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バッハ オリジナル&編曲集

音楽の力 その2 「魂を養う音」
バッハ オリジナル&編曲集
pf エフゲニー・コロリオフ
モーツァルトとともに、飽きることなく聴
き続けられるバッハの音楽。
しかしその音の持つ肌触りや響き方は
大きく違います。
生命力に溢れ、常に流転しながらも均
整と上品さを失わないモーツァルトは
命のバランスを回復させてくれます。
一方バッハの響きは生命よりも時とし
て宇宙の音そのものです。
無数の星のきらめきを眺めながらその
節理ある運行に身をまかせる感覚です。
永遠の真理を前に、人の世の雑事は
立ち入ることができません。
バッハにとっては音楽は神の世界に
近づくための行為です。
その時代人の救いは神以外にはあり
ませんでした。
静かで、硬質で、不変の世界です。
しかしバッハの音楽には違う側面もあ
ります。
それは神への信仰の告白であり、魂の
根源からでる親密で、暖かな感覚です。
現代に生き、利害や能率、正しさなど
に囚われている私たちには持つことが
難しい永遠の安息です。
魂は持っていることを自覚し、養うこと
でしか感じることはできません。
心や精神まではなんとか理解できても
魂の自覚は求め、機会が与えられない
と得られません。
私が最初に魂の存在を実感したのは
屋久島に行ってからでした。
降り続く雨の中森を歩き、言葉にはで
きない美しさに会いました。
けれど古傷の膝を痛め、足を引きずっ
てやっと帰りました。
それなのに東京に着いて何故自分が
ここにいるか理解ができません。
あれ私は屋久島にいるはずなのにどう
してここにいるのだろう。
住み慣れたはずの周囲も、ここにいる
自分も異質のものに感じます。
その時、屋久島に魂を忘れてきたのだ
と理解し、魂の存在を実感しました。
その後ひと月以上かけて少しづつ元
にもどりましたが、何故か植物の言葉
が少し分かるようになり、時折会話する
ようになりました。
屋久杉と比べると小さな公園の植木で
も、何かを感じ訴えています。
知的で静的なバッハの音楽のもうひと
つの側面にはこうした魂の郷愁を含む
根源的で暖かな感覚が潜んでいます。
演奏しているコロリオフは、ロシアの出
身ですが、ドイツに定住し演奏や教育
活動をしています。
長身でもの静かで、音楽家というよりは
学者の風貌をしています。
技術的には恐ろしいほどに完璧です。
どんな難しいフレーズも淡々と弾きこな
します。
そしていつも静かに歌います。
その完璧さ故、どちらかというとクール
なイメージがつきまといます。
バッハだけでなく多くの作曲家の音楽
を録音していますが決して技術を誇示
することはありません。
ひとつひとつの音が丁寧に紡がれ、
その音が後の音と重なって詩的な余韻
を作り、変化しながら世界を再構築し
ます。
この「オリジナル&トランスクリプション」
名づけられたアルバムには、有名な曲
や通常はオルガンで演奏されるコラー
ルという神への賛歌が収められていま
す。
このCDの最初に聴いた時、これは
演奏でなく祈りだと感じました。
バッハの音楽の忠実な再現ではなく
神や今生きるものたちに対する祈りで
す。
現代に生きる音楽家であるコロリオフ
が、内なる世界を拓き親しく歌います。
私たちは精神の働きで、演奏家の内
なる心情を感じ、同調することができ
ます。
永遠の美、永遠の魂を希求するコロリ
オフの静かな眼差しを感じ、私たちの
の魂も養われていることを感じます。
魂が何なのか、どう感じるかは説明が
できませんし、どこに宿っているかも
分かりません。
しかし魂を腐らせている人を見ると、
私たちはとても不快になり避けようとし
ます。
魂を失っている人はその存在の根が
感じられず危うさしか心に残りません。
音楽家でも魂を重んじていない人の
音楽は、音は美しく、技術は完璧でも
心に響くことはありません。
このアルバムは一日中聴いていても飽
きることがなく静かで、深い時間に充た
されます。
こんな時代だからこそ、魂を養う時間
貴重であり、必要としている人たちも
多いと思います。
CDはドイツのTACETというレーベルか
でていますが手に入りにくいものです。
HMVには在庫があるようで、「バッハ
ピアノのための編曲集」というタイトル
でhmv会員なら3000円程て買えます。
とても丁寧に作られたアルバムで、ピ
アノの音も美しく録られ音楽への情熱
を感じます。