楸邨先生の墓を洗う会に参加して

九品仏浄真寺にある楸邨(偉すぎる人は敬称を略す古来の習慣に従い敬称略)の句碑と寒太先生

 

楸邨先生の墓を洗う会に参加して      松橋晴

3月26日、加藤楸邨先生の墓を
洗う会に参加してきました。
咲き始めた桜もまだ満開にはなら
ず、寒さも少し残っています。墓の
ある浄真寺には、古の面影が色濃く
残っています。通称の由来となった
九体の阿弥陀如来を囲んで、楓やさ
ぎ草などが季節の彩りをそえます。
由緒ある名刹ですが、どこかアジア
の仏教寺院に通じる活気も感じます。
楸邨夫人のたっての願いで、寺に
無理を言って手に入れた墓地は、細
い道を何度も曲がって辿り着く一番
奥の桜の木の下にあります。その先
は、大の大人が通ることができない崖
のどんづまりで、桜の木の根に守られ
ています。
一時期、落ち葉などが溜まり、荒
れた雰囲気を漂わせた墓を、曽根新
五郎さんが呼び掛けて会がはじまり、
毎年幾度か開かれているということ
です。
この日は、石寒太先生を始め新五
郎さん、波田野雪女さん、世話役の
長濱藤樹さんなどベテランばかりの
総勢10人ほどの中に、私ひとりが
初心者です。最初、参加する資格が
あるかどうか迷いましたが、このよう
な機会には二度と巡り合うことはな
いだろうと、列に加わらさせていた
だきました。
五分咲きほどのまだ勢いを内に秘
めた初々しい桜の元、墓前に手を合
わせ、水をかけ、墓を洗いました。
寒太先生のご挨拶の中で、数駅先の
楸邨先生の旧宅への散策の提案があ
りました。聞けば、以前のご自宅は
売りにだされ、すでに門しか残って
いないということです。ご自身でぜ
ひ確かめられたいご様子で、予定を
変更して行くことになりました。電
車を乗り継ぎ、坂を下って上り、工
事中の旧宅に着きます。
そこにはまだ楸邨先生の庭だけが
残っています。柚子と金柑が実をた
くさん残し、希少な椿が大輪の花を
咲かせ、そして楸邨の若いころ詠ん
だあの落葉松まであります。主がな
くとも息づく庭も、別の人のものとな
り、立ち入ることもできず、やがて行
く末も知れなくなります。この時しか
ありえない一期一会の時です。台
所に直接通されて、ご飯をご馳走に
なっていたという寒太先生のお気持
ちは計り知れません。
この後会場を移し、吟行句五句の
提出と、更に五句を詠んでの句会と
なりました。初めての吟行となる私
には厳しい時間ですが、なんとか数
を揃えられました。私は寒太先生に
始めてお会いしました。以前から先
生の選句は「義」を重んじていると
感じていました。人の懸命さ、暖か
さ、細やかな心情を高く評価されま
す。けれどその底には冷徹と言って
いいほどの判断力と表現力がありま
す。散文での無駄がないのに必要な
すべてが語られ、時として凄みを見
せる文章から窺い知れます。このふ
たつの相容れることが難しい志向の
バランスが、寒太先生の個性と感じ
ます。その懐の深さに甘えて、お酒
の勢いもあり、失礼なことも申し上げ
ましたが、受け流していただきまし
た。
先生の判断力は生まれつきのもの
を、ご自身で鍛えられて獲得したも
のでしょう。義の方は、生来のもの
を楸邨先生に育てられた部分もある
のではないかと想像しています。義
によって導かれている私たちも、楸邨
先生に育てられています。お会いした
ことのない遠い存在の楸邨先生が近
くに感じられる、得難い時間でした。
帰りの電車は方向が同じ新五郎さ
んとご一緒させていただきました。
一度、楸邨先生とお会いする機会が
あったということです。小学校の教
師をされていたころ、新五郎さんを
はじめとする教師のための俳句の講
座に楸邨先生を招きました。晩年で、
体調は優れず、車椅子を使われてい
たそうですが、「私も教師をしていた
から、話をしよう。」と快諾されました。
熱意と誠意をもって話され、最後に
「こどもたちを、褒めてあげて下さい
ね。」と言われてお帰りになったとい
うことです。今日の一日の締めくく
りとして、心に残る言葉でした。

 

坂の墓五分の力の花の中

春や今墓碑をかためる人垣よ  晴

 

 

 

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