旬の音楽 ロシアの深淵  コロリオフというピアニスト

旬の音楽   ロシアの深淵
    コロリオフというピアニスト
エフゲニー・コロリオフは、1949年に
ロシアで生れ、現在はドイツに居をか
まえて活動するピアニストです。
私が敬愛する音楽家のひとりです。
基本的にはピアノにはあまり興味のな
い私ですが、何故かロシアのピアニス
トには惹かれることが多くあります。
古くはタチアナ・ニコラーエワ。
大地に深く根ざし、地の底から突き上
がるような太く、逞しく、しかも暖かい
打鍵でした。
エミール・ギレリスは、鉄のような明晰
な音のうちにやさしさと知性を感じさせ
ました。
アナトリー・ヴェデルニコフは、両親が
粛清され、迫害にあいながら音楽を
追求しました。
深い洞察と鋭い感性、稀に見る才能
で、独自の世界を構築しました。
それらの世代よりは後のコロリオフは
ロシアの屈折を直接は感じさせません。
むしろ淡々と、静かに音を奏でます。
しかしただ綺麗なだけの音楽ではあ
りません。
コロリオフのレパートリーはバロックか
ら現代音楽まで幅広いものです。
特にバッハには定評があります。
現代を代表する現代音楽の作曲家
リゲティはコロリオフのバッハを、特に
フーガの技法の音楽について想起し
ています。
「もし私が孤島に1枚のCDを持って
いくことが許されるなら、コロリオフの
バッハを持っていくだろう。そして、孤
独で飢えと渇きの中、最後の息を引き
取るまでいつまでも聴き続けるだろう。
」と。
雑多で容赦ない現実の生活を超えて
抱き続ける精神を充たす音楽のエッセ
ンスであり、深淵に立つ力を宿してい
ます。
コロリオフの音を聴いているとクリスタ
ルを眺めているような気がします。
決してクリスタルのような音ではありま
せん。
ただキラキラした美しい音が並んでい
るわけではなく、むしろ柔らかく暖かな
タッチを感じます。
そしてフレーズもリズムも乱れず、淡々
と音が紡がれます。
しかし時折入れられる装飾音は容赦
なく、音の世界に切り込んで深淵を覗
かせます。
あまりに見事な切り口で、また自然で
流れは妨げられないため、こちらは
切られたことを意識しません。
美しいフレーズが整然と並び、その中
の効果的な装飾のきらめく様子が、
まるでクリスタルを「見ている」ような気
がするのです。
音の美しさやテクニックを追求する音
楽とは、違う発想であり、精神そのもの
が結晶しているように感じ、それがクリ
スタルを思わせるのです。
それにはコロリオフが録音しているヘ
ンスラーというドイツの比較的小さな
レーベルの力もあります。
本来は古い宗教音楽を専門とするマ
イナーレーベルだったようですが、次
第に範囲を広げています。
ピアノは弦楽器でもあり、打楽器でも
あるのでとても録音が難しく、納得の
できるものはとても少ないのです。
通常はピアノの中にマイクを突っ込ん
で、アタックの強さを録る乱暴なものが
多く見られます。
しかしここでは柔らかく、深く、楽器の
進化の最先端であったピアノの豊か
な音が録音されています。
コロリオフがこのレーベルを選んだの
も頷け、自らの音楽が何を求め、何を
実現しているかを意識しているのが分
かります。
ただ小さなレーベルであるため、量産
はできずCDの価格が高いのが欠点
です。
唯一の例外が9枚組のベスト集です。
代表作のひとつバッハ「ゴルトベルク
変奏曲」をはじめ、ヘンデル、ハイドン、
モーツァルトの曲が収められています。
バッハが素晴らしいのは当然のことと
して、驚いたのがヘンデルのチェンバ
ロ組曲です。
自然な流れと豊かな感興を持つヘン
デルの音楽ですが、コロリオフはむし
ろ淡々と音を紡ぎます。
しかし静かで揺るがない足取りは、ヘ
ンデルの持つ音楽への信頼と自信を
表出し、その流れに心地よく浸って
飽きることがありません。
一度は楽しめるけれど再度聴くと飽き
てしまうことの多いヘンデルですが、
不思議なほどに聴き続けています。
モーツァルトは最初聴いたとき首筋が
ゾクッとして悪寒が走りました。
心の自然な動きをそのまま音にした
ようなモーツァルトの音楽ですが、静
かで抑制した音の流れの中に透徹し
た視線を感じます。
今までに聴いたことのないモーツァルト
であり、後戻りのできない凄味を持って
います。
コロリオフの音はある時は大河の流れ
のように悠久であり、またある時は渡る
風のように軽くやさしく吹き寄せます。
細部まで考えつくされ、流れは計算さ
れています。
しかし聴く私たちには知性の爪跡は
感じられません。
むしろ自然界の音を楽しんでいるよう
です。
最も優れた芸術家が達する洗練し尽く
された境地です。
けれど必ずしも完璧というわけではあ
りません。
玄人筋には好評のベートーベンです
が、私にはあまり感じるものがありませ
ん。
音の美しさ、効果には目をみはるもの
がありますが、狂気がそぎ落とされて
います。
芸術に必ずしも狂気は不要ですが、
暗い深淵もまたこの世の一部です。
コロリオフのベートーベンやシューベ
ルト、シューマンには狂気感じられな
いため、まだ青臭さの残る私の感性
には響きません。
それがまた芸術の面白いところでもあ
ります。
コロリオフの9枚組のCDはHMVの通販
で、5000円ほどで手に入ります。

関連記事

ページ上部へ戻る