愉気ということ

愉気ということ
「愉気」は、整体法の創設者野口晴哉
が使い始めた言葉です。
人間は気の感応で生まれ、影響しあ
って生きています。
気は働きであり、物ではないので見る
ことはできません。
しかし気が枯れた人は見るからに生気
を失い、生きる許容範囲が狭まって、
何をしてもうまくいきません。
反対に赤ちゃんは、まだ自分で自由
に動くことも、食べ物を確保することも
出来ませんが、生気に満ち、生きる悦
びをまき散らし、周囲もそれを悦びと
感じて、手を差し出します。
気は風であり、雲のように生成しては
流れていき常に形をかえます。
つかむことも、縛ることもできません。
しかし私たちはそれがあるのを感じ、
好ましい気に近づこうとし、自分の気
と交わろうとします。
野口晴哉は、気を精神作用と言いま
した。
精神も触ることも、見ることもできませ
ん。
感覚と知性に支えられ、ホログラムの
ように立ち現れる精神は、あると言え
ばあるし無いといえば無いものです
が、私たち人間を支配しています。
人は精神の働きで兵士として死ぬこ
ともできますし、ジャンヌ・ダルクのよう
に理想のために殉教して死ぬことも
できます。
そして精神には感染作用があり、近
づくものを染め、別の存在にします。
表には現れにくい本能のさらに奥深く
で生命を支える気を、精神の働きであ
ると野口晴哉は言ったのです。
ですから精神や気はきわめて人間的
な働きです。
そして気は、いいものだけではありま
せん。
戦争で人を殺すことも、ある精神のあ
り方の中では正義です。
自らの不平や心の傷を癒すために
他の犠牲を厭わず欲求を押し通す
こともあります。
むしろ世の中のシステムは、知らず知
らずのうちに、他者にも、自分にも犠
牲を強いているようにも感じます。
抑制できない者は悪であり、また傷
をもたずに自由に振る舞う者を無視
し、圧殺します。
規格の中の自由、コンビニやネットの
中での選択の自由が私たちに与えら
れた自由です。
それに対し野口晴哉は「愉気」という
概念を提出しました。
気の感応はもともとあるものです。
それを愉快に、他者を犠牲にしない
本当の快感をともなう「気」の感応を
しようと言うのです。
気の感応は話したり、目を合わせたり
さまざまなことでできますが、心と身体
と感応するのには、手を使うのが効果
的です。
私たちはかわいい子供がいると手を
だしますし、体調の悪い人に手をさし
のべることも多くあります。
手には気に感応する働きがあるから
です。
手に気持ちを集め、心を集中し、静
かに澄んだ気を自らの中に育てます。
その気で相手の元気と、内なる要求
を高め、健全な心と身体を育てるの
を助けます。
それは相手のためというだけでなく、
自らを育てることにもつながります。
それが気の感応です。
それにはやはり訓練が必要です。
私たちには本来その力がありますが、
社会の中で過ごすうちに忘れられ、
失ってしまいます。
活元運動で身体の柔軟性を取り戻し、
気を静かに集中させることで、内なる
力を高め、触れる相手と共に生きるこ
とができます。
子供や家族の健康と健全な心を育て
るのにこれほど役にたつものはありま
せん。
愉気の会についてはお問い合わせ
下さい。

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