晴屋の40年
40年は、長いようでも、一瞬のよう
でもある不思議な時間です。
昨日晴屋を始めたばかりのような気
もしますし、よくも飽きずに続けてい
るものだなとも感じます。
こうしたわがままな感覚を持っていら
れるのも、自然の持つ包容力と、消
費者のみなさんの安全で美味しい
ものを目指す感覚と理解によるもの
です。
その間をとりもつことができる仕事を
する幸せと醍醐味が私たちのなによ
りの支えです。
自然と言う、あって当たり前だけれど
複雑で、豊かでとらえどころがなく、
命を守り、育て、奪いとっていくもの。
その中で、人間として自分らしく生き
子どもを育て、確実で明確なものを
求める私たち。
責任や、コストや、分かりやすさ、速
さを求める現代の社会の中で、自然
の側に立ち、命の働きを重んじる人
たちとつながっていくことには、それ
なりの難しさもあります。
多くの人が個の世界に向かい、自然
の大きな流れから隔絶した暮らしを
している今、個の世界を犠牲にして
まで、自然の流れを受け入れようと
する感覚はなりたちにくくなってい
ます。
また、自然界のバランスが崩れて変
質し、今までの常識や歴史感が通用
しなくなっています。
新たな秩序、新たな文化を私たちが
作り上げることができるかどうか試さ
れる厳しく、難しい時代です。
今年は今まで以上に野菜や果物の
生育に厳しい天候で、多くのみなさ
んの期待に応えることができず、心
苦しい場面も多くありました。
しかし一方、これが自然だという思い
もどこかにはありました。
人間を暖かく育み、思い通りになる
のが自然ではありません。
あるがまま、高いところから低いとこ
ろに水が流れるように移動し、変わ
っていくのが自然です。
江戸時代以来、比較的平穏な気候
の中に生き、文化を育ててきた私た
ちですが、その秩序は失われつつ
あります。
しかし、人である以上、よりよい状態、
理想を求めて生きるのは当然のこと
です。
インターネットを血管とする巨大な
社会では、ごく一部の人たちが大き
な利益と自由と優越をえて、大部分
のひとたちが貧しく、狭い場に縛られ
ます。
情報や発信の自由はあっても、生活
の充実がなければ、本当の精神の
自由、肉体の感覚の発散はありえま
せん。
肉体を離れ、知性の純粋を求める
のは、人間の進歩や進化の方向で
はありますが、その道は呪われてい
るともいえます。
肉体の感覚の悦びの支えの無い知
性は、まもなくAIにとって替わられる
でしょう。
こんな時代に、私たちを原初に引き
もどし、新たな一歩を進む支えとなる
のが、食べる楽しみであり、作る楽し
さです。
こうして書いてみると、改めて40年間
にいろいろあったことを思い出します。
晴屋を始めてしばらくして見た「風の
谷のナウシカ」は終末論の世界でし
た。
もう世の中は駄目だけれど、それでも
前に進もうとしていました。
その後、宮崎駿監督は、共生論に転
じます。
この仕方ない世の中だけれど、この
中でみんなで生きていくしかない。
それは、晴屋の変化の方向でもあり
ました。
そしてこの先はどうなるのでしょうか。
世の変化の速度はますます早まって
います。
40年前、まだ生まれていなかった長
女が子供を産み、その子が大学生
になっています。
そう思うと、40年と言うのは長く、重く
感じます。
安全や、無農薬、無添加という、理知
的だけれど、どこかに優越や差別を
感じさせる表現を嫌い、美味しいや
有機(国の安全基準ではなく、本来
は複雑な生態系を表す言葉)を選
んで使ってきました。
美味しいは、自分自身の感覚で誰
とも比較したり、差別したりしません。
大きな波に乗り、大きな利益を求め
るより、静かで満ち足りた暮らしが
望ましく感じます。
イリイチの「世を照らす光になりなさ
い」という言葉が思い出されます。
手元、足元しか照らせない小さなろ
うそくであっても、自らの光で生きて
生きたいと願います。

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