旬の音楽「真夏のバッハその2」 シャコンヌ 五嶋みどり

旬の音楽「真夏のバッハその2」
シャコンヌ   五嶋みどり

バッハの無伴奏バイオリンのための
ソナタとパルティータは通常、ソナタ
No1、パルティータNo1、ソナタNo2、
パルティータNo2、ソナタNo3、パル
ティータNo3の順にCDに録音されて
います。
他の並び方のものはごく稀にしかあ
りません。
バッハが綿密に、緊密に考えつくし
た曲順なので、他に選択の余地は
ないのでしょう。
真ん中のやや後ろにあるパルティー
タNo2の最後の曲「シャコンヌ」は、
この曲集のピークであり、西洋音楽
の最高傑作とも言われています。
オーケストラなら組み合わせを変え
れば、無限の音色の変化が得られ
ます。
ピアノなら一人で10の音が出せます。
けれどバイオリン属の弦楽器は一つ
乃至は二つの音しかだせません。
音色やフレージングに他の楽器には
ない表現力があっても、とても制約の
ある楽器です。
けれどバッハは果敢にこの楽器と音
楽の限界に挑みます。
自ら選んだ制約とバッハが感じる宇
宙の節理を高い次元で融合し孤高
な世界を表出させています。
通常私はバッハの音楽に建築物や
宇宙を感じます。
音が緩やかに上昇しながら空間に
足跡を残し構造のある物を形作りま
す。
大伽藍を音と一緒に上昇する感覚
に身をゆだねているとある瞬間から
宙を漂う感覚に誘われます。
宇宙の星屑のひとつとなって永遠の
時間の中にいる自分を発見します。
けれどMIDORIさんのシャコンヌは違
った方向を感じます。
音が内へ内へと向かいます。
内なる宇宙の深みへと音は向かい、
柔らかく、やさしくベールをはがして
心の奥処の静かな動きを導きます。
一般の演奏にある大袈裟な表情や
巨大な感性や圧倒的な技術で聴く
者を圧する押し付けがありません。
聴くものに寄り添い、共に音楽を楽
しみます。
またメロディーや音色だけでなく、リ
ズムへの配慮も並みはずれています。
緩やかに唄うゆったりとしたリズムと、
細やかに刻まれる切れ味あるリズム
が、時に衝突し、時に潮と波のように
ひとつのものとして大きくうねります。
ここにきて、前回書いたソナタNo1の
木の肌触りを感じさせる音が考えつく
されたものであり、シャコンヌをこのよ
うなぬくもりのある肌触りの音楽にす
るためのものだったと理解します。
バッハを偉人としてでなく悩みも多い
一人の人間として実感し、その苦悩が
生み出した音の素晴らしさを聴く者
とともに味わい、生きることの意義を
分かち合います。
こうした瞬間こそ音楽を聴く醍醐味で
あり、内から溢れる感興で胸が熱く
なります。
この曲集の一番最後はパルティータ
No3です。
MIDORIさんは、今まで内への集中
に込めてきた力を外へ向けて一気に
放出します。
古楽器でのレイチェル・ポッジャーの
音楽の成果もふまえながら、高い所か
ら低い所へ水が自然に流れるように、
音はきらめきながら流動し、美しい瞬
間が持続します。
最後に心地よいエネルギーの発散が
でき、聴く人を楽しませる自信があっ
てこそ、シャコンヌでの厳しい集中を
やりつくせたのだと改めて感じます。
作り手の創造の悦びと、受け取る私
たちの新しいものに出会う悦びが両
立する芸術作品の最もすぐれた成果
です。
ONYXレーベルのONYX4123で、2
枚組のCDです。

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