旬の音楽「真夏のバッハ」 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番

旬の音楽「真夏のバッハ」
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番
五嶋みどり

アダージョは、手のひらで質感の良
い陶器に触れるように、そっと柔らか
な音で始まります。
曲線に沿って手は動き、次第に複雑
で豊かな面に沿いながら、天に向か
い感覚が開放されていきます。
高揚がありながら、手は曲線を離れ
ず、丁寧に質感を味わいます。
2曲目はフーガとアレグロ。
音はリズミカルに躍動しながら、小さ
なステップを繰り返し、時に大きく跳
躍し、また深く地に沈みます。
技術の上手さを披露するには最適な
曲想ですが、MIDORIは決して手を
緩めず、音の核心と、心に沸き起こる
感興の一致を求めます。
しかし時折発する鋭いフレージング
が、私たちの心に深く刺さり、バッハ
の真摯さが伝わります。
3曲目はシシリアンヌ。
素朴なメロディーが淡々と奏でられ、
平凡としか感じたことのなかった音が
必然的で、内なる精神に肉薄したも
のに感じます。
この曲の素晴らしさを初めて味わい
ました。
4曲目は、プレスト。
鞭がしなるようにメロディーは常に上
下動を続け、私たちの感性に切り込
みます。
彫刻家が鋭いノミで空間を切り刻む
ように、滑らかなボーイングと的確な
音程で、次々と新たな曲線が現れ、
私たちの心に残像を残しながら、新
たな映像を創造します。
以上の4曲は、バッハのヴァイオリン
ソナタの第1番の各楽章を聴いた時
の印象で、演奏は海外ではMIDORI
と呼ばれている五嶋みどりさんです。
若い時にも一度バッハを録音してい
ますが、こちらは2015年に再録音し
たヴァイオリンソナタとパルティータの
全曲のCDです。
30代の感性のきらめきを感じさせる
演奏からおよそ10年後のこの演奏
までの長い道のりに驚きを感じます。
現在の最先端の古楽の演奏の解釈
を咀嚼しながら、バッハ音楽の新た
な地平を明らかにしています。
バッハの音の世界にあまりにも切実
に迫っているため、ある意味バッハを
超えた音楽となっています。
バッハなのにバッハを感じない瞬間
が多くあるのです。
しかしそこで五嶋みどりが前面に出
てくるわけではありません。
感じるのはむしろ自然の質感。
木の肌の暖かさやざらつきだったり、
陶器の茶碗の複雑で多様な曲線だ
ったりします。
バッハの冷徹なほどに絶対的な価値
を見出す透徹した世界を求める人に
は物足りないかもしれませんが、音楽
を等身大の人間のつぶやきと感じ、
感情の押し付けや権威的な解釈に頼
りたいと思わない人たちにとっては、こ
の上ない祝福に充ちた瞬間となりま
す。
バッハは真冬や真夏によく合う音楽
です。
身体と心が頂点を迎え、感覚が極限
に達した時にその力を発揮します。
その流れに身を任せる時、宇宙との
一体感が感じられ、生きる意味を実感
します。
私が今、一番聴くことの多いバッハ
です。
ONYXレーベルのONYX4123で、2
枚組のCDです。

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