新型コロナと石けんと洗浄

新型コロナと石けんと洗浄
少し前にしゃぼん玉石けんと大学の
共同研究の発表があり、石けんが
新型コロナウイルスを洗い流すだけ
でなくたんぱく質の膜を溶かして
ウイルス本体を壊してしまうというこ
とでした。
これは合成洗剤には無い力で、石
けんの性能の良さが科学的にも証明
されたということになります。
石けんによる手洗いの効果には大き
く期待できるものがあります。
しかしその一方で私は危惧も感じ
ます。
それほどの効果があると、副作用も
あるのではないだろうかと思うのです。
実は私は石けんをほとんど使いませ
ん。
ひどい汚れがある場合だけ使います。
皮膚には体脂という薄い油分があっ
て、汚れや雑菌が付くのを防いで
います。
また定住菌という人間には有用な菌
が肌にはいて、雑菌を退治したり繁
殖しないように働いています。
酵母菌や乳酸菌の仲間で、皮膚か
ら栄養を出してこれらの菌がいつも
いられる環境を人間は作り、長い年
月共存してきました。
石けんはこうしたものたちも洗い流し
てしまいます。
ですから石けんも、他の殺菌剤も薬
も、なるべく使わないのが自然なこ
とであり、私たちの自然な働きをそこ
なわないことなのです。
もちろん今の世界で石けんをまったく
使わないなどということは考えられま
せん。
しかし何の疑問もなしに使い、頼って
安心してしまうのは別の意味の危険
を引き寄せます。
新型コロナ限らずに、人間に様々な
災いが襲いましたし、これからもやっ
てくるでしょう。
そして生活が便利になり、化学物質
に頼って自然から離れることで、ます
ます自然からの揺り返しは強くなっ
ていきます。
ジギル博士がハイド氏を生み、天使
が悪魔を生んだように、極端に走れ
ばその反対も現れてきます。
もう自然と一体になって原始生活を
送ることはできない私たちですが、
また一方で科学や文明に全てをま
かせて自分を失うこともできません。
身を危険にさらして、他人のために
奉仕する医療従事者の方々には本
当に頭が下がります。
現代におけるプロフェショナルという
存在の重さを引き受けています。
しかし私たちは医療によって生きて
いるわけではありません。
自分自身が持って生まれた生きる力
で生きています。
それを忘れることは、生きることの喪
失です。
生きる力を自分らしく発揮する悦び
が無ければ生きていることにはなりま
せん。
石けんも必要ですが、頼りすぎ、潔癖
に全てを洗い流せば、生命力の乏し
い、狭い所にしか居場所のない存在
になってしまいます。
原始的混沌と科学的清浄の間にある
自分らしい場所や暮らし方を見つけ、
命を守り、育てていかなければなりま
せん。
とても厳しく、難しい時代に生きてい
ると改めて感じます。
恐怖に自らを見失えば負けです。
何も感じず、考えずに災難を受けれ
ば、破滅するかもしれません。
自然と和合していればいいという日
本の自然観も変わらざるをえません。
しかし全てが戦いで、勝つことが全て
という価値観にも反発を感じます。
パンデミックだけでなく、世界中で変
化が起き、その波はますます大きく
広がっています。
世界に目を向けることと、自分らしく
あることのバランスがいつも試され
ます。
どちらにも付かず、曖昧で、一貫性
がないように見えて、自分の内実が
保たれているバランスを探すしかあ
りません。
けれど考えようによっては、まだ工夫
すれば自分らしい生き方ができると
いうことの証しでもあります。
その機会さえ与えられず、気づくこと
さへなく、世の流れに身をまかさざる
をえない人々が世界に多くいます。
私たちは世界の全ての人たちの命に
責任を持つことはできません。
それをできると思ったり、していると
感じていたらそれは不遜でしょう。
与えられた生命を精いっぱい生きる
こと、手の届く範囲にできるだけのこ
とをすること。
インターネットやマスコミからもたらさ
れる膨大な情報に惑わされず、自分
のやるべきことを選別するのは至難
な作業です。
けれどこの作業なしには今を生きて
いることにはなりません。
石けんや食べ物の選択やかかわり方
に、私たちの生き方が現れます。
たかが石けん、たかが食べ物ですが、
命のためにする選択は、私たち自身
のこの世でのあり方を表現しています。

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