晴屋の青い扉84~88 晴屋の試行錯誤

晴屋の青い扉 その84
快楽の彼方    ノンアル編
オーディオや、音楽鑑賞や、文章
を書くことやら、誰に頼まれたの
でもないのに好きで勝手にやっ
ていることはいろいろあるけれど、
けっこう仕事に絡んでいることも
あり、まじりけのない楽しみと言っ
てもいいかどうか微妙なところだ。
他人に気を使わず自足した楽し
みというと、目下のところ夕方の
ノンアルコールビールであるかも
しれない。
最近、炭水化物ダイエットもどき
のことをはじめて、どうも歳のせい
か疲れが足にきてしまうので体重
を落とすしかないと思ったのだけ
れど、ご飯やアルコールを半分
にしようと決めて、2ヶ月で5kgほ
ど痩せることができた。
この状態を維持しようと思うとカロ
リーのことが気になって、裏のラ
ベルの表示を真剣に見ることが
多くなった。
あたりめが意外とカロリーが少なく
うれしくなったりするのだけれど、
その中でノンアルコールビール
の低カロリーは圧倒的だ。
350mlで、12Kcalとほとんど水に
近い。
原料はモルトとホップだけ。
基準の厳しいドイツで、ビールと
して作ったものを脱アルコールで
0.0%まで抜いてある。
微妙なアルコールは残っている
のかもしれないけれど、ちゃんと
苦味や風味がある。
価格は130円と有機ビールの半
額ほどで、アルコールが入ってい
ない分、税金は払っていないとい
うのもなんとも潔い感じで、好感
がもてる。
飲むとそれなりに開放感や浮遊
感を楽しむことができる。
たいへんに前置きが長くなって
しまったのだけれど、このノンアル
を、夕方に、なんの後ろめたさも
なく飲む心地よさを伝えてみたい
のだ。
一日のうちで一番好きな時間は、
陽が落ち始めて、空気が静かに
沈殿し、光に隠されていたものが
目を覚まし始める時間だ。
夏の夕暮れのドビッシーなど、こ
れ以上ぴったりで美しいものは
ないと感じる。
私がこの時間を楽しめるのは、週
に2回のトラックの引き売りのとき
だけなのだが、忙しい合間にお
客さんたちがいなくなってほっと
する一瞬にノンアルを飲むのは
生きるひとつの大きな楽しみとな
っている。
感覚が開放され、想像力が翼を
えて、内なる魂が満足げに息づ
いているのを感じる。
自然の中での心ゆく労働の後に
こんな時間を持てばもっと悦ばし
いのかもしれない。
けれど屋久島に行って魂を置い
てきたと感じ、その存在を自覚す
るようになってから、東京の片隅
にある小さな緑にも同じ根を感じ
られるようになった私にとっては、
これはこれで充分に楽しく、とて
も貴重でぜいたくな時間となって
いる。
こうした楽しみは、他人を犠牲に
したり、迷惑をかけたりすることが
ない。
世の中には数限りない快楽があ
るけれど、仕事や束縛の疲れや
傷みをあがなうため、プライドを満
たす豪華なものや他の人の犠牲
という代償を伴っているものがい
かに多いことか。
お釈迦様は「人生は苦である」と
言い切った。
若い私は、楽しみもあるけれどそ
の分責任もあるのだから、楽しみ
と苦しみは半々だと多少の反発
を感じていた。
年老いた今となっては、やはり仏
陀は正しかったと認めざるをえな
いけれど、それでも人間は楽しみ
を求めるから苦しみもあるというこ
とに変わりはない。
自然に生きる動物や植物は、一
生懸命かそうでないかという区別
はあっても、楽しいと苦しいの区
別はないのではないか。
知性という呪われた楽しみを持つ
快楽主義者である私たち人間が、
どんな快を求めるかで人生は形
作られていくだろう。
あらゆる情報が簡単に手に入る
この社会で、シンプルで他の人
を脅かさず、世の流れにもかかわ
らない楽しみをえるには、それな
りの覚悟と経験が必要となる。
思い込みや知らされたことを脇
において、感覚の内なる声に耳
を澄ましてみる。
理由の分からない肯定や否定も
あるけれど、静かに見つめている
と、身体の反応の方が正しかっ
たと納得できることが多くある。
心というのは、自分と周囲の境目
なので深い感覚ではないけれど、
与えられたものよりはずっと自分
に近い。
精神というのは、知性と感性に支
えられイメージとしてたち現れる
人間独自のものだ。
人を染める力を持っていて、人間
から人間に伝わっていく。
精神の快楽は、リアルであるとと
もに抽象的でもあり、瞬間的でも
ありながら永遠に続くものでもある。
私は音楽からこの感覚を教えられ
続けている。
これで終わりということは決してな
い、長い道のりではあるけれど、
飽きることなく続く楽しみでもある。
魂というものは普通は意識される
ことはない。
誰の中にも宿っていて、存在の
奥底で静かに燃え続けるろうそく
の炎のような微妙なものだ。
魂を養わずに腐らせてしまった人
は、私たちに不快を感じさせる。
魂の快楽を知ってしまうと、決し
て後戻りすることはできなくなり、
他のことはそれほど重要ではな
くなってしまう。
最も根源的な感覚と言ってもい
いだろう。
快楽にも種類や、深さ、色あい、
相性や波などさまざまにある。
同じように目の前に並ぶ数多の
快たちのどれを選ぶか。
究極の選択は日々続く。

晴屋の青い扉 その85
まっとうなすき間としての晴屋
先週の台風はトラックの引き売り
の日にあたり、強風と雨の中、配
達に切り替えてなんとかやり過ご
すことができた。
そんな中、心配なのは岩手のりん
ごのことで、風で枝や幹が折れた
りしないか、もうすでになっている
実が落果したり、痛んだりしない
かということだった。
晴屋では何年も、たぶん30年近く、
水沢の小平さんのりんご以外のり
んごを売っていない。
りんごと言えば小平さんであり、ご
主人の範男さんが亡くなって奥さ
んの玲子さんに引き継いでからも
それは変わらない。
野の香りのするようなすっきりした
爽やかな美味しさは他のりんごか
らは感じられない。
乾いた砂に水が吸い込まれるよう
に、私たちの身体に沁みこみ充た
してくれるものだ。
女性一人での選果や草刈りなど
の負担が多い中、親の介護が重
なり厳しい状況なのにさらに脚立
から落ち、腰椎圧迫骨折で休み
ながらでないと仕事ができなくな
っていた。
そんな状態を知っているので心
配はしても何も手伝うことはでき
ず、電話もかけにくい。
そして今年から来年にかけては
大きな変化がありそうで、畑を大
幅に縮小して個人発送はほとん
どやめ、晴屋に優先的に出荷し
てくれるという。
とてもありがたいことだ。
今までの信頼関係をつなげてい
けることは私たちにとっても悦び
であり、八百屋冥利につきるとい
える。
けれどりんごの不足は現実的な
問題であり、今まで疎遠だった生
産者のものも売らなければならな
い。
何よりも美味しさを重んじる私たち
晴屋が納得できるものは少ない
のだけれど、売るものがないのも
困る。
店頭に並べておけば、今までの
信頼関係でお客さんたちは買っ
ていってくれるけれど、美味しく
なければ次からは売れなくなって
くるし、晴屋に対する信頼も失わ
れていくだろう。
売れなければ困るし、とりあえず
売れても後につながらなければ
意味がない。
いつも微妙なバランスで綱渡りを
続けているような感覚が晴屋には
ある。
いつの間にか35年も続けている
晴屋は、自然食品業界の中では
ちょっと変わった位置にいるので
はないかと思う。
まず特定の系列や大きな組織に
属していない。
たいがいの店は仕入れの手間や
在庫の管理もあり、仕入先を限定
して効率化を追求している。
また流行にのった売れ筋の商品
を前面に出し、イメージに訴える
作業もされている。
晴屋はこうした分かりやすく、多く
の人を惹きつけるような明るさや、
手軽で気楽な雰囲気を持ってい
ない。
テレビで効果をうたわれていたも
のを探しにくる人たちに少し冷め
た対応をしている。
お客さんには違いはないのだけ
れど、どうせ長続きせず、一過性
のものとしか感じられない。
それよりは私たちの感覚のどれ
だけ内部まで深く入り込む力を
持っているか、自然の豊かさをど
れだけ持っているかといったもの
ごとの本質を追求しようとし、それ
を理解してくれる人に品物を手
渡したいと望んでいる。
そんな体質は扱っている品物に
当然反映されている。
この業界の大きな卸問屋、ムソー、
創健社、オーサワジャパン、恒食、
杉食と取引があり、その中でのベ
ストと思うものを選んでいる。
その他に数十件の直接取引の
生産者からの直送のものも多く
ある。
だから当然晴屋でしか買えない
ものもあるし、相当のマニアでも
はじめてみる品物もあると思う。
品物の選択の基準は何より美味
しさだ。
身体に必要な物、よいものを私
たちは美味しいと感じる。
農薬の回数や有機の認証、マス
コミでの話題性よりも感覚を優先
している。
その根底にあるのは人間や自然
への信頼であり、人間を健康で
自立したものとして扱う健全な発
想だ。
農薬の回数や放射能を心配して
の産地の限定などの恐怖心や不
安に訴えてものを売ることへの嫌
悪感もある。
もちろん売れなければ困るわけ
で、日々品物を選択し、注文し、
確認して届ける。
これは大きな流通にはできない
細かで、終わることのない緊張が
連続する作業だ。
お客さんによって対応が変わる
し、マニュアルはないので、スタ
ッフによっても対応が違う。
原理原則でははないので日常は
混乱しているけれど、豊かで手ご
たえがある。
そしてこれこそが晴屋が続いて
いる理由でもあると思う。
大きな流通にはできないすき間
が、唯一私たちが生き残れる場
所なのだろう。
同じものを扱い、同じことをしてい
たら、私たちはあっという間に飲
み込まれてしまう。
より本質を極めたすき間であり、
一見普通だけど実はスゴイという
のが晴屋のコンセプトだ。
それを理解してくれる人たちは
長く付き合ってくれるけれど、重く
楽しくないと感じる人とは親しくは
なれないし、付き合う人たちを増
やしていくことも難しい。
際どいバランスの上になりたって
いる。
まっとうだが、すき間産業でマイ
ナーであり続けれる覚悟はあるけ
れど、こんな時代錯誤の八百屋
をいつまで続けることができるの
だろうかとまわりを見渡している。
すき間が許容される世の中が続
くことを祈るばかりだ。

晴屋の青い扉 その86
正しくない晴屋
晴屋の看板を作り変えようと思い、
内容をシンプルに伝えるにはどう
したらいいかといろいろ考えてい
る。
「美味安心食材」は最近よく使っ
ているけれど、少し固い感じがす
る。
「生きた土が育てた野菜  安全
な加工品 心ゆくくらしのための
情報」も長い間使っていたけれど
すこしくどい感じがある。
なるべく短く、端的に内容を表現
するのはとても難しい。
今のところ心惹かれているのは
「おいしい野菜  安心な食べも
の」だ。
安全性を第一に押し出すより、
内容の良さ、美味しさをまず伝え
たいという思いに近い感じがする。
看板は顔だけれど常連さんたち
よりは、新しく来る人に向けたも
のだ。
「無農薬」や「無添加」と書いたほ
うが分かりやすく親切かもしれな
い。
けれどそうした正当性を前面に
出すことに抵抗を感じる。
食べものを差別して、命の力や
自然の豊かさから離れていくよう
だ。
命は本質的に猥雑であり、自然
も多様で人間の知性で固定でき
るものではない。
お客さんも様々で、自然も一筋
縄ではいかない。
そして中を取りもっている私たち
晴屋自身も欠点だらけだ。
どこにも「正しさ」を見つけられな
い。
そう思っているのだけれど、どうも
いつも周りから、「自分は正しい
と思っている」といわれる。
これしかできないと思い、たいし
た才能を持っていない自分として
は目いっぱいやっているという妙
な自信のようなものはあるけれど、
それは自分にとってだけで、他の
人にその基準が通用するとは思
っていない。
ただ扱っている品物の美味しさ
や素性のよさには自負があって、
それはやはりお客さんたちも理解
してくれていて、それだからかえ
って文句を言いにくい雰囲気を
醸し出しているのかもしれない。
要するに人間としての可愛げが
ないのだけれど、若い時よりは少
しは丸くなってきたとはいえ、完
全に隠すことは難しい。
一番困るのは私たちに「正しさ」
を期待されることだ。
無農薬とか無添加という正しさを
求めるひとたちは、晴屋にも正し
さを求める。
理想を投影されるのはありがたい
ことではあるけれど、とてもそれに
応える技量は持っていない。
数え切れないトラブルと、すれ違
いがある。
一生懸命さと裏腹のつたなさを
許るしてくれる人と、そうでない人
がいる。
いろいろな出会いと別れを繰り返
してもう35年という年月がたった。
様々な思いが去来しながら、これ
から出会う人たちにどういう顔を
みせるか、どんな言葉を使うのか。
私たちの店にあるものは、ひとつ
ひとつにここにある意味があり、
手に取る人に向かい合うことを要
求する。
存在感のある重さと感覚の深い
部分に届く美味しさを持っている。
安全だからという知性での働きを
超えている。
それを伝えるためのより深い感覚
とより深い声を持たなければ、私
たち晴屋も本当に大人になった
とはいえないだろう。
35歳でまだ青臭い晴屋だけれど、
これが今の個性だと自覚して前
にすすんでいくしかないだろう。
完成はないとしても、挑むには充
分の大きく困難な課題だ。

晴屋の青い扉 その87
ポップな晴屋
店の前面にある壁と看板を変えた
ら、新しいお客さんがよく入ってく
るようになった.
明るい木目を基にして上品な緑
をアクセントに使った、暖かさと
柔らかなセンスを感じさせるものと
なっている.
今まではあえて野菜に色をのせ
なかった.
こちらの個性や余計な思いいれ
をなるべく控えて、野菜自身に語
らせたいと思っていた.
買う人が自分の個性と必要性で
選ぶもので、良いものは必ず受け
継がれていくと信じていた.
それはもちろん正論だし、基本な
のだけれど、今の世の中はそんな
に甘くはない.
野菜の美味しさを知らない若者は
増えているし、みかけや便利さが
優先されることも多い.
有機や農薬の回数、産地など言
葉やイメージが先行して、からだ
の感覚を忘れてしまう人もいる.
こちらの姿勢や雰囲気を積極的
に出すことが必要なのだと改めて
思い知らされる.
世の中はすべて明るく、楽しく、
手軽で、ポップなものが受け入れ
られている.
私たち、土とともにあるような晴屋
がいったいどこまで流れについて
いけるのだろうか.
まわりを見渡すと混乱と矛盾が
渦巻いている.
政治や世のシステムは末期的状
態で、かろうじて個人の善意や努
力に支えられて秩序が保たれて
いる.
そして表面的にはポップなもの、
分かりやすいものが支持されてい
る.
確かにビートルズに代表されるポ
ップカルチャーは世の流れを作
ってきた.
私の感じたことを伝えればみんな
に伝わる、みんなに伝えれば世
界は変わる.
そうしてビートルズは世界を変え
た.
それは音楽や芸術だけでなく、
生活や政治の世界まで及んでい
る.
けれど始めは権威に対抗し、新し
い文化を拓いて行ったポップカル
チャーも、世の中に受け入れら
れ、莫大な富を産む産業として、
私たちの素朴な感情はからめとら
れ、発信された感情は別な浮つい
たものへグロテスクに変質する。
私たちの素朴な感情はからめとら
れ、発信された感情は別なものへ
グロテスクなものに変質する。
集団の全体としての大きな動き
との間には大きな溝がある.
日々を懸命に生きようとする素朴
な感情は、社会のシステムの中で
不平不満を言わずに働く従順な
労働者を生み出し、愛の言葉は
猥雑で辛い現実をあがなうものと
して受け入れられる.
政治への不満も本質は何も変え
られないガス抜きの装置となる。
ひとりの感情が肉体を離れ、ひと
つの情報となって多くのひとに届
くとき、それは元の感情とは違うも
のとなっている.
マスコミやネットを通じて伝えられ
る言葉は、知る人と知らない人を
分ける.
経済の巨大化は、豊かな人と貧し
い人を分ける.
宗教の権威の囲い込みは、同胞
と異教徒を分ける.
政治の行き詰まりは犠牲を求め、
同国人と敵を分ける.
日々のくらしの行き詰まりは、見方
と敵を分け、いじめを容認する.
奇妙な明るさについていけないも
のたちは置いていかれる.
私たち人間にとって自分を主張し
他の人と共感を分かち合うことほ
ど喜びを感じることはないのに、
その主張や共感そして情報によ
ってかえって私たちは個人個人
に分断され、くらしの中にある力と
喜びと光を失っている.
けれどこんなことたちは多くの人
にとって分かりきったことだし、
私も何度も突き当たりながら決し
て解決はできないことだ.
意味ないし、重苦しいという批判
も当然あるだろう.
晴屋はどちらかというと感性や本
能に訴えることを重んじてきた.
これは変わることはできない.
これがなくては晴屋とはいえない.
生産者や自然を大事にするとい
うのも変わりようがない.
こんな不器用な私たちにどんな
道が残されているのか.
全うを全うするには、全うなだけ
ではできない.
今を生きる悦びと、まわりを見つ
める厳しい目と、これからを感じ
る直感と、流れにのって一瞬を乗
り切り方向を変える行動力と、苦
境にも耐えてめげない持続力と、
自分自身を極める集中力の全て
を充たさなくてはならない.
そんな完璧な人間などいるわけ
はないけれど、そうしたものがある
と感じる以上は目指して進んでみ
るしかない.
かつて道はみんなの場所で、洗
濯物を干したり、ものを売ったり、
だれもが自由に使っていた.
今では通行以外には使えない.
手間がかかって能率の悪いトラッ
クの引き売りだけれど、それだか
らこそこんな時代錯誤なものを続
けたいという気持もある.
音楽などで一度味わった感性の
開放と精神の共感は捨てられない.
ポップになりきれないにしても、年
齢を重ねたゆえの感性の開放や
精神の飛翔はできるかもしれない.
手さぐりの試行を感性や魂の開放
につなげていくにはまだまだ修行
が必要だ.

晴屋の青い扉 その88
懸命な言葉
3月は忙しい季節だ。
暖かさに誘われ、何かとそぞろ歩
きたくなり、新しいものを求めて人
が動きだす。
転勤や新入学で、実際に動かな
ければならない人も多くいる。
仕事も年度末で、車の通行も多く
ざわざわとした雰囲気がひたひた
と押し寄せる。
以前よりは商品が見やすくなった
晴屋だが、外へのアピールはま
だまだ不足している。
特に看板は「晴屋」の字しかなく、
いったい何を売っているのか、何
を訴えたいのかが伝わらない。
雰囲気や内容を、一言や絵で表
現できればいちばんいいのだが、
これがなかなか難しい。
ドイツに行ったとき、内容が充実
し、親しみを持てた自然食品チェ
ーン店に、「LPG BioMarktエ
ルぺーゲー・ビオマルクト」という
のがあった。
LPGは、美味しくて、安くて、安全
という言葉の頭文字、ビオマルクト
が、有機栽培の店という意味だ。
こうした短い言葉で内容を表現で
きる言語を羨ましく感じてしまう。
日本では「自然食品店」という言
葉が長い間定着していた。
しかし「有機」「無農薬」「無肥料
自然栽培」などのより明確な基準
を表現している言葉が氾濫する
中では、実態がよく分からない曖
昧な表現で、イメージだけが先行
し内容が伴わないものと混同され
る。
「無添加」や「無農薬」も安全さを
前面にだしたものだが、これも
行き過ぎると都会の消費者がお
金の力で良いものを買い集める
エゴを感じさせる。
晴屋では以前から「美味しい」に
価値を置いてきた。
美味しいは人によって基準が違
い、他の誰も押しのけるものでは
ない。
自分の体に必要だという正直な
感覚そのものだ。
あれが良いはずだとか、良いと
言われているという不純な理屈
ではない。
そして「安心」も、心が安らぐという
意味だ。
どんなものでも、嫌いな人と食べ
ればまずく感じるし、心をこめて
出されたものなら美味しく感じる。
そうした人や自然とのかかわりを
表現している。
ドイツに行って、ちょうど一年。
その間くすぶっていた思いもあっ
て、新しい看板の制作を決意し、
メンバーたちに提案した。
やOYA 晴屋
Oisii Yasui Ansin
おいしい野菜
安心な食物
というものだ。
ドイツ語のLPGを、ローマ字のOYA
に替えて、八百屋というなじみの
ある言葉にかけている。
分かりやすくて、ちょっと面白くて
うけると思ったのだけれど、残念な
がら大ブーイングの嵐で、あえな
く却下となってしまった。
みな、OYAが嫌なようだ。
良いと思ったのだけれど。
だったら何がいいのかと言うと、
「有機が分かりやすくていい」とい
う提案があった。
たしかに今日、最も定着した表現
だ。
昔は、有機八百屋とうたっていた
時もあった。
有機はとても意味合いの深い言
葉だ。
無機の反対で、一酸化炭素CO
と二酸化炭素CO2等以外の炭素
化合物というのが本来の意味だ。
結合力の強い炭素Cは簡単に化
合しないが、化合するとその状態
を保つ。
生物はその力を利用してエネル
ギーを蓄えたり、身体の組織を作
ったりする。
だから「有機」というのは、生命
活動の証であり、複雑なものが集
合して全体で調和して生きている
状態を表現している。
「有機的」という表現にそのニュア
ンスが生きている。
それが今は、一定期間農薬等を
使っていませんという安全性を証
明する表現となり、すっかり安っぽ
くなってしまった。
それに、とても抵抗がある。
それで妥協策としてTradという言
葉を思いついた。
Traditionalは伝統的という意味。
TradOrganicsは、今の有機でなく
昔からの本来の意味の有機だと
いう自己主張をこめた私の造語
だ。
HAREYA
Trad Organics
おいしい野菜
安心な食物
「晴屋」より、下の言葉を前面にだ
したかったので、晴屋はローマ字
にした。
これで一応、皆の了解がとれた。
制作はいつもは私がやるのだが、
今回は外注する。
ミーティング時から参加してもらっ
た小泉さんは、40年以上の付き
あいがある。
私がシティロードという情報誌で
働いていた時のデザイナー兼編
集長だった人で、今は趣味で木
工をし、バザーなどで売っている。
木工の技術は私と大差ないが、
センスには当然光るものがある。
一週間ほどでできるというので、
その間に看板を変更するための
作業をはじめる。
吊り下げ式の両面看板は、今回
の計画の大きさでは、下にあるや
たらと丈夫に作った黒板用の看
板立てとぶつかってしまう。
仕事の合間をみて、15cm切り詰
め、半割の柱用の角材を切って
跡が分からないように付ける。
雨除けのアクリルも切って、はめ
なおす。
ペンキを塗り、照明のスポットライ
ト用の配線もやりなおして、最後は
ペンキで仕上げ。
日常の仕事をこなしながら、この
作業を一日ですませると、すっか
りエネルギーを使い切る。
腕は痛み、腰は強張り、首も固く
なって疲れを主張する。
そして数日後、看板をもって小泉
さんがやってきた。
看板は紺の地に、周囲が木目を
生かしたこげ茶で、人参が立体
的に色鮮やかに浮き出ている。
できはとてもよく、知らない人がふ
らりと入ってくる。
冷やかしが多くて少し迷惑だなと
思うくらいの人を引き付ける効果
がある。
私たちの思いが、実際にどれだけ
伝わっているのかは分からないが、
エネルギーを注いで作ったという
のは感じられるのだろう。
子育ても同じだけれど、何かが伝
わるというのは、内容の問題より、
どれだけエネルギーを注いだか
による。
春の、忙しいだけでなく、何かと
体調や精神が不安定な時期に、
なんとか乗り切って前に少し進め
たと実感できる充実した時だった。
看板は昔から常連さんたちには
何の効果もない。
気が付かない人も多くいるくらい
自然な仕上がりだ。
機会があったら、少し足を止めて、
こんなことにエネルギーを注ぐ老
いた男の馬鹿さ加減をお笑い下
さい。

 

 

 

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