晴屋の青い扉 その91~98  内なる辺境 

晴屋の青い扉 その91
内なる辺境に生きる その1
「真夏の感覚とシティロード」
暑く、厳しい気候が続き、それに
対処しようと、愚かな頭を置き去り
にして、私たちの身体は命の力を
ふり絞る。
免疫機構はフル稼働で、エネルギ
ーを消費し、疲れが蓄積する。
肝臓や腎臓にも負担がかかって、
身体は重く、だるく無気力に沈み
ながら、モヤモヤと当てどない要求
が、いたたまれずに出口を求める。
子供たちはメキメキと成長し、老人
はメッキリ衰える。
真夏は、無事に過ごすのが難しい
明暗を分ける季節だ。
この時期の暮らし方が、一年の健
康状態や老いの進行に大きな影
響を与える。
身体の疲労も極限まで達し、心も
精神も追い詰められた、この季節
特有の感覚がある。
私が「夏の感覚」と呼んでいるこの
状態になると、世界の風景が突然
今までと違うものになる。
疲れて重い身体、痺れて思い通り
に動かない頭、前向きなことをなに
ひとつ思いつかない意識を超えて、
眠っていた何かが覚醒し、大きな
イメージが立ち現れる。
今、目の前に映るもの、見えては
いないけれど日常にかかわる人
たち、しばらく会っていないけれど
印象に残る人などが、私の周りを
取り囲むように隙間なく埋め尽くす。
近いものも、遠いものも、みなそれ
ぞれの役割を果たしている。
現在だけでなく、過去のものたち
も、幾層にも重なってそこにある。
全てを同時に見渡し、それぞれの
必然で生きているのを感じながら、
私はひとり、動くこともできないまま、
そこにいる。
疲れ果てた末の妄想かもしれない。
普段は過去や、周囲をしっかりと
見ていないだけかもしれない。
けれどこれこそ、私にとっては真夏
の感覚だ。
時折おとずれるこの感覚に引き寄
せられながら、今年は昔のことを
話す機会も与えられ、過去を振り
返ることが多くなっている。
たまたまであるかもしれないし、今
までのことに向き合う歳になってき
たのかもしれない。
他にも理由があるのかもしれない
が、小泉さんに会う機会が多いこ
とも切欠となっているだろう。
小泉卓史さんはデザイナーで、そ
の朴訥で真摯な姿勢をかわれて、
シティロードという雑誌で編集長も
兼ねていた。
子供たちが独立した今は、仕事も
少し続けながら、趣味での木工を
楽しんでいる。
ポップな感覚にあふれた趣味の良
さと、価格の安さ、誠実な人柄を感
じる暖かな作品は、晴屋の周囲で
支持され、枉駕での即売会も好評
だ。
40年の付き合いの間、たびたび会
っていたわけではなく、細々とした
付き合いが続いていた。
けれどある日、「深大寺のフリマに
行ったけど、全然売れなかった」と
いう話に反応し、「じゃ、あるんでし
ょ、見せてよ」と車に乗った家具た
ちを見たことから、話は展開し、晴
屋の看板を作ってもらったり、晴屋
で働いてる市村さんがダイニング・
テーブルを注文したりして、会う機
会が突然に多くなった。
少食だと言いながら、残り野菜で
作るボリュームたっぷりの晴屋の
まかないも「美味しい」と、楽しむよ
うになった。
「シティロード」は、「コンサートガイ
ド」というフリーペーパーを前身と
した情報誌だ。
東京の情報全般を扱う月間の雑誌
の編集に、八百屋を始める前の数
年たずさわっていた。
及川正通氏のイラストを使った表
紙も印象深い、ポップさを前面に
うちだした「ピア」がライバルである
というよりはメジャーで、こちらはマ
イナーで、ややマニアック、少しア
ンダーグラウンドな雰囲気を漂わ
せ、それが一部には支持を受けて
いた。
西新宿の、建築科の学生が見学
に来るほどの古い古いビルの3階
の狭い編集室に、時折、スキンヘ
ッドで眉毛もなく、黒装束の男たち
が訪れる。
そういう人たちは、もちろんとても知
的に洗練されていて、礼儀も正し
いのだけれど、反社会性だけは譲
れない。
見るからに妖しい人たちもいるし、
妖しい臭いを漂わせている人も出
入りする。
映画、音楽、演劇などにそれぞれ
担当者がいるけれど、私はイベント
やライブハウスといったメジャーが
絡まない、マイナーなものを拾い
集めるのが仕事だった。
集まってくる情報を整理し、時折興
味の惹かれるものがあると取材し、
文章で取り上げる。
SMショーなど飛んでもないものま
でやってきて、新しいもの、知らな
いものに出会う面白さがあった。
有機野菜流通の草分けである長
本兄弟商会などを中心に、西荻窪
に起こりつつあったカウンターカル
チャーの新しい波に興味を感じ、
当時の「西荻フリースクール」現在
の「ホビット村学校」も積極的に取り
上げ、私自身も参加した。
後年屋久島に行った詩人で、共同
体運動のカリスマであった山尾三
省と、並んで野菜の袋詰めをした
のも懐かしく、つい昨日のことのよ
うに感じる。
雑多なことの中にひそかに結晶す
る真実を見つけたようだった。
東京は、エネルギッシュで、圧倒的
に膨大だけれど、情報の出所は実
はそう多くはない。
続けていると、一定のパターンが
感じられるようになってくる。
メジャーな情報に絡んでやってくる
「業界」の雰囲気も鼻につく。
結局は自分が作る立場にならない
と、何も変わらないのだろうと思った。
長本兄弟商会、通称ナモ商会も
経営は厳しい状況が続き、仕入れ
部門を独立させて経済を立て直す
ことになり、「ジャパン・アグリカルチ
ャ・コミュニティ」通称JACジャックが
動き始める。
いずれは百姓になろうと思ってい
た。
農業の現場に触れ、入植の機会も
見つかるかもしれないと、開始して
そう時間がたっていないジャックへ
の参加を決めるのに迷いはなかっ
た。
私を引き留める人はいない。
みな、その場にそぐわないと気づ
いていたに違いない。
マイナーなシティロードの中でも、
周囲に染まらない偏屈な存在であ
ったのだ。

晴屋の青い扉 その92
内なる辺境に生きる その2
「70年代の八百屋」
1970年代は、1954年生まれの私が
16才から26才までの、最も多感で
不安定な時期だった。
戦後の復興は進み、多くの人が食
べるにはさほど困らないけれど、豊
かさが実感できるほどではない。
一方で経済優先によって置き去り
にされたつけが現れ、公害や環境
汚染の問題も一部には取り上げら
れはじめてきた。
活気はありながらも先の見込みは
立たず、手軽な楽しさと閉塞感が
同居する屈折した感情が渦巻い
ていた。
こうした圧縮した感情がぶつかりあ
う時には、芸術的には面白いもの
が生まれる。
ビートルズが一世を風靡し、ロック
が台頭する。
ポップアート、映画の新しい波が
押し寄せ、クラシック音楽でも古楽
という新しい発想が生まれている。
20代後半で、有機農産物の仕入れ
センターJACに参加した頃、私より
少し上の世代、30代半ばの人たち
が八百屋を始めている。
子供がいて、これから経済的にも
厳しくなっていくことが予想される
人たちが、なぜこの時期に始める
のだろうと、まだ子供がいない私
は不思議に思っていた。
そうした人たちの大半は学生運動
の経験者だった。
自分ができるギリギリ最後の決断
として仕事を変え、八百屋を選んだ
のだろう。
一方、ナモ商会やJACの創始者た
ちは、コミューン(共同体)運動が出
自だ。
社会の制約や責任に捉われず、
自由に気ままに暮らすことを生きる
悦びとしていた。
伸びやかで、屈託なく、フレンドリー
だけれど、締まりがなく、自他への
甘さがある。
すでに整体法(野口整体)と出会い、
個としての宇宙、宇宙としての個の
感覚を知っていた私には、地球は
ひとつ、すべての人と通じることが
できるというヒッピー的な曖昧な感
性に身をゆだねることはできなかっ
た。
学生運動も学生時代を過ごした70
年代にはすでに、形骸化していた。
反権威という名の権威が支配し、
すでに上で決まっていることをなぞ
っているだけの会議が延々と続く。
理想の残り香があるだけだった。
八百屋の中のこの二つの流れは、
はじめはとてもうまくいっていた。
けれど次第に手段と目指すものは
別のものとなり、数年後は決別し、
分裂してしまう。
まだこの時期は出会いの蜜月だっ
た。
その時代に竿さして生きようとする
双方の良さも分かってはいたつも
りだが、どちらにも精神的には加
われなかった。
ここでも私は浮いた存在となる。
会議の場で、テクノクラート不要論
という暗に私を否定する話題もで
てきた。
仕事はこなすし、生産者たちにも
受けはいいけれど、心が通じない
人間として遠巻きに扱われる。
精神的、経済的にも東京の中の
辺境にあっても、私はさらに片隅
にいた。
JACでの仕事は主に野菜の集荷と
仕分けだ。
早朝に産地まで古い4tトラックで
野菜を引き取りに行き、帰ってから
仕分けて配達する。
中央線沿線沿いの店舗や、その頃
にはまだ多くいたリヤカーでの引き
売りのために野菜を深夜、届ける。
明け方帰宅し、仮眠したら、昼過ぎ
には事務所にしていた古いバスの
中で、野菜の注文を受けて、生産
者に発注する。
高速道路高架橋に半ば占拠した
雨をしのげる塀の中にその当時の
JACはあった。
いつも資金不足で、週に2~3万が
給料として手渡された。
お金がない中、ガソリン代を持って
産地に野菜を集荷にいく。
畑を見て回り、野菜の様子を聞き、
育て方や天候とのかかわりを知る。
土を手に取って感触を確かめ、時
には口に含んで味覚や嗅覚で確
認する。
五感を使い、感覚と知識をすり合
わせて経験を蓄積できる貴重な体
験だ。
お昼時に行くと、ご飯も食べさせて
もらう。
野菜や環境、農家の暮らしや食べ
物と直接向き合うことができる。
茨城の玉造、渥美の土百姓、北軽
井沢など、季節によっていろいろな
ところへ行った。
その中で一番印象的だったのは、
山梨の長坂だ。
八ヶ岳の山麓にあり、正面に甲斐
駒ケ岳が大きな存在感を誇り、遠く
北岳も見える。
その左手には富士山も見えて360
度のパノラマが、文字通り長い坂
から遠望できる。
そして森が多く残っていて、四季を
通じ静けさが支配して、美しい。
多くの生産者を見て回ると、森を
持つ人とそうでない人の農業の姿
勢や野菜の味の違いを感じる。
もちろん経済的ゆとりということもあ
るのだろうけれど、森とともにある人
たちはどこかゆったりし、できた野
菜の味も伸びやかで、豊かだ。
森から流れる栄養豊富な水や、落
ち葉で作る堆肥、品種の選定や間
引きの仕方など多くの要素が加わ
っての結果だろうけれど、森を背後
にかかえていることにひとつの力を
感じる。
森に囲まれた長坂は理想的な場所
に思えた。
しかし、しばらく付き合ってみると、
人とのつながりとしての自然にも
向き合わされる。
よそ者である私たちが、森を歩いて
もあまり問題にはならない。
「もの好きな都会の連中がまた来て
いる。」という程度だ。
けれど一端、地元の人間と認知さ
れると話は違う。
何のために入ったのだろうと寄り合
いで話題になる。
取り分け、土地の区分を証明する
杭の位置には神経を尖らせる。
私たち都会人にとっては誰のもの
でもない自然である森も、そこに暮
らす人たちには誰かの所有物であ
り、財産なのだ。
森を歩くのも遠慮がちになり、機会
も少なくなる。
そこに生きる覚悟がないものにとっ
ては、何のための自然か分からなく
なる。
もちろん長坂に限ったことではない。
日本中どこでも同じだろう。
そして当時のテレビの影響の強さ、
東京の一元的価値観への志向も
異様なほどだった。
東京のあり方に矛盾を感じていた
けれど、東京が変わらなければ地
方の良さも、自然の美しさも保てな
いと思い知らされる。
自然の豊かな美しさも、都会や人
とのかかわりの難しさも教えてくれ
たのが長坂だ。
私は生産者になることを諦め、八百
屋として東京で生きる決心をする。
そして1980年9月、晴屋のトラックの
引き売りが始まった。

晴屋の青い扉 その93
内なる辺境に生きる その3
「終末から共生へ」
晴屋をはじめた1980年代は、私に
とっては、まず子育ての季節だった。
81年の5月に長女が生まれ、その
後の8年の間に、4回出産に立ち
会った。
4人とも運よく、自宅出産で無事に
生まれ、まだ仕事もそう忙しくはな
かった時期なので、育児に参加で
きた。
目つきの悪い私が道端に座ってい
たら相当に妖しいが、子どもといっ
しょだと突然にいい人になる。
子育ての大変さもあるけれど、社会
との接点も作ってくれる。
流行り物が嫌いで偏屈な私だが、
子どもに助けられ楽になったことは
多い。
そして子供はまず親の思い通りに
はならない。
テレビや、甘いもの、お金といった
世の害を助長するものを遠ざけよ
うとすると、かえって興味を持つ。
成長し、自分で理解するまで時間
の経緯をいとわず、待つということ
の意味を知ったのもこの時期だ。
その感覚は、日々どうお客さんと接
するかにもかかわってくる。
最初は、東京はもう未来がないとい
うところから晴屋は始まっている。
いきおいストイックになり、厳しさを
求める。
晴屋は当初から、野菜の量り売り
をしている。
必要なものを、必要な分だけ手に
とって買うのがいいだろうと思う。
開業当時は野菜の品質のばらつき
も今よりずっと大きかった。
けれど野菜への配慮がなく、他の
人の迷惑を考えずに野菜をガサガ
サと粗雑に選ぶ人に耐えられない。
野菜を命としてでなく、物としか見
ていない。
私は明確に拒否する。
「お客さんには野菜を選ぶ権利が
あります。私たちにもお客さんを選
ぶ権利があります。あなたに売る
野菜はないから、帰って下さい。」
ほとんど喧嘩腰で、逃げ場がない。
そして安全なお菓子を求めてく
る人たちにも、「おやつはお母さん
が作るものです。」などと言って、
「わが子のおやつ」という乾パンに
少し味がついたものしか置いてい
なかった。
まだ20代後半の若気のいたりとは
いえ、ずいぶんと無茶をしたものだ。
けれど反面の熱意もあり、反発もさ
れたけれど、強い支持もあった。
そして子育てを続けるうちに、その
基準はどんどんと緩くなる。
お菓子やジュースの品ぞろえも増
え、即席めんなどのラインナップも
充実していった。
人間は生きるのに必要になると、削
られる自尊心や基準がある。
晴屋をはじめて数年後、「風の谷
のナウシカ」の映画が世にでるよう
になった。
製作委員会主体で作った自主制作
の映画のため、通常の映画館でな
く、市民会館や体育館で自主上映
されている。
子どもたちを連れて見に行き、深く
心を揺すぶられた。
人類に救いと未来はあるのかという
重いテーマが、世の闇を見る私た
ちに切実に訴える。
映画の続きは「アニメージュ」という
雑誌にマンガで連載されている。
複雑に積み重なるストーリー。
主人公たちは、自分の生きる道、
生きる場を求めて葛藤する。
宮崎駿男監督は映画とそれに続く
マンガの展開を、「終末論から共生
論への転換」と表現していた。
雑多なこと、どうしようもないことが
あっても、私たちはここで生きてい
くしかない。
それが私たちの人生なのだ。
それほど頭が良くない私でも、その
主張の意味は理解できた。
平凡と悲惨、雑多と刺激が混濁し
て先行きが見えない世界であって
も、そこにも命は宿っている。
理想とははるか遠く、目前の霧も
闇もふり払うことはできないが、ま
わりとのつながりのために生きてい
くことはできる。
野菜と子どもたちに手をひかれ、
ひとりの素の人間として社会と向き
あうことができるようになった。
バブルに浮かれうわついた80年代、
世間とは真逆の方角に生きていた。
いつも自己を主張しない濃紺のT
シャツに、作務衣かGパンを着てい
た。
野菜も人も、見かけではなく中身が
大事という意思表示であり、野菜の
美味しさがすべてを語ると信じてい
た。
華美や虚飾がないこと、「無農薬」
などの尤もらしいキャッチフレーズ
がないことが本物の証しだ。
地に足をつけ、梢から垣間見える
空や雲のうつろいを見上げていた。
80年代は、暗黒の闇を脱して、心
を鎮める藍色に染まりゆく日々だっ
た。

晴屋の青い扉 その94
内なる辺境に生きる その4
「内なる辺境」
ものごとを客観的に捉えるのが得
意で、数字には強いタイプだけれ
ど、不思議なくらいに経済観念が
ない。
話すのも苦手で、愛想もなく、およ
そ商売向きではない。
こんな私がこの仕事を続けてこられ
たのは、私の背後にある自然の豊
かさと人の営みの確かさ、必要なも
の、美味しいものを求めるお客さん
たちの感性の健全によっている。
けれど似つかわしくないことでも、
長年続けているとそれなりに自分
のスタイルもできてくる。
整体法の野口晴哉は、「不向きな
ことでも25年を超えると自分の味が
でてくる」と言っている。
内気で無口な私が、客観的な説明
をしながらお客さんの感性に切り込
む、一歩前にでるようなスタイルが
いつの間にか私の個性と思われる
ようになっている。
ひと息に過ぎた、つい昨日のことの
ように思える八百屋の日々も、もう
38年もたってしまった。
一度だけ、八百屋を辞めようと思っ
たことがある。
晴屋をはじめて数年後、有機農
産物流通センターJACにかかわる
グループ内部で、創始者たちと、
別の路線でセンターを運営したい
主に学生運動経験者の新興勢力
の対立が深まり、独立の動きが起
きてきた。
私には自由という名の独裁と、民
主という名の衆愚のどこにでもあ
る、人類永遠のテーマのような争
いと感じ、どちらにも加担はしなか
った。
世に新しい動きを起こしながら、何
のミスも軋轢もなく組織を運営する
ことなどありえないと思っていた。
無理な独立での無益なエネルギー
の消耗を避け、現状での改善を望
んだ。
何度も会合がもたれ、話し合いが
続く中、独立を前提としている人た
ちには邪魔な存在として、私が矢
面に立たされる。
現役の八百屋であり、センター経験
者として流通の事情も知り、生産者
ともつながりがある。
誰も圧し潰すはできない。
そして最後に「その言い方はなん
だ」という急先鋒の人物の言葉を
皮切りに、何人かのリーダーたちが
同じ表現を連呼する。
内容でなく、相手の人間性を否定
することで立場を正当化する。
踏み絵を目の当たりにしているよう
で、怒りよりは哀しみに近い感覚に
とらわれた。
こんな連中や、こんな連中をなんと
も思わず支持する仲間と八百屋を
やっていくことなどできない。
発言するのをお終いにし、静かに
辞める決意をした。
けれど翌朝になって、寂しさと喪失
感があふれだす。
八百屋のくらし、命や自然と共に
あるくらしは、私の一部となってい
た。
それを分かつことはできない。
グループやセクトに属さず、自分の
道を歩むしかない。
私は以降、ますます孤立した独自
の道を進むことになる。
しばらくしての放漫経営の果ての
JACの倒産もあり、今までの品物を
扱い続けるために直接の取り引き
をする必要にも迫られ、卸やセンタ
ーからでない、直送の生産者が増
えていった。
発注作業や、発送のロットや運賃、
検品や支払いなど、直接の取り引
きでは手間がとても多い。
けれど自分で納得したもの、話を
しながら改良し育てたもの、生産者
の心意気と畑の風景を感じられる
ものをあつかう悦びは大きい。
必ずしも自分で求めたのではない
孤立路線だけれど、いつか晴屋の
個性のひとつとして定着している。
JACの流れをくむ流通センターの
メルカウーノとOFJオーガニック・フ
ァーム・ジャパン、比較的近い場所
なので直接引取できて鮮度と価格
を両立できる「こだわり村」が、野菜
の主な仕入れ先だ。
加工品は、ムソー、創健社、杉食、
オーサワジャパン、恒食などから
納得できるものを選んで仕入れて
いる。
その他に直送の生産者が数十件
あって、晴屋の店頭に色どりを添え
ている。
沖縄の芳野君のオクラ、水沢の小
平さんのりんご、山梨白州の有精
卵、庄内協同ファームの玄米おこ
し、山形の三吉の味噌と醤油、大
阪のやまだのせんべい、斎藤さん
の生蜂蜜などなど、海外からもオリ
ーブ油やバリの塩、ドイツのノンア
ルコールビールまでやってくる。
どれもかけがえのないものたちだ。
何かの系列に属し、その範囲で店
を切り盛りすることも可能だろう。
その方がずっと効率がいい。
しかしそうした合理化ができず、古
いスタイルを残す時代遅れの八百
屋となってしまった。
野菜の量り売り、トラックでの引き売
りなど、今は他の八百屋では止め
てしまったことも続けている。
毎週の通信の発行やセールなども
四苦八苦しながら継続している。
精神的には、未だに昔ながらの辺
境での八百屋である。
東久留米は東京の片隅にあって、
水と緑にめぐまれている。
長坂や屋久島のような圧倒的に大
きな自然や人の痕跡を感じない辺
境ではない。
けれどこの中庸が、極端に向かい
がちな晴屋を包んでいる。
それでも、メジャーになることを目
指せない辺境に生きる目線は、
失うことができない。

晴屋の青い扉 その95
内なる辺境に生きる その5
「野菜への姿勢」
経済的にはいつも不安定でお客
さんたちに支えてもらっている。
だから、ほとんどの食べ物を晴屋
でまかない、「蓮根が入りましたよ」
「あら、うれしい。今日は天ぷらに
しようかしら」と声をかけて悦びを
分かち合うような常連のお客さん
が引っ越しをすると分かると、これ
からの晴屋は大丈夫なのだろう
かと、とても不安になる。
それでも不思議なもので、たいて
いはその人に代るようなお得意さ
んがあらわれて、一息つく。
まだ私たちの寿命があるのだなと
ほっとする。
そんな綱渡りの連続のような日々
である。
けれど最近は歳をとって歯が抜
けていくように、頼りにしている人
たちがいなくなったり、家族が減り
買う量がとても少なくなったりして、
お客さんたちに頼ることが難しく
なってきている。
ただ潮がひくままにまかせては
おけないので、良い品物を揃える
だけでなくできる限りのことをして
いる。
看板を明るく、シンプルで、野菜
にこめる気持ちを感じられるもの
にして、美味しさや扱うセンスをア
ピールしている。
以前の棚はこげ茶をベースにして
土のように、品物の個性を邪魔し
ないよう心掛けていた。
今は少しオレンジがかった肌色の
明るく暖かみのある木目を生かし
たものに一新して、積極的に個性
を主張している。
南瓜の中身のみっちり詰まった
様子が感じられる深い緑色や、み
ずみずしさが零れそうな林檎の赤
を際立たせている。
野菜たちの表情を感じられる見や
すい棚やレイアウトは好評で、日
々の賑わいと売り上げをなんとか
維持している。
けれど決して明るい見通しは持て
ないでいる。
一番の気がかりは、野菜や食べ
物に向かう姿勢の変化だ。
以前はどんなにみすぼらしく見え
ても、散らかって混乱の中にあっ
ても、晴屋の発する臭いをかぎつ
けて、お客さんたちがやってきた。
萎びた小松菜にも内なる生命力
を感じ、ゴツゴツの愛想のないみ
かんの中のほとばしる一途に興じ
買っていってくれる人たちがいた。
「美味しそう」、「面白そう」とか、
見たこともないものに出会うワクワ
ク感など、感じ方は様々でも、そ
の人らしい向かい方で、野菜を
自分のものにしていった。
けれど今は本能的嗅覚で晴屋に
たどり着く人が少なくなってきてい
る。
有機や無農薬、無添加、無肥料
自然栽培などの知識や理解はす
すんでいて、基本から説明したり
する機会は減っていて、そういう
意味では楽になった。
けれど思い込みをぶつけ、なぜ
この野菜を売るのか、買うのかを
問いかけるような手ごたえを感じ
る機会がとても少ない。
互いに干渉しない時代の流れで
はあるだろうし、私たちが歳とっ
てきたということもあるだろう。
しかし、言葉を追い、数字に追わ
れているだけでは、生きているこ
とにはならない。
食べたときに湧いてくる悦びや満
足感で日常を満たし、組み立て
たいと願う私たちにとっては死活
問題なのである。
野菜がいのちとして大切に扱われ、
食べる人たちの身体と心に暖か
な火を灯すものでなければ、晴屋
の力は失われ、萎んでいく。
いのちを支える力を持った野菜
があっても、それを受け取る人が
いなければ野菜も生きたことには
ならない。
かつては野菜の持つ力に頼って
私たちは歩んでいた。
若い私にもエネルギーがあった。
野菜は人を元気にすると信じて
いた。
野菜嫌いの子供が晴屋の生命力
に溢れ雑味のない野菜は食べた
り、子供ができない人が妊娠した
りということがよくあった。
伝える私たちのいのちのあり方で、
伝わるものも大きく変わる。
もう子育てが終わった私に、昔と
同じエネルギーを発散することは
できない。
この八百屋が今までにない新し
いものを世に問う時はすでに終わ
っている。
そして農業も変わっていく。

晴屋の青い扉 その96
内なる辺境に生きる その6
「農業の不自然と辺境の八百屋」
30年以上前には驚くような野菜
がやってくることがあった。
形が美しく揃った茄子が、神々し
い光沢を放つ貴石のようっだった
こともある。
反対に葉がズタズタに食い破られ、
肌も荒れた虫の食べ残しの小か
ぶが箱から飛びだすこともある。
かぶは作りやすい野菜で、古の
中国では戦いに赴くと戦地でまず
かぶを育てたという。
種をまき、葉が出ればつまみ菜と
して汁の具に、もう少し大きくなれ
ばおひたしで、花が咲けば美味
しく食べられ、実がなったら菜種
油が作れる、そして移動となって
も惜しまずに捨ておける。
土が肥えていなくても、肥料が多
過ぎてもそれなりに育つ。
だから生産者も土にとりあえず栄
養を入れたいと、生の鶏糞などを
撒いてかぶを作るということがよく
あった。
そうすると早く育って、味はそこそ
こ良くても、窒素過多のために虫
食いも多く、ボロボロの見かけに
なってしまうのだった。
さすがに今はそんな荒っぽく手を
抜いた農業をする人はいない。
40年の時の流れの中で、思い入
れを優先して現実がお留守にな
る人はいなくなり、まじめに地道に
農業を営むひとたちだけが残っ
ている。
そしていつも過不足のない、野菜
を出荷してくれる。
野菜は芸術作品ではないのだか
ら、他を寄せ付けない至高のもの
である必要はない。
生活用品として暮らしをみたし、
いのちを支える力を持った野菜
であればいい。
いつどんな状況でも同じように80
点の品質を続けてくれることが一
番だ。
100点を狙って大失敗するよりは、
80点の安定した品質であること
が望まれる、職人の世界である。
そのために、失敗もしながら経験
を重ね、野菜や天候の先行きを
読む目やそれに対処する技術を
高めていく。
それは私たちにとつて間違いなく
進歩だ。
美味しい野菜を切らさずに届けて
くれるのだから。
けれど「自然」という立場からみる
と違うものが見えてくる。
野菜は大自然の野生の中から生
まれたものだ。
最初から野菜という作物があった
わけではない。
野草の中から美味しいものを選
び取り、栽培して改良していった。
人間に都合の良いものだけを育
て、他のものを排除して畑を維持
する。
天候や土が好都合でなくても、
種まきの時期を変え、藁やビニー
ルで覆い、肥料を調節して育て
てしまう。
野菜は不自然なものでもある。
さらに邪魔な虫や病気を避ける
ために農薬を撒いて、多様で共
生的な生態系のバランスを変える。
工場での水耕栽培で命のゆりか
ごである土と切り離し、放射能や
劇薬を使っての無理な品種改良
を推し進め、遺伝子を組み換えて
命のあり方まで変えていく。
農業も、「不自然」を通り越し「反
自然」になってしまっている。
野菜は自然なのか、そうでない
のか?
どこまでが許されるのか?
日々問い続ける。
私たち晴屋も安心で美味しい野
菜を扱っているからといってそれ
だけで、自然の守り手であり、命
によりそっているとは簡単には言
いきれないのである。
自分たちのやっていることが、正
統であり、当然と主張すれば、分
かりやすく、「正しさ」を求める人
たちに訴えることも容易だろう。
しかし、何かを提起し、告発しつ
づければ、自分が正当化されると
思えるほどには愚かになれない。
昔は良かったと感傷にひたる幸
せからも遠いところにいる。
軋轢や矛盾をかかえ、ゴツゴツと
壁にぶつかり、答えのない答えを
求め葛藤し、懲りずに同じことを
くりかえす。
内なる辺境は私にとって永遠の
故郷であり、戦いの場であり、自
然そのものである。
自らへの問いかけと答えを探すた
めの秘かな冒険、誰も行ったこと
のない場所への希求が続くうち
は、晴屋に風が吹き、少しづつ
歩を進めるだろう。

晴屋の青い扉 その97
内なる辺境に生きる その7
「天つ波の中の晴屋」
岩手水沢の小平さんのりんごや
洋梨、茨城玉造の小塙さんの蓮
根は、創業以来、もう38年間も晴
屋の店頭を充たしてくれている。
あって当たり前の空気のような存
在だが、どこに出しても恥ずかし
くない自慢の品物だ。
秋の始まりとともにやってくる北の
恵みは、作った人の顔や畑や農
園の風景を思い起こさせ、遠くに
あってもいつも近い。
そんな蓮根やりんごの取り扱いを
やめるかどうか真剣に悩んだこと
がある。
あの東日本大震災の時だ。
多くの人が被災し、命が失われ、
生活もその基盤も壊れてしまった。
大きな自然のうねりの前に、私た
ち人間はいかに無力か、またどれ
だけ自然に頼って生きているかを
思い知らされた。
そしてこの震災は人災までもひき
おこし、社会の矛盾も明らかにし
た。
原発の事故は、自然の修復力を
超え、長い長い時間に爪痕を残
す。
福島に近いほど放射能数値は高
くなった。
風向きや山の傾斜の方向での差
やばらつきはあるが、客観的な事
実として受け入れざるをえない。
美味しいだけでなく、安全な野菜
を扱う私たちは、今までのことをそ
のまま続けることができない。
同じような食品を扱う他のグルー
プでは、関西に限定した野菜を
前面にだして売り上げを伸ばし
ていたが、私にはすぐに仕入れ
先を切り替える冷静で合理的な
選択をすることも難しい。
もう30年以上生産者とつきあい、
身体にも心にも馴染んだ野菜を
簡単に切り捨てることはできない。
生産者たちも当然危機感をもっ
て、放射能値の測定をはじめた。
晴屋でも比較的性能の良い測定
器を買い、2㎝の厚さの鉛の箱を
作ってCPM(一分当たりのα線や
γ線の数値)を測った。
精度を上げるために一品目に約
2時間かける。
簡易測定でも一日に数品目を測
るのが精いっぱいだ。
そしてチェルノブイリの事故の後
のベラルーシなどの事例を参考
にして、20Bq/kg以下ならまず問
題はないだろうと思えるようになっ
た。
20Bq/kgというのは、その数値の
野菜を一年間食べつつけても大
丈夫と予想されるという値だ。
その値を超える野菜は幸いにも、
私たちの産地では、タケノコなど
一部の例を除いて出てくることは
なかった。
先ずは問題はなさそうだけれど、
それでも放射能が少ない方がい
いに決まっている。
晴屋はどういう選択をすべきなの
か。
少しでも安全な方を選ぶべきな
のか、今までの信頼関係や身体
になじんだ美味しさを選ぶのか。
いくら安全と言っても、美味しい
と思えなければ身体や命の糧と
はならない。
放射能も自然の中には宇宙線な
どとともに少しはある。
放射能が遺伝子を壊すといって
も、直接破壊するのではなく活性
酸素を作って、それが遺伝子を
壊していく。
それは添加物や精神的ストレスと
変わりない。
今の数値なら、ストレスを感じるよ
り、美味しい野菜を選ぶべきだ。
ここで扱う野菜を変えたら、放射
能に屈することになる。
この野菜たちと生きていこう。
そうは思えても、今まで通りの野
菜を扱い続けるのは、晴屋の存
続と生活をかけた選択だった。
お客さんたちの支持を得られなけ
れば、30年以上続けたこの仕事
をやめるしかないと覚悟した。
売り上げは少し落ちたが、致命的
というところまでは至らなかった。
お客さんたちの理解と支持には
本当に感謝するしかない。
カンパも募って数十万円が集まり
被害に応じて配らせてもらった。
どこに行くか分からない寄付より
は、確実に生産者に渡される手
の感触を感じてもらえたのだろう。
貧しい私たち八百屋には大きな
金額だが、それで被害がまかな
えるという額ではないが、気持ち
を伝えることはできた。
少しづづ平静を取り戻しながら心
掛けたのは、なるべく今まで通り
を続けることだった。
そしてなにより生産者にも消費者
にも必要なのは、心静かに暮らせ
る日常だ。
特別なことより、日々の暮らしを
取り戻すことができるように野菜
を扱い、届ける。
何事もなかったことにすることは
できないけれど、見知らぬ人のた
めではなく、知っている人といっ
しょに生きることはできる。
何気ない日常が愛おしくなった。
あれから7年。
気持ちを言葉で表してもいいの
かなと、やっと思えるようになった。
最近、俳句にそっとのめりこんで
いる。
十七の言葉にどれだけ想いをこ
められるか。

紅玉の水沢近しいわし雲

天変やもろく熟せる洋梨の

泥蓮根天つ波連れてくぐれり

ゆく月の野も菜も人もみちかけり

「おくのほそ道」は、はるかに遠い
が、りんごや蓮根はいつも近くに
いる。

晴屋の青い扉 その98
身体と言葉
私もいわゆる発達障害だったと
思う。
数字や言葉を覚えるのがとても
苦手で、身体になかなか沁みつ
かない。
誰にも言えず、誰からも助けられ
ずに、自分で工夫するしかなか
った。
頭の中で自分の言葉や感覚に
置き換えれば覚えることができる。
だから丸暗記や、身体で覚える
ということができずにいた。
それは今でも続いていて、言葉
でものごとを記憶するのが難しい。
テレビで見る記憶の達人たちは
言葉の連続を記憶しているよう
だ。
その感覚をまったく理解すること
ができない。
むしろ感覚をそれ自体として覚え
ている。
私には記憶とは、「あの感じ」で
しかない。
それに気づいたのはつい最近だ。
昔のことを書こうと思い立っては
じめてみると、その作業がとても
辛い。
スイッチが入ると、昔のことを次々
に思い出してしゃべる人が多いの
に、私はどうしてこうなのか。
そして、曖昧にうつろう感覚を無
理に言葉を固定して感覚を閉じ
込めようとするのが辛いのだと気
が付いた。
言葉に移すのは、私には自由を
カゴに閉じ込めることだ。
言葉をどこか軽んじて、信用しな
いでいる理由がやっと分かった。
そんな私だけれど、最近少し変
わり始めている。
切っ掛けは、俳句だ。
少し前から、内田洋子さんの文章
のすばらしさに動かされている。
内田さんが文章に開眼したのは、
俳句に親しんでからだと聴いて
興味を持ち、関連する本を読ん
でみた。
芭蕉の句に惹かれるものがあっ
たのは、何故なのか理解するこ
とができた。
「古池の」と「古池や」という一字
の違いで、世界がまったく違って
しまう。
たった十七の音にどんなイメージ
を合わせるかで、その人の持つ
精神がたち現れる。
宇宙の壮大から、日々の心の機
微まで表現できる。

荒海や佐渡によこたふ天の川
芭蕉
鰯雲人に告ぐべきことならず
楸邨

少しでも近づきたいと作句をは
じめる。
よりイメージを伝えられる言葉は
ないか。
いつも言葉を意識する。
こんなに言葉に向かいあったの
は、生まれて初めてだ。
文章が上手くなる気配は今のと
ころないが、話すのが楽になって
いるのに、ふと気がついた。
たぶんイメージと言葉の関係が
密になっているのだろう。
考える前に言葉がでてくる。
これは人間には当たり前の感覚
だ。
私たちは、言葉によって自分を
意識し、外の世界を理解している。
感じたことをそのまま言葉にする
という小さな子どもでもやってい
ることを、この歳になってできるよ
うになってきた。
なんと不器用で、奥手なことか。
それでも、自分の中に新しい感
覚が育つのは面白い。
どこまでいけるか試してみたい。
作った句は人前には出さないと
思っていたのだけれど、震災の
ことを書いたときに、ちょうど作っ
たばかりの句を載せてしまった。

泥蓮根天つ波つれてくぐれり

病床にあるお客さんが読んで、
いい句だと褒めてくれた。
人に評価されてもうれしいと思わ
ない私だけれど、素直にうれしか
った。
言葉に対する感覚が変わってく
ると、こんなことまで違いがでる
のか。
ますます忙しくなりながら、言葉
を探す楽しみは続く。

白菜の手をあわせたり朝寒し

霜柱朱に人参る土おこし

オリオンや眠れる山波きりさけり

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