イリイチという人の対談の本だ。
イリイチは以前「シャドウ・ワーク」という本を読んだことがある。
イリイチの知性に圧倒されどうしてこんなことが分るのかと感嘆し、静かに
内で燃える炎に私の内面も触発され、生きる指針を与えられた。
イリイチが亡くなったのを知ってから以後の本を買ってあって、いつか読
もうと思っていたものに手が出てしまった。
本のタイトルは「生きる意味」。
デビット・ケイリーという人がインタビュー嫌いのイリイチから巧みにその
世界を引き出している。
インタビューに先立ってケイリーが、イリイチの思想の流れを序にまとめ
ている。
それだけでも圧倒される内容と高みがある。
専門的な言い回しや難しい言葉が多いので、私なりの言葉で組みなお
したのが、以下の文章だ。
つたなさや誤解があるかもしれないが、お伝えしてみる。

イリイチは「脱学校の社会」の中で、今日の学校の三重の機能につい
て説明している。学校は学ぶための唯一の場であり、限りなく向上す
るためには学校に通わなければならないと信じさせる。その目標のピ
ラミッドの頂点にはごく少数の人間しか到達できないと示した上で、目
標に達しなかったのは私たち自身の責任なのだと納得させる。
そうして限りなく上昇志向する少数のエリートと、そうはなれないと負い
目を感じる大多数を作る。テレビに従順な圧倒的多数の消費者が生
まれる。
しかしイリイチは、学校の存在そのものを否定しているわけではない。
学校schoolの語源スコラは暇という意味で、ゆっくりと知を沁み込ませ
る場は大切にしていた。
ある仕事をする能力がある人間が、学歴が無いからその仕事につけな
いことが、憲法の平等に反するといっている。
学校を公立化しないことで、人間は個性を取り戻し、自分にあった職業
を選択できると考えた。
学校教育の分析としてはじまったものは、「開発」への批判へ展開して
いった。開発を自立的な生活への侵略と規定して、それまであった環
境に適応した伝統的な暮らしを崩壊させるだろうと主張した。
アフリカに援助と開発の名の下に小麦粉が届けらけれ、その美味し
さに目覚めた彼らは土地にあっていないのに作ろうとする。当然まと
もに育つはずも無く食糧難にみまわれる。小麦に対する需要は増え
て、価格は高騰する。アフリカはますます貧困化し、どこかに多くの利
益をえる少数の人たちがいる。
イリイチは言う。「今までのところ、経済の成長とは、人びとが何かを
するかわりに、それを買うことができるようになることを常に意味して
きた。すなわち、しばらくすると、人びとは商品を買わなければならなく
なる。なぜなら、商品無しにやっていける自然的、社会的、文化的諸
条件が環境から消えうせてしまうからである。」
便利な商品が次々に目の前に現れ、「低開発のやましさ」が植え付
けられる。喉の渇きをコーラへの要求に置き換えるような商品への依存
が強まり、その結果「近代的な貧困」が生まれる。
「それは、生活の過酷さを和らげることなく、その尊厳を打ち砕くであろ
うし、どうにか耐えうる窮乏の苦しみを、物質的ニーズの耐えがたい疼
きに置き換えるのである。」
イリイチは更に輸送と交通の問題に取り組んだ。多くのエネルギーを
使う高速度の移動方法は、便利さの反面、社会の環境を圧倒し壊す
と言っている。そこでコンヴィヴィアリティ(ともに生きること)のための道
具として自転車が推奨されている。
自転車は精巧な素材と工業技術の組み合わせから成り立つ一方、
けがを生じさせない程度のスピードで走り、しかも公共空間を安心で、
静かで、清潔な状態に保つ。自転車を使用する人は、他人が同じこ
とをするのを妨げないが、車を使用する人間が多ければ多いほど、車
は有用なものではなくなる。
禁欲、あるいは自己制限する選択こそが、専門技術者であるエリート
たちの集団による監視と管理の強化にかわりうる唯一の道であると、
イリイチは考える。
次にイリイチが注目したのは医療の問題だ。一定の度合いを超えた
健康の医療化は、苦しむ能力を衰えさせることによって、また、「苦し
むことが高貴な行為となりうるような共同体の文化的背景」を破壊する
ことによって、かえって苦しみを増大させるとした。
イリイチが関心を寄せていたのは、「支配する職業」がもつ権力に歯止
めをかけその権力の神秘性を取り除くことだった。「支配する職業」は
社会から認められた合法的な独占企業であり、暴力団の冥加金とりた
てと同じ仕組みだと言っている。
しかし一方この頃からイリイチは、新たな現実が生まれているのを感じ
る。イリイチの批判が学校そのものに対するものと理解される場合、そ
の批判が、自宅での学習の形のまま、「社会の全てを一つの巨大な
教室に変えること」に専念する改革者の努力を後押しするのに役立っ
ているということだ。またイリイチは、「脱病院化社会」の中で、専門家の
ケアに変わるものとして、セルフケアということばを使ったが、十年後
現実にはセルフケアが、人びとがもっている「みずからの現実を苦し
む」能力や「自己のかけがえのなさを保つ」能力を意味するのではなく、
全面的に自己管理を行う患者という状態を意味していることに気づき、
うんざりしてしまう。以後イリイチは、読者に道を示すことなく、歴史や
社会のあり方を検証し、それをそのまま伝えて、読者に行動の選択を
ゆだねることになる。
「シャドウ・ワーク」では、賃労働とそれとともに押し付けられる影の労
働=シャドウワークが検証されている。シャドウワークは賃金を得るため
に強制的にこなさざるをえない無賃の労働で、通勤や買い物、更には
家事やレクリエーションまでが含まれる。それらは労働を続けるために
必要なものだからだ。シャドウワークに対応することばとして、イリイチ
は「ヴァナキュラー」という言葉を使っている。これはその土地に根付い
た伝統的な生活で、本来ヴァナキュラーの領域であり、一番豊かなもの
であるはずの家庭生活までシャドウワークに組み込まれることで、家事
はとるにたらないつまらないもの、仕方なくするものにされてしまって
いる。ゴルフや高級車に乗ったり海外旅行で楽しむのも、賃労働を
続けるための憂さ晴らしとなる。しかし、イリイチは伝統的な生活を偶
像化するのは、「感傷的かつ破壊的なことであろう」と言っている。新
しい生活形態の創造を私たちは望まれている。
イリイチは更に仕事というものの歴史的探求を続け、「ジェンダー」という
本で発表する。産業化以前の社会ではどこでも、例外無しに、男の仕
事と、女の仕事があるだけで、仕事それ自体というものは無かった。男
の道具と女の道具。男の時間と女の時間。男の場所と女の場所など
が区別され、お互いに補い合う二つの領域から成り立っていた。そう
した男と女の社会的区別をジェンダーといい、セックスという生物学的
男と女の性差とは区別している。
伝統的な社会から近代社会への移行は、ジェンダーの庇護から、
セックスの支配への移行としても説明されうる。大きな経済の体制の中
で、女性が男性と競うことは、一人ひとりの女性に戦争の継続を強いる
とともに、まったく新たな敗北も強いる。少数者のいっそうの大きな特権
の享受と、大多数のいっそうの零落が現れる。
「ジェンダー」は、イリイチの著作の中で最も誤解され、酷評されたもの
だった。過去や父権的なものへの回帰と捉えられ、フェミニストたちの
標的となった。イリイチは当初から、開発は呪われたものであり、すべて
の人間に公平に賃労働を与えるのは実現不可能な破壊的な幻想で
あるといい、新たな希少な商品は独占や欲求不満を生むと想定して
いる。イリイチは男と女の性差を前提にした運動は、環境破壊を押し
とどめようとする動きと軌を一にするし、商品やサービスの根源的な
独占に反対する試みとも軌を一にする。経済の縮小と常識の回復こ
そ、三つの運動すべてが各々に成果をあげるための共通に必要とする
条件だと語った。

晴屋の青い扉 その40
 本の旅~イリイチをめぐって 2
イリイチは人一倍感じやすく純粋な心を持った、しかし人一倍自分にも
社会にも厳しい眼を向けた人だった。
学校や医療、福祉の現場はシステムの矛盾や現実のしわ寄せを受け
混乱している。
それを取り繕っているのは個人の善意だけれど、イリイチはそれさえも産
業化を助ける働きとしている。
ニーズを合法的に作り出し、サービスを提供することで報酬を得て、世
の中のシステムに組み込んでいく。
そんな一見当たり前のことも、イリイチにとっては、形骸化することで人
間や周囲との関係を破壊する動きということになる。
それは多分に私たちのような八百屋にも向けられていて、市販のものと
は違う「特別で希少な」商品として流通させ差別化することで、商品経
済の発展を助けていることになる。
もちろん私はそれらに逆らおうとはする。
無農薬とか無添加という看板はあげず、この美味しい野菜たちを特別な
ものでなく、普通のもの当たり前のものとして扱おうとしている。
価格も高くなりすぎないよう努力し、多くの人に受け入れられやすいもの
にしようとしている。
仕事の内容もなるべく分業化せず、メンバーがそれぞれ責任を負いなが
ら、全体を見られるようにしている。
生産者も直接取引きしているものが多く、産地の状況や自然の息吹を
伝えるようにしている。
小さな規模での小さな流通で、互いに支えあう関係が少しは出来ている。
そうは言っても、車は使わなければ仕事は出来ず、エアコンは無いとは
いえ月に8万円分位の電気を使い、売り上げを上げるためにそれなりの
営業努力もしている。
これらが、小さな差なのか、根本的なものに繋がっているのか、私には
よく分らない。
自分がその瞬間に出来るだけのことをしているに過ぎない。
今の学校や教育システムに疑問を感じているけれど、子供たちに特別
な教育を受けさせようとは思わなかった。
この世で生きていく以上は逃げる場はないのだから、今の社会の人間
関係を踏まえて、自分を発展させ、主張できる人間になってほしいと願
っている。
4人の子供のうち、一人は中学校を半分しか行かなかったけれど、それ
でも全員、持って生まれた個性は潰れずに成長してくれているように感
じる。
その個性を社会の中で生かしていくのは子ども自身の問題だから、親と
しての責任は果たしかけているかもしれない。
こうした、感じることはあってもそれを前面には出さず、やり繰りしながら
やり過ごして、事態の好転を待つ生活態度は、イリイチにとっては、とて
も妥協的なものだろう。
日本人特有の目立つことを嫌う感受性が働いているのかもしれない。
しかしこの曖昧さの底には、相手の立場になって物事を感じるられると
いう優れた感性も潜んでいる。
これは同情という、感情の押し付けとは違う。
自分に集中していながら、自然や周囲の人たちとの一体感を感じる
感受性は、今は忘れられかけているけれど、日本人が長く持ち続けてき
たものだった。
だから、私たちが経済の発展に背を向け、自身の生活を組みなおすとき
にはぜひ必要なものだと私は思う。
システムとしてコストを要求してサービスを提供するのでなく、自然の要
求として隣人に手を貸すのだ。
医療に関しては、私たちは特殊かもしれない。
薬が要らないのは、野菜も人間も同じだと思っている。
社団法人整体協会の会員で、歯医者以外のお医者さんにはほとんど
お世話になったことがない。
そういう立場からすると、イリイチの言う「苦しむ権利」というものは、なん
となく分るけれど、私たちとは少し違うような気がする。
整体では身体の自然な経過を大切にする。
異常や疲れを解消しようとする痛みや熱なども、避けることは出来ない、
しかし積極的に受け入れれば、より身体を丈夫にすることができる経過
の形だ。
自然で必要な経過を辿っている時は、熱や痛みがただ苦しいだけでな
く、快感もある。
「苦しむ権利」と言うとき、その快が見落とされているように感じる。
また整体では、気の交流や感応で身体を整えていく。
気は大きな流れでは「天気」であり、一人一人の細かな動きが「気分」に
なる。
宇宙的な大きな流れから、個人の心までを全体として一つのものとして
捉える感覚を日本人は持っていた。
元々持っているものが発揮されているのが「元気」で、気が病んでいる
のが「病気」だ。
病は身体の異常である以前に、気が枯れ(汚れ)たから起きると認識し
ていた。
また、「腹が立つ」、「胸が痛む」など感情の動きを身体で感じ表現する
細やかで精密な感覚も持っていた。
ケガは、「怪我」と書き、我を怪しむという意味になる。
事故でも、偶然に見えたり、不運と感じても、底には自分の心の隙や
怪我をしてまで、自分を主張したいという要求は無かったか?
まず自分の心を覗くべきだと昔の人は考えていた。
これらの多くは失われた感覚だが、私たちの心にはどこかに残っている
ものでもある。
言葉に厳密な感覚を持っていたイリイチがこの感覚を知ったら、また新た
な地平が開けたのではないかなどと思ってしまう。
死というものを、医師だけが認定できると法律で決まった時から、死も
生も医師が取り仕切るようになったと、イリイチは言う。
もちろんそうなのかもしれないが、それを受け入れながら風穴を開けて、
苦しみを受け入れ、自分の生と死を自分の手に取り戻す方法もあるの
ではないか。
私たちにはその可能性が残されていると思う。
こうした文章は同調してくれる人がいる以上に、反感や不信を覚える
人も多いだろうと思う。
老いつつある私の思い過ごしや妄想でもあるかもしれない。
しかしイリイチの本を読み、その精神に触発され、長い間に心の内にあ
ったものが、一息に一つの形にまとまった、正直な感想であるに違いな
い。
死んでしまったイリイチはまだ私の精神の中に生きているし、本を通じ
てこうして一緒に旅することも出来る。

 

晴屋の青い扉 その41 本の旅~イリイチをめぐって 3
イバン・イリイチが、ディヴィット・ケイリーに答えたインタビューをまとめた
「生きる意味」(藤原書店)には、「システム」「責任」「生命」への批判と
いうサブタイトルが付いている。
行動する知性として世に出たイリイチの晩年の思想が語られている。
以後は本からの抜書きで、表現は変えていないけれど、順番は変えて
いるところがある。
「・・・・たとえば学校は、知識に信頼を置き、知識のパッケージ化が可能
であると信じる社会を築きます。また、知識とは古びていくものだと考え、
次から次へと知識が増していくことが必要であると信じる社会を築きます。
知識を価値として、善ではなく価値として、重んじ、それゆえ、商業的言
い回しでそれを表現できるような社会を築きます。これら(学校教育が生
みだすこれらの神話)はすべて、この不条理な現代社会を生きるうえで
不可欠なものです。
・・・・すくなくとも大学のシステムはテレビのようになってしまいました。
すべて(の知識)は断片化され、それを企画した人間によってのみ理解
できるしかたで各種部品が組み合わされた強制的なプログラムが存在
します。それは、自分たちが学ぶことは誰かに教えてもらわなければな
らないという事実にすっかり慣れきってしまった学生たちを生み出します。
そしてかれらは、教えてもらわないことには決して真剣に考慮しようとは
しないのです。わたしは、人びとがそうした学校のシステムのさらなる
発展について、これほど道徳的に寛容であり続けるとは思ってもみま
せんでした。
・・・私は学校(の存在)に反対する理由はありません。わたしは強制的
な学校教育に反対しているのです。
・・・自由に通うことのできる学校は、各人にかれ自身の企画する特定の
学習課題を組み立てる自由を与えます。学校はそれが強制的なものに
なるとき、われわれがかつて見たことのないような、目を眩まされた人び
と、「学識ある」人びと、精神的に思い上がった人びとを生み出すので
す。この五十年にわたる学校教育の猛烈な進展は、テレビの消費者たち
を生みだしてきたのです。
・・・私は、ボランティアたちが、開発に従事するボランティアたちが、お
こなっていることを、まったく異なった観点から眺めてみたいと考えていま
した。・・・わたしが問うていたのは、真摯な人びと、善良な人々、責任感
ある人びとが、ペルーに送られ、村に赴き、その地の住民たちと同様の
生活を営もうとすることによって、何が起こっているかということでした。
四つか五つの井戸が掘られ、三年もすればその人は帰国するでしょう。
誰でも(ボランイィアに訪れた)だれかのことを気まぐれに思い出すことは
あるでしょう。しかし誰もが等しく学ぶのは、(ボランティアに訪れた)その人
が井戸の掘り方を知っているのは、かれが大学を出たからだということ
です。それゆえ、ラテン・アメリカに派遣されることによって、そのボラン
ティア要員は、高度な(教育という)サービス消費の実演モデルとなる
わけです。・・・
・・・この世界に存在する一個の原子爆弾に関して、人びとは叫び声
をあげる以上に何を語ることができるというのでしょうか? わたしがドイ
ツで教えはじめた当時、その地にバーシング・ミサイルが配備されま
したが、それに対する抗議運動をおこなおうと考えた、高校生を中心と
する若者たちがおり、わたしはかれらに協力することにしました。わたし
はこう言ったのです。抗議するにはそこに黙って立つ以外に手だては
ない。われわれはこの問題について何も語ることができない。われわ
れの恐怖に由来する沈黙によって証言をおこなおうと。恐怖に由来す
る沈黙においては、トルコ系移民の洗濯婦も、大学教授も、互いに並び
立って、まったく同じ主張を発することができます。説明をする必要が生
じるやいなや、抵抗はまたもや、エリート主義的な営みと化し、皮相的な
ものと化してしまうのです。わたしは平和に関するおしゃべりの会に参
加したいとは思いません。むしろわたしは、ある種の物事を目の前にし
て、そのおぞましさゆえに沈黙するという重大な権利を、それによって
わたしが感じているおぞましさを目に見えるものにすることができると
して、主張したいのです。・・・・
・・・わたは、ケアをおこなう職業が錦の御旗としているケアというものに
対して、疑い深くなっていますし、ケアをおこなう職業とは、本質的に人
びとを無力化するものだとみています。だからこそわたしは、次のような
場合、憤慨を覚えるのです。・・・・思いやりがあって活気に満ちた立派
な人物が、わたしに向かって、「しかし、棒きれのような脚をして、お腹を
膨張させた子供たちのことをあなたは気にかけない(ケアしない)のです
か。サヘル(サハラ)でクワシオルコル(アフリカでみられる栄養失調による
小児病)に苦しむ人びとのことを?」と尋ねる場合、わたしはすぐさまこう
答えます。かれらのことをケアしているという意識を、わたしの心から消し
去るためにできることは何でもしよう。わたしは恐怖を覚えたい。わたしは
あなたが知らせてくれたこの現実を、心底味わいたいと思っている。自分
が無力であることから逃れたくはないし、「自分はかれらのことを気にか
けている」とか、「自分にできることはすべてやってきたし、いまもやってい
る」などと言い訳したくはない。わたしは、自分の心の中で、そうした子ど
もたちや、そうした人びとが味わっている逃れえない恐怖をともに味わい
たいと思う。わたしがかれらのことを、積極的に、本当の意味で、愛せな
いことはわかっているのだと。というのも、人を愛するということは、・・・
いま現在おこなっていることをすべて放り出して、その人を抱きかかえ
るとを意味しているからです。・・・
・・・このことば(責任)次のような社会的想定と密接な関わりをもっていま
す。すなわちその想定とは、われわれの世界を、自分たちが欲するか
たちにつくりかえることができる、あるいは、自分たちがかくあるべしと考
えるかたちにつくりかえることができるという想定です。「われわれは世
界に対して責任を負っている」と主張するとき、われわれはそれによっ
て同時に、自分たちは世界を支配する力があると言っていることにな
ります。ですから、いわゆる科学的な企てを追求することによって世界
をつくりかえていかなければならないと確信することによって、われわ
れはますます、自分たちが世界に責任を負っていると信じなければな
らなくなるのです。・・・・
わたしは、現在の生活技術は回復可能であると強く信じています。苦
しむ技術や、死ぬ技術や、生活する技術が存在することを信じている
し、それが質素で懸命なものであるかぎり、楽しむ技術、ないしは、楽
しく生きる技術というものが存在することを信じています。・・・・
・・・ガイアは、人工衛星の中でくるくる向きを変えるハッセルブラッド・
カメラによって撮影された写真以外のなにものでもなく、そのようなガイ
アとは(実際には)地球を否認するものなのです。・・・・場違いな具体
性。挑発的な官能性。視点の強制。技術的な要請を規範的な責任へと
転じてしまうこと(などが古典的な科学との相違点です)。
・・・(わたしがすすめているのは)闇の中にろうそくの明かりを運ぶこと、闇
の中のろうそくになること、自分こそ闇の中の炎であると知ることなので
す。・・・・・
・・・明日というものはあるでしょう。しかし、それについてわれわれが何
かを言えるような、あるいは、何らかの力が発揮できるような未来という
ものは存在しないのです。われわれは徹底的に無力です。われわれは、
芽生えはじめた友情をさらに拡大していく道を探ろうとして、対話をおこ
なっています。・・・ガイアについて語ったり、世界に対する責任を云々
したり、それに関してわれわれは何かをなすべきであるという幻想を信
じている人びとは、かれらを狂わせる気違いじみたダンスを踊っていま
す。わたしは一個の原子でも一個の美でもありません。・・・そうした不
気味なエコロジーのダンスとは対極的なものを象徴する饗宴を生みだ
すことができるのは、このいまという時間を、できるだけそれを利用する
ことがないことによって祝福しうるようなセンスです。つまり、この現在を、
それが世界を救うのに役に立つからではなく、それが美しいものであ
るからこそ祝福しうるようなセンスです。それゆえわたしは、いまをいき
いきと生きようと呼びかけます。あらゆる痛みや災いを抱えつつ、この
瞬間に生かされていることを祝福し、そのことを自覚的、かつ儀礼的に、
また率直に楽しもうと呼びかけるのです。わたしは、そのように生きるこ
とが、絶望や非常に邪悪な種類の(責任という)宗教心に対する解毒剤
になると思われるのです。」
私は、一つの生命ではありませんと、暴力的な知性で自分や人間を規定
することを拒否したイリイチだが、キリスト的な愛や知性への信頼を捨て
ることはなかった。
肉声によって、巨大な知性の葛藤とそれを通り越した静かな境地が垣間
見れる。
その鋭さと光は、イリイチとは幾分違う場所にいる私たちの足元も照らす。
「地球にやさしい」「すべての子供のために」といった表現の気持ち悪さ
の根をイリイチは見事にほぐして見せてくれる。
この本を自分なりに読み解き、再構築したこの一ヶ月間は多忙を極め、
辛くもあったが充実した時間だった。
イリイチに少し近づき、何よりも自分の弱さや曖昧さとの闘いでもあった。
一冊の本との、時間と空間を越えた、知性に照らされた旅だった。

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