晴屋の野菜
命を支えるもの
野菜は私たちにとってなくてはならない大切な食べ物です。
遠い昔に、「野」にある「菜」を採取して食べていた私たちの祖先。
特に美味しいものを選んで、集め、栽培し、かけ合わせすぐれた品種を育て
てきました。
長い年月積み重ねた、努力と閃きの成果が「野菜」です。
私たちに必要な栄養が含まれているだけでなく、命をあがなう命そのものです。
しかし近年、効率と採算性が尊ばれ、命を支えることが疎かになっています。
農薬や化学肥料はそれ自体にも問題がありますが、命を大切にするという姿
勢が失われていることが何よりもその質を表しています。
私たちは食べ物を食べて生きていますが、ただ単に食べているだけでなく、
命をもらうことで次の命を支え、育てています。
その視点を見失うと、食べ物はただの物にすぎなくなり、食べている私たちの
命の質も本来の健やかさを失ったグロテスクな人工物に近づきます。
食べ物で一番大切なのはなによりも、美味しさです。
美味しいという感覚は、それが自分にとって必要であり、食べることで命が悦
びを感じている証です。
安全を求めるのは何かを否定しようとして排他的であり、差別を生みます。
しかし美味しいは自分の世界であり、何も否定せず、命を育みます。
無農薬や有機栽培という表現には常にきな臭いものがつきまといます。
他を排除し、自分さえ良ければというエゴを助長します。
また作る側でもお金さえ多く得られればそれでよいというエゴも助長します。
事実、高価で取引される有機栽培の野菜を作るために虫が食いにくく、病気
になりにくい品種が優先して選ばれています。
これは私たち人間が長い歴史で築いてきた野菜との関係を壊すものです。
そうした品種は美味しくないのです。
美味しくないものは、栄養も乏しく、命としての力も大きくはありません。
農薬の散布の回数で野菜の質を計るのは命への冒涜といえます。
私たち晴屋は何よりも美味しさが野菜を選択する基準です。
季節に合った、身体が必要とする栄養をもつ野菜たちは本当に美味しく感じ、
自然というのはうまく出来ているものだと毎年感動します。
秋になってやってくる滋味ある蓮根や、白菜、りんご。
冬に味がのってくる大根や人参、みかん、パール柑。
春には、菜花、中玉トマト、筍などがやってきていろどりをそえます。
夏のトマトや茄子、桃、西瓜が命の燃焼を支え、また疲れを鎮めます。
創業45年の晴屋は長年の付き合いの生産者が多くいます。
野菜や果物には品種の味、気候による味、その地方の味などもありますが、
生産者の「味」もあります。
どんな時でも変わらない味の個性が変わるとき、生産者の体調や環境の変化
を思い、何かが心の中で動きます。
それが命のつながりです。
また消費者のみなさんに手渡す時にも、これはどういう風に受け取られるかを
想像し、感じ、すすめるものを選びます。
これもまた命のつながりです。
農薬の回数で野菜を選ぶ人にはほとんどすすめることはありません。
生きている基準が違うと思います。
こんな昔気質で、偏屈な八百屋が長い年月続けてこられたのは生産者とお客
さんたちの理解のおかげです。
そして皆さんをつないでいるのは、豊かな自然に対する感謝と命を大切にす
る感覚、何よりも美味しさです。
農薬の基準
品種や気候で使い方は変化しますが、見かけのための農薬は使いません。
最も毒性の強い除草剤は基本的に不使用です。
次いで危険性の高い殺菌剤は、定植直後、開花直後のみの使用で最低限です。
収穫まで期間が開くために残留性はないと思います。
近年は殺虫剤も危険性が少なく、残留性がないものが選ばれています。
以前のようないつまでも残るものは使われることはありません。
化学肥料にも頼らない農法が実践され、堆肥を多用しています。
野菜の生育が守られ、土の健全な状態を保っています。