晴屋の青い扉 美味しいには理由がある

美味しいには理由がある
美味しいというのは不思議な感覚
です。
同じものを食べても、美味しい時も
そうでない時もあります。
いくら安全と言われ価格が高い物
でも美味しく感じるとは限りません。
けれど知性ではなく、本能の世界か
ら見るとこんなに分かりやすい感覚
はありません。
自分に必要な物は美味しく感じ、そ
うでないものを不味く感じます。
美味しく食べているものも、食べす
ぎれば不味く感じます。
もう必要ないからです。
身体に良いと言われていても、必要
なければ不味く感じます。
またどんなに良質の物を食べても、
嫌いな人といっしょでは不味く感じ
ます。
食べ物は命の糧なので、命が安ら
ぎ、満足を感じられない状況では
消化し、吸収し、蓄積して、燃焼し
て息づくという働きが妨げられるか
らです。
粗末なものでも、心を込めてだされ
たものは、美味しく感じます。
命が欲しているからです。
ですから美味しいという感覚抜きに
食べ物を選ぶことは命に対してとて
も失礼なことです。
また安全性を求めることは、排除や
差別につながります。
自分や家族さえ良ければ、他の人
や社会がどうなろうと気にしないエ
ゴが含まれているからです。
しかし「美味しい」には、差別はあり
ません。
自分自身の正直な感想で、他者を
排除しません。
受け入れて、共有し、喜びを分かつ
ことができます。
立場や環境の違いを超え、共感を
もつことも可能です。
作った生産者の体調や状況を感じ
ることもあります。
また作った料理で食べる人の気持
を変えることもできます。
美味しいを突き詰めていけば、不要
な添加物や農薬を使わずにすみま
す。
見かけやたくさん作ることを求めず、
自然に即した農業や小規模の生産
をしていけば不要や薬品に頼る必
要はなくなります。
けれどそれはあくまで結果です。
それを目的とすると、人間は知性の
迷路に入り込み、本質を見失います。
人は自分の知っていることを全てだ
と思いたがる生意気な生き物です。
知っていることに縛られ、他人に押し
つけます。
持っている力を使いたくなり、知って
ることの正統性を主張します。
食べ物の選択だけでなく、宗教や
民族間の諍い、戦争もそうして起き
ます。
本当に必要な最低限の物で満ち足
りることができれば、言い換えれば
欲をすてることができれば、世界は
自足した人がもっと多くなることで
しょう。
食欲の中にも「欲」はありますが、そ
れを自己保存のためでなく、種族維
持の本能に方向づけするためには、
自分の生きる方向性を見極める必要
があるのでしょう。
他者を排除し自分が優位に立つた
めに食べるのか、知っている人たち
や自然の豊かさとも何かを共有して
食べるのかでは、長い年月の間には
私たちの身体はずい分と違ったもの
となってくるでしょう。
私たちの身体は食べたものでできて
いますが、何をどう食べるかで大きく
変っていきます。
病気にならないこと、安全性はもちろ
大事ですが、それを目的とした食事
や人生は結局知にしばられた狭い
ものとなります。
積極的に周囲とも共に楽しむことが
健全で、健康な身体と心を育てます。
晴屋が何よりも「美味しさ」を求める
のは、そのためです。
コンビニの、素材の味をごまかすた
めの濃い味付けに慣れた人にこの
感覚を説明するのととても難しいの
ですが、人間の本能の力を信じて
続けるしかありません。
厳しい世の流れの中で疲れている
時、刺激的なもので感覚をごまかす
のか、やさしく沁みるもので心と身体
を充たすのか。
完璧に食べる物を管理する必要は
ありませんが、自分が今本当は何を
求めているのか自覚する必要がある
でしょう。
自分の未来を決めるのは、お医者さ
んでも、与えられた知識でもなく、私
たち自身の感覚と選択です。
人間はそれぞれに違う身体と感覚を
持ち、必要な物が違います。
個性を育み、自分らしく生きるための
選択のお手伝いをするのが私たち
晴屋の仕事です。
美味しいには理由があります。

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