作る楽しさ耕す人たちその11~14「発酵と流通」 キッコーゴ醤油の近藤さん 五人娘の寺田さんと良寛さん メルカウーノの森田さん OFJの新倉さん 

 

 

作る楽しさ耕す人たち   その19
寺田本家第23代当主 寺田啓佐さん
発酵の先にあるもの
去る4月18日、寺田本家第23代当主の
寺田啓佐さんが逝去された。
謹んでご冥福を祈ると共に、私たちに
残されたものを顧みてみたい。
晴屋では香取や五人娘など、寺田本家
以外の蔵の日本酒を扱っていない。
すっかり依存し、信頼しきっている。
元来、山廃とよばれる時間と手間が懸か
り、自然の成り行きにも依存する酒が私
は好きだった。
酸味も、旨みも、豊かで、芳醇。
味わい深い山廃の酒を飲んでしまうと、
大吟醸などでは満足ができなくなる。
石川の「菊姫」や「天狗の舞」、秋田の
「比良泉」なども愛用の酒だった。
しかし晴屋が酒の免許をとり、店頭に並
べる日本酒を決めるときは、迷わずに寺
田本家のものだけを選んだ。
この蔵の酒の味は毎年違った。
未完成という見方もできるかもしれない。
けれど味わいの深さだけではない、ま
た違う魅力がこの酒たちにはあった。
酔い口のよさだ。
飲んで元気になる感じ。
大吟醸の酔いは頭に響き残る物が多い。
昔から評価の高い日本酒はお腹にずっ
しりとたまる。
しかし寺田本家の酒はお腹や腰に響い
ても、重たくなることはない。
何かこちらのエネルギーを高めてくれる
ような力を感じる。
お客さんたちの健康を導くのが晴屋
の仕事なのだから、これほど目的にか
なった酒は他には考えられない。
世の片隅で、世の流れに足をとられな
いよう辛うじて踏ん張っている私たちだ
が、同調してくれるお客さんたちに受け
入れられ、定番として多くのファンを獲
得している。
売る側にもこうした経緯はあるけれど、作
る立場の寺田啓佐さんにはそれとは比
べ物にならないほどの創意と工夫と長
い年月の熟成と、それに対応する苦労
もあったろう。
寺田家は代々女系で、蔵の看板となっ
ている酒「五人娘」の名もそれによって
つけられた。

三十年ほど前、婿養子の啓佐さんが
第23代の当主になった時には、ごく普
通の添加物を多用した酒造りをしてい
た。
しかしその頃は粗悪な日本酒が世にあ
ふれ、消費者の日本酒離れも始ってい
た。
次第に経営も厳しくなり、自身も健康を
害された。
「どうしてだろう。なぜだろうとふたたび
思うようになった。何か大切なものを見
落とし、間違った方向に進んできたので
はないだろうか。そう考えたとき、発酵
醸造を生業とする私自身の世界を見つ
めた。発酵醸造という微生物の世界。
その世界は、互いに支え合って生きる、
相互扶助の力が大きく作用している。
微生物の世界は、「愛と調和」で成り立
っていた。それを見て、「人間も微生物
のように、発酵しながら生きれば、争わ
なくても生かされる」ことを確信した。
自然界には法則がある。その法則をき
わめようとした近代科学は、逆に自然
界そのものから離れていったのではな
いのか。自然から遠ざかれば遠ざかる
ほど、不幸や病に近づくことになったの
ではないか。
その学びを進めるうちに、「発酵」と「腐
敗」という二つのファクターが、すべて
の物事を考えるものさしとなり、自分自
身が生きるうえでの指針にもなってい
った。やっと見つかった。うれしかった。
論語の「朝に道を聞かば、夕べに死す
とも可なり」の心境だ。涙が止まらなかっ
た。
混迷する世を救い、人として進むべき
道を明らかにしてくれる鍵が、微生物の
暮らし方のなかには、いっぱい隠され
ていた。人類が本当の平和、健康、幸
福を達成する方法も、そこにあるのでは
ないかと思う。    著書「発酵道」より」
最初は「五人娘」だけだった無農薬の
米の使用も、今は全ての製品に拡大さ
れている。
何トンもの備長炭を使い、仕込みの水
の力を高め、発酵の室の壁にも埋め込
み、場の質を向上させている。
仕込みの井戸水はさらに、浄水器を通
し、クラスター(分子集団)をばらばらにし
た活性化した水になっていく。

電磁波や低レベルの放射線下で、植物
などの生育が促進されるという話がある
けれど、それは不健全な生育状況下で
生き急いでいるということだろう。
備長炭は電磁波をさえぎり、マイナスイ
オンを発生させる。
負の要素を逆転させプラスに変える力
を備長炭は、持っている。
柔らかく静かな気の流れる室の中、麹
があわてずに、じっくりゆっくりと育って
いく。
麹菌も自社の無農薬の田の穂から採取
した、この米に一番あったものを使って
いる。
田では無農薬であるために草が生える
けれど、人の手による除草をしている。
寺田本家では、重い米を運搬する機械
も全て撤去してしまった。
真冬に米を仕込むときの水洗いも、手
袋もせずに素手でしている。
「てのひらづくり」と呼んでいる、こうした
効率よりも身体で納得し、充ちるまで気
を高めるやり方で、酒に勢いが注ぎこ
まれるだろう。
常識では考えられない玄米が原料の
「むすひ」も体調をよくする酒として広く
受けいれられるようになった。
その年によって味が違うと書いたけれど、
通年仕込み、その季節によって味が違う
「醍醐のしずく」が最も蔵の個性をあらわ
す酒かもしれない。
いにしえの酒作りを再現したこの酒は
アミノ酸が豊富で、そのためか疲れがと
れる。
酔うためというより、滋味で心と身体を
充たすための飲み物だ。
その他多くのことたちが、寺田啓佐さん
の発案で実行され、確実に酒の品質を
上げていった。
それらは全て、発酵のもつ素晴らしい力
の気づきによってもたらされている。
発酵と腐敗を分けるものは何か。
EMでは有用な菌類を注ぎ込むことで、
農地や環境の力を高めようとしている。
けれど寺田さんはそれに近くとも、少し
違う立場で発酵を追及されたよう感じる。
私たちが蔵にお邪魔したとき、発酵途
中のもろみに指を入れて味見をさせて
いただいた。
常識なら雑菌が入って品質は悪くなる

はずだ。
しかし寺田さんは、いろいろな菌が入る
ことでの可能性を感じていた。
固定は正しさを求め、排他となり、やが
て行き詰まる。
流動し、発酵し、変化し続ければ、常に
新しいものを生み出し続けられる。
寺田啓佐さんの生き方からはそんなメッ
セージを読むことができる。
それは一般的にいう、発展とは違うかも
しれない。
寺田本家では人手による酒造りをしてい
るため、仕込み量を増やさない。
冬に仕込んだ酒を9月中旬まで熟成さ
せて売り始め、年を越す頃には売り切
れとなってしまう。
晴屋のように他の日本酒扱わない店に
とっては困ることなのだけれど、便利さ
や利益のためにその姿勢を崩そうとは
しない。
また品質や味も無理に個性を際立たせ
ようともしていない。
個として確立し、一定の評価を得て、確
定した位置を築くことに固執しない。
微生物と同じに、周りのものたちといっし
ょに変わっていこうとしている。
これは考えると、とてもすごいことだ。
変化し続けることを覚悟するというのには
とても膨大なエネルギーが必要だ。
寺田さんは生涯に渡ってそれをやりきっ
た。
発酵という多くのものの恵みと出会いで
生まれる特別な状態の中に、人の生き
るひな型を見つけた。
「自然に逆らいながら人間だけが困らな
いように、人間の都合で勝手にやらか
した事に今しっぺ返しが起きている。
放射能問題もそのひとつだ。でも『発
酵』で解決できそうだ。
チェルノブイリでも実証済みだが微生物
の働きは放射性物質をも自然物質に
変えてしまう。
福島県と宮城県県境の山あいの峠で
発酵液を散布したが、周りの汚染数値
は確実に軽減している。
今こそ微生物の声に耳を傾けたらと
思う・・・。微生物が教えてくれた。
『自然に沿ったらうまくいくよ』って。
平成24年の「年賀」はがきより」
長崎や広島での原爆の投下後、味噌

や酒などの発酵食品が症状の緩和に
有効だったという話が伝わっている。
整体法の野口晴哉も毎年広島に通い、
身体を確認して盲腸が原爆症に関係
していると記している。
盲腸は、腸内の微生物の棲家だ。
一見不要なものの中に実は宝が隠され
ている。
寺田啓佐さんはそれを自分なりに直感
で感じとり、私たちに伝え残した。
いずれ放射能に対する、いやそんな狭
いものでなく、命や宇宙に対する微生
物の力が科学的に解明される時がくる
だろう。
しかし科学的解明よりも先に、私たちは
命としてそれを感じ、生かすことができ
る。
その命としての明るい道を歩む楽しさ、
素晴らしさを伝えたことが寺田啓佐さん
のなによりの功績であり、それは今後も
ますます影響力を持つだろう。
そして、今若い力に溢れている寺田本
家が失敗を恐れずに変化を続け、発展
や拡大に捉われる一過性の現代病に
犯されず、命の自然に沿った歩みを続
けていくことが何よりも求められていると
感じる。
急なご逝去に驚きながらも、私の心のう
ちにぎゅっと凝縮したものを感じる。
それは寺田啓佐さんの意思が私の中
にも宿っているという感覚であり、多くの
ひとにも等しく伝わっているだろうという
確信であり、寺田本家がそれを続けて
いってくれるだろう信頼でもある。
本当に多くのものを残された人生だった
と改めて思う。

 

 

 

 

 

 

作る楽しさ耕す人たち
その12 醤油が紡ぐ時間
キッコーゴの近藤功さん
五日市(現あきる野市)の近藤醸造
に行くのは20年ぶり位になる。
朝9時前の一番混む時間帯なので、
関越高速から圏央道に乗り継いで
いく。
ほとんど通ったことの無い圏央道
は、まだ白い富士山がドーンと真
正面にと見えたかと思うと、トンネル
に入り明滅するオレンジの光や水
銀灯の規則的な縦縞が疾走して、
幻想的で未来的な雰囲気を醸し
出し、昔々(40年くらい前か?)
のTV番組タイムトンネルを思い起
こさせる。
しかし、高速を降りて5分ほどで着
いた武蔵増戸の駅の踏み切りは、
100円ショップのダイソーが出来た
くらいで前とあまり変わっていない
ようだ。
少し安心し、ほっとした。
五日市街道沿いにある店と蔵を兼
ねた工場も、全体には少しすっきり
したけれど、物を造る現場の活気や
雑然さがあり、先日行った五人娘の
寺田本家の静かさとはある意味対
極の荒々しささえ感じる。
近藤さんと会うのも本当に久しぶり
だ。
醤油を注文するときなど、電話で
話すことはあっても、忙しくなかなか
会う機会は無い。
二十数年前は定期的に顔を合わ
せていた。
私がまだ、今は無き仕入れセンタ
ーJACのメンバーだった頃、支払
いも遅れがちだったのに、注文す
るといつもにこやかに近藤さん自
身が醤油を持ってきてくれた。
背は高くないけれど、筋肉質のが
っちりした体躯に精悍な表情をた
たえたている。
二十代の私には、まだ三十代の
近藤さんがたまらなく大人に見え、
感謝で拝みたくなるような気持ち
だった。
醤油の荷降ろしを手伝いながら何
気ない話をするだけで、物静かと

いう印象しか持てなかったけれど、
それが変わったのは、私がJACを
辞め、晴屋を始めてからお客さん
たちを連れていった見学会の時
だった。
淡々と話をし、丁寧に応対してく
れるのは同じなのだけれど、小さ
な子どもたちも沢山いて最後に
川で遊んでいこうということになっ
た時、「川で遊ぶのは学校では禁
止されているのですが、私も子ども
の時から入っているので大丈夫で
す。五日市で生まれた子どもが五
日市の川で溺れるはずがないと思
っていますから」と言われた。
この人は繊細そうに見えて、案外
と骨太な人なのだなと思った。
久しぶりに会ってみて、精悍な表
情は少し影を潜め、穏かな柔らか
さが増した。
しかし、質実で剛健で実直な印象
は強まり、私は思わず野武士をイメ
ージしてしまった。
野にあっても、誇り高く、静かなの
に、常に強い物を持ち続けている
のだ。
「今でこそ醤油は無添加が普通
ですが、当時は添加物入りが当
たり前でした。無添加で作ったら
ほんの小さく新聞で取り上げられ
て、それから消費者運動の人た
ちや長本さん(ナモ商会代表で
JAC発足前は仕入れもしていた)
も来られるようになりました。当時
はこの辺りでも大豆を作っていて、
私の家でも半分農業で生活して
いましたが、JACさんが売り上げ
を増やすのと一緒に私たちも伸
びていきました。」
JACが倒産して色々大変だった
と思いますが、損害はどれ位あっ
たのですか?
「400万円位あったと思いますが、
JACさんのおかげでそれまで売り
上げを伸ばしてこられましたし、こ
ちらにも悪いところはあるんです。
それまでは昼は製造や配達、夜
に請求書を書くなんていうことをし
ていて、ついつい請求が遅れが
ちだったし、いつも行けば小切手

をくれるという時もありましたから。
ナモ商会で出した債券もまだ(換
金せず)記念に持っているんで
す。」
全く恨んでいる様子は無い。
話を聞いた場所は倉庫の2階の
事務室で、すぐ隣で4人の事務
員さんたちが、お客さんからの注
文を電話で聞き、数台のパソコン
に入力して伝票を作っていく。
その辺の管理は全部、四代目の
息子さんがしているという。
店も、近藤さんは古い物が好きで
置いたりぶら下げておいたりした
物が、ほとんど片付けられてしま
ったらしい。
ただ醤油の製造に関しては、まか
せるのにまだしばらく時間がかか
るという。
キッコーゴの醤油の味は、私たち
には馴染んでいると共に特別な
ものだ。
重くべたっとした味でなく、軽く旨
みがない味でもない。
臭みが無く、すっきりしているのに
しっかりした味のベースを持ち、ど
んな素材や料理にも邪魔せずに
味を引き立ててくれる。
そしてほんの少しある微妙な酸味
が味のフレッシュな風味を余計に
ひきたてている。
私が外食して一番困るのは、野菜
の味が無いことではなく、なにより
醤油のまずさだ。
それでも作っていれば、うまくいく
時もだめな時もあるだろう。
その差はどこにあるのだろう?
「醤油は香りが命です。香りが良
ければ、色もいいし、味もいい。
麹の温度が高すぎても、低すぎて
もだめです。もろみの管理も大切
で、手を抜くといい醤油はできま
せん。」
他の醤油屋さんとどこが違うという
話が出てこない。
まともな醤油を作っているところな
ら、どこでも一生懸命同じようなこ
とをしている。
案外、差は少ないかもしれない。
それでも、出来た製品にはっきり

違いがあることが面白い。
その人の持っている雰囲気や個
性が味に出るのだろうか?
規模を無理に拡大しない処に、
一つの理由があるかもしれない。
スーパーや流通など大きな所が
依頼してきても、全部断ってしま
う。
一人の人間の目の届く範囲に、
仕事の範囲を定めている。
近藤さんはキッコーゴの三代目。
「自分で何かを決めてきたわけで
はなくて、周りの要請に動かされ
てきただけ」と口では言うけれど、
先の無添加の醤油だけでなく、
脱脂大豆を国産丸大豆に変え、
ソースの製造免許を取って取り組
み、60%が柚子という贅沢な原料の
ゆずぽん酢を作り、創業者近藤五
郎兵衛の名を冠した五郎兵衛醤
油ではもろみと旨みの濃さの限界
に挑戦し、豊かな風味の醤油を作
った。
人との出会いや、毎日の生活で
感じたことをじっくり練り上げ取り組
んで新しい形を作っている。
今年がキッコーゴ醤油98年目。
後2年で創業100年だ。
「何かしたいと思っています」という
だけでそれ以上語らない。
出来るか出来ないか分からないこ
とを口にするのがいやなのだ。
その代わり、口に出したときは、や
ると決めていて、誰が何を言っても
やりきってしまう。
私にも同じ傾向があるのでよく分か
る。
そんな父親を、四代目の寛さんは
どう思っているのだろうか?
「父を見ていると忙しくて大変だな
と思います。慎重型で頑固な人
です。子どもの時からずっと見て
いるので覚悟はしていましたが、
やっぱり大変な仕事です。忙しい
中、私は整備と整頓をしています。
目標は会社として大きくすることで
す。売り上げを伸ばすというより、
五日市で立派な会社にしたい。ま
だそういう状態ではないです。喜
ばれ、誇りを持って出来る仕事に

したいです。」
33歳、覇気に満ちている。
私がもう忘れてしまった感覚だ。
それでも認めるところと足りないと
ころを意識して前にすすもうとして
いるのは大人だ。
私が同じ年代にはもてなかった感
覚だ。
私は一から積み上げてきたけれど、
スタートは社会への不満だった。
寛さんには子どもの時から身に沁
みつき、自分の一部になっている
歴史がある。
誰でも、自分でなければ出来ない
ことをしなければ、やっている意味
が無い。
しかし、組織は誰でもが出来る形
が理想だ。
このバランスは難しい。
汗して作ったものを、適正な価格で
欲しい人に手渡す。
当たり前のことなのだけれど、これ
もなかなか難しい。
近藤さんが一見混沌とした中で、
並大抵でない労力を注いで続け
ているのは、当たり前のことが当た
り前であり続けるために、世の流れ
に棹差す、途方も無い努力だ。
しかし、それが人間のあるべき姿
に基づいている限り、人から人へ、
親から子へ受け継がれていくだろ
う。
懸命に作ったものが評価され、手
渡されていくのは楽しい。
発酵は腐敗と反対に、物の持つエ
ネルギーを高めていく。
旨い醤油には人のエネルギーを
高めていく力がある。
(この文章は2006年(晴暦26年)3月に晴屋通信に掲載したものです。)

 

 

 

 

 

 

 

作る楽しさ耕す人たち
その13 健全な「流れ」の先
  晴屋の野菜の仕入先・
メルカウーノの森田隆さん
「これじゃ、書きにくいよ、モリタ君」
インタビューの前半、経歴を確認し
ながらの話の途中、思わず呟いて
しまった。
写真⇒食えない⇒ほんやら洞(当
時西荻のナモ商会の2階にあった
運動体の拠点のような喫茶店)の
直営農場で豚の堵殺人がいない
⇒面白そう⇒喫茶のカウンターに
入る⇒ナモ商会で野菜を売ってみ
ないかと言われる⇒引き売りを始
める⇒仕入れセンターJACに人が
いない⇒じゃあ暫く行くかとJAC の
メンバーになる⇒野菜と肌が合い
生産者と流通の窓口になる⇒耳
学問・目学問で知識を貯える⇒
全国の生産者と口八丁・手八丁
でやりあう⇒一年間休職しスペイ
ンでチーズなどの農産物の勉強
⇒帰国して数年JACを続けながら、
新しい技術やスタイルが生まれな
いだろうと限界を感じる⇒JACを辞
め生産者団体の顧問⇒野菜スー
プがブームになる⇒太いごぼうが
50t余っている生産者がいる⇒東
京で売りさばく⇒卸し問屋メルカ
ウーノ(ラテン語で一番の市場とい
う意味だそうだ) の誕生⇒青梅の
アパートの一室を事務室に野菜の
セット販売を始める⇒野菜を中心
に豆腐や肉、魚などの安全な生
鮮品を中心とした品揃に限定した
卸問屋としてひとり立ち⇒JACの
倒産⇒扱い量の増加
どこにも陰りも、屈折も無い。
本人も言うとおり「全然何も考えて
無い。流れよ、流れ。」なのだ。
内なる集中に光を当て、言葉に
置き換えるのをパターンとしてい
る私には、歯がたたない。
若い頃ラクビーをやって鍛えた体
にスキンヘッドの頭がのっている。
彼の言葉は曇りなく流れて溢れ、
逞しく前進する。
音楽家で言えばヘンデルや、エ
ルトン・ジョンか。

苦労や努力もしているのに、痕跡を
見せずに、見事にエネルギーを開
放する。
そして人並み外れた健全さと真っ
直ぐさで、人を巻き込み納得させ
る。
景気はどう?
「小売店は厳しいよな。商店がだ
めなんじゃなくて、専門店が求め
られてる。自然食の業界も元来専
門店だったわけだよ。それが、色
んな品揃えとかなんかで専門店か
ら外れてシステムとして販売する形
になっている。」
薄まっているわけだ。
「ある意味時代の寵児であり、先端
を行く仕事だったわけだよ。スタート
した当時、環境問題を挙げて仕事
してたやつなんか誰もいなかった
分けでしょ。先頭走っていたのが、
二十年も三十年も経つと、みな真
似され追い越されてしまっている
部分もある。」
そうだよね、俺もずっと同じことやっ
てる。
(晴屋では、野菜の他、三陸水産の
魚、ぼくじょうちゃんの豚肉、豆腐
等を頼んでいる。割合としては他の
どこより多い)
JACが倒産して、それまではNo2の
位置で全て揃って無くても、いい物
を扱っていればいいという立場から、
メインになったけれど、何か変った
ことは?
「全面的に全てをっていう感覚は
俺の中には無いんだ。小売店が
幾つか持っていればいいとってい
うのがあるの。例えば一つ産地を
持っていると、いい時だけじゃない
んだよ。二十数年前始めた頃だっ
たら、あったら何でも良かったけど
そんな時代じゃない。するべきじゃ
無いと思うのよ。幾つかの選択肢が
あってやらないと、言い訳をする部
分が出てくるわけよ。直していくこと
を産地と一緒にやらないと駄目な
わけだよ。たくさん買ってもらうのは
嬉しいよ。だけどそれだけでする
という期待はしてないの。」
小売店にとっても選択の自由を認

められる代わり、自立した存在にな
ることを要求される厳しさもある。
流通センター主導で、小売店が
従っていくということが多いのとは
対照的だ。
その健全さはどこから来るかね?
「性格のよさからか?」
性格の悪さからかもね。
「やっぱり面白いからっていうのが
あるわけよ。今年の空豆は(天候の
せいで)マズイなーとか、野菜が美
味しい時があったり、まずい時があ
ったりするのが面白い。どんどん若
い奴も出てくる。和郷園だとか昭和
村野菜倶楽部だとか、次のテーマ
を持った若い連中が出てきてる。
一方で長野県の安岡村という中山
間地の爺さん婆さんばっかりの村と
も、日本の農業の一つの形として
付き合っている。イチゴの新しい品
種を作ろうかともしてる。日本の農業
の中で自分たちが何が出来るかな
と考えていかないと。」
野菜ということだけじゃなくて、人間
を含んでの農業なんだね。
メルカの今後の課題は?
「事業体としては赤字にならないよ
うに維持するっていうことが一つだ
よな。もうひとつは五年位前から、
問屋は必要ないなっていうのがどこ
かにあるわけ。メルカウーノ必要無
いって思っているわけ。問屋の機能
っていうのは三つあるわけ。決済機
能、専門知識、分化機能、この三つ
だと思っているわけ。それで俺たち
さ、決済機能はそんなに無いわけ
だ。金無いから。それで分化機能
っていうのは、今いくらでも物流が
充実してきて宅急便で出来るように
なった。ということは会社として、問
屋として必要悪なんじゃないかと
思っている部分もあるわけ。これは
常に自分を否定した立場で見てる
ね。それで産直だから、出来れば
ダイレクトにやれれば一番いい。そ
れなら俺たちがここでやる理由が
あるのか?長野の山の中にいったっ
ていい。いつまでもメルカウーノが
問屋としてしゃしゃり出なきゃいけ
ないっていうのは考えなきゃいけな

いと思うよ。」
小売も必要悪かもしれないよ。
「そうじゃないと思う。店に買いに
行くのは楽しいから行くんじゃない。
楽しくない店なんか絶対行かない
よ。調達だったらネットでいいじゃ
ん。いくらだって出てくるよ。買い物
に行くっていうのはコミュニケーショ
ンしたいとかいろんな意味で行くわ
けさ。酒飲みに行くんだって、考え
てみたらあんなバカバカしいことは
無い。楽しいから行くわけだよ。」
八百屋は飲み屋といっしょか。
「機能を優先している所はどんどん
変っていかなけりゃなんないんだ
よ。」
私より4歳年上で、現在56才。
未だに変ることをいとわず、新しい
ことを受け入れる柔軟さ、若さがあ
る。
見た目的には悪役のプロレスラー
だ。
人を人とも思わない押しの強さが
るが、権威に服従したり、自分が権
威になろうとはしない。
自由を愛し、人といっしょに作る未
来を考える暖かさがある。
そして現実の「流れ」を曇りの無い
目で見切る力もある。
判断したことを伝え、形にする力も。
苦労や努力を、苦と思わないのは、
必要なことをしているという自信と
実感があるからだろう。
その目は現実を見据え、地に足を
付け、いつも前を向いている。
過去を振り返らないし、余計な先の
心配もしない。
ある意味、野菜を通じて人と人を繋
げる仕事は天職なのかもしれない。
全てのことを個人に帰結しようとする
私の志向性とは対照的な健全さと、
明朗さだ。
久しぶりでゆっくり話し、もしかした
らしらふでは始めてだったかもしれ
ない。
前より少し親しくなれたような気が
した。
翌日電話がかかってきた。
モリタ君が企画したホワイトアスパ
ラが、あまり売れないという。

「委託でいいから。委託で。」だって。
というわけで、晴屋でもあまり馴染
みの無いホワイトアスパラが店頭に
並んだ。
やれやれ。
(この文章は2006年(晴暦26年)5月に晴屋通信に掲載したものです。)

 

 

 

 

 

 

 

作る楽しさ耕す人たち
その14
  晴屋の野菜の仕入先2・
OFJの新倉雅晴さん

語り口は、ソフトで洗練されている。
現在、58才。
武道や山で鍛えた体躯に、円熟し
た表情、ウエーブのかかったロマン
スグレーの髪。
決して則を越えず、相手の立場を
重んじての話に、説得力がある。
しかし、騙されてはいけない。
この人には、言葉と違う内側の動き
がある。
決してそれを前面には出そうとしな
いが、こちらは圧力としてそれを感
じる。
晴屋の「もう一つの」野菜の仕入れ
先、オーガニック・ファーム・ジャパ
ンの代表、新倉さんは多彩な経歴
を持っている。
大学の工学部を中退後、旧電々
公社に入り、山を楽しみながら、
組合運動をやり、5年経って結婚し、
「社会的責任を考えるようになって、
こういう所にいたら駄目なんじゃな
いか」と、服部栄養学校で調理を
学び、コックにはならずに、創業間
も無いケンタッキー・フライド・チキ
ンに入社。
「ビジネスに限らず、世の中や社会
の構造というものを教えていただい
て」、12年間一線で活躍し、かなり
の高給取りに。
「創業時で面白かったですけれど、
命の切売りをしていて」、週一度寝
顔を見るだけだった小学生の長男の
「家にはお父さんが居ない」という作
文がきっかけで仕事を辞め、相模大
野でレストランを開業。
こだわりの食材を探すうち、ポランの
八百屋「自給の村」や無添加ハム・
ソーセージの「湘南ピュア」と出会う。
「こういう人たちがいるんだ。ビジネ
スとはほど遠い人たち。よくこれで
やっていらっしゃる。寝る間も惜しん
で仕事をしているのは同じですよ。
得ている報酬が違う。社会的に得て
いる評価も違う。それはとても興味
をそそられました」

親しくなった「湘南ピュア」を自転車
操業から脱出させ、以降、この業界
の様々な部門の再建に携わる。
野菜の仕入れ担当として、JACの
最後にも立ち会った。
経歴だけを見れば、有能なビジネス
マンであり、社会人である男が、もう
一つの世界に出会い、橋渡しをして
つなげ、社会的自立を手伝った、と
いうことになる。
しかし、そう簡単に割り切れるもので
はない。
「学生運動、労働運動、サラリーマ
ンと、ずっと世の中に反抗して、ずっ
と負け勝負。悔いはないんだけど。」
「軌道に乗ってくると、すぐに飽きち
ゃう。食いしん坊と好奇心が強いの
がとりえ。」という言葉で垣間見るこ
とが出来る、内側の動きがある。
では倒産したジャパン・アグリカル
チャ・コミュニティ=JACの評価から
聞いてみよう。
「ある程度、全体をコーディネイトで
きる人がいて、数字を分かるだけの
人がいれば、いい線いくだけの下
地があったと思うんですよ、過去の
財産の中に。いい生産者も応援し
てくれていた。スタッフの力量はひ
どいものだ。ほとんどが余剰人員で
経営されていなかった。生産者と小
売を食いつぶしていたに過ぎない。
よくここまで続いたなと。」
JACの生産者の状況はどうだった
でしょうか?
「孤立してます。生産者同士の横の
繋がりも無い。もう一つは、自分の
範囲内での勉強しかない。技術力
は、彼らはあるって言うんですよ。そ
のやり方は知っているって彼らは言
うんですけれど。実際にはやらない
し、やっても長続きしない。それでも
こちらも、なかなかストレートには言
えない。でも、皮肉って言ったりは
するんですよ。」
私の知っている範囲では、生産者
に厳しいことも言っているようだ。
けれど、生産者の新倉さんへの信
頼は厚い。
約束した数量は必ず取るし、出来な
い場合はうやむやにせず、きちんと

説明をする。
JAC倒産でほとんどの生産者は被
害をこうむったが、その時の野菜の
責任者だったのに、未だに信頼が
続いている。
実は晴屋も、JAC倒産後、どうしても
確保したい野菜があった。
小塙さんの蓮根と、堀田さんの野菜
だ。
電話で出荷を依頼したら、小塙さん
は受けてくれたけれど、私が一番
信頼する堀田さんは「OFJにまかせ
てあるから」と断られてしまった。
堀田さんの野菜を売るにはOFJと
付き合わなければならないのか。
メルカウーノと一部の直送野菜で、
一応全種類は揃っていたのだけれ
ど、少し落ち着いてから、東大和の
農家と住宅が混在し、少し奥まった
ところにある、OFJのこじんまりした倉
庫兼事務所を訪ねた。
新倉さんに会うのは、この時が二回
目で、初対面はりんごの生産者、故
小平範夫さんを、東京での「偲ぶ会」
での会場だった。
その時はまだJACの社員だった新
倉さんに、「JACは流通の都合で
野菜を早採りして鮮度の悪くなった
野菜を扱ってる。品質を優先しなけ
ればならないのに、それでは本末
転倒だ。」と苦言を言った。
いろいろな生産者のところで、発送
先に晴屋の名前を見つけ、晴屋が
野菜の卸をしていると誤解もしてい
るらしかったので、あまりいい感情を
持っていないかと思っていたのだけ
れど、誤解はすぐに解けて、それ以
来、OFJの野菜も晴屋に並ぶよう
になった。
メルカウーノとOFJは、生産者との
付き合い方で、ある意味対極的な
違いがある。
メルカウーノは基本的には、生産者
団体と付き合っている。
数量の内部的調整や品質の責任
もその団体が負う。
そのためか、価格的に安めの物が
多い。
OFJは旧JACの流れを汲み、個人
の生産者との付き合いだ。

私もJACのメンバーだったこともあ
って、品質の予想が付きやすいし、
慣れ親しんでいる。
しかし、価格は高めの物が多い。
農家の生活状況まで考えて、仕入
れる量や価格を決めざるを得ない。
これからOFJは、どういう方向に向
っていくのだろう。
「会社っていうのは、社会的ニーズ
があれば存続できる。なければどん
なに頑張っても存続できない。
一般の流通が潰れている。卸が成
り立つとは思えない。存続の意味が
無い。流通の機能は必要でも、社
会的インフラが整備されるほど、卸
の必要が無いんですよ。
応援して下さる農家さんの農産物を
流せるマーケットをどう構築していく
かっていうのが、課題だと思ってい
るんです。
でも、いい物を作る農家さんほど、
作ることに専念してますから、売る
ところまではやはり出来ないんです
よ。売ることのお手伝いをして、手数
料を農家さんから貰う。いい資材や
種も確保して、小さな一つのサイク
ルを作る。本来のJAの仕事だった
ら意味があるなと思う、って考えて
いるんです。他に出来ないことをや
りたいなっていうのがあるんですね。
小さい方がいい。専門店だから、生
き残れているんですよ。そういう売り
方に文化的レベルの高い人たちは
シフトすると思うんです。説明商品
として売るマーケットという物を作れる
と思うんです。どこでも出せる、どこ
でも売れるっていう商品じゃないわ
けですよ。そうしていかないと町の
八百屋は無くなっちゃうだろうと思う。」
晴屋は、新しい生活文化を作ろうと
目論んで、そのために必要なアイテ
ムを扱う店で、野菜は中心でも専門
店では無いし、必ずしもお客さんの
ニーズに合わせようとはしていない。
少し路線に、違いがある。
しかし、商品の内容をきちんと伝え
ていこうという姿勢は共通している。
ムードだけではない、表面的な数字
ばかりでない、野菜の実質や自然の
本質に迫れるような、より生きた情報

を伝えていかなければ、多くの人た
ちはますます自然から離れ、安全な
野菜はただの贅沢品になってしまう。
OFJのこれからの課題にしておきた
い。
私がここまで要求するのは、OFJや
新倉さんに対する強い期待がある
からだ。
それは、新倉さんの個性に負って
いる。
洗練され、充分に知性的な人であ
るけれど、それ以上に本能的な力
を感じる。
自分を守ろうとする自己保存本能で
はなく、家族や人類全体の繁栄を
求める種族維持本能だ。
強い物に逆らい、弱い物を守ろうと
する、世の流れに逆らう原動力とな
っている。
そして、優れた知性と強い本能が
乖離しないで一体で動く、現代では
極めて稀な人だ。
厳しいことを言われても、生産者が
付いてくるのは、本質的なところでの
信頼があるからだ。
これから、この力をどう使うか?
晴屋にとっても、この業界にとっても、
大きな影響がある。
小さい中にある充実こそ、本物であ
りえると、改めて感じた。
(この文章は2006年(晴暦26年)6月に晴屋通信に掲載したものです。)

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