晴屋の青い扉 その55~56 民主主義、イリイチ、整体

晴屋の青い扉 その55
民主主義の旅
よく不思議に思うのは、周囲には原発推進派など一人もいないし、
今の世の中のシステムをいいと思っている人など見たこともないし、
根っからの悪人だなと思う人もまず見かけないのに、世の中はちっとも
いい方向に向かっていないことだ。
みんなが願い、意思を表明すれば社会は変わるというのが民主主義
なのだから、もうとっくに理想的な世界がやってきてもよさそうなもの
なのに、何故かそうならない。
むしろ悪くなる一方で、民主主義なんていうものは形だけで大衆主
義とか、衆愚主義とかそんな言葉の方が現実にあっているような気
さえする。
私が記憶している「民主主義」は、革命期のフランスで市民が自由と
自治を要求して命をかけて獲得した、人間の理想、自由と平等を追
求したものだったはずだ。
それが何故か形ばかりになり、見せかけのコンビニで商品を選択する
程度の自由と、責任を負わないわがままばかりが横行するようになっ
てしまっている。
携帯電話もまともに操作できない古い人間の私だが、最近は電子
辞書などというものを手に入れ、運転の合間とか、ふと気がついた時
に言葉を調べるのがクセになっている。
この辞書には広辞苑だけでなくブリタニカの百科事典も入っている。
「民主主義」を調べてみた。
「・・・語源はデモス(人民)とクラティア(権力)とを結びつけたギリシャ語
のデモクラティアで人民が権力を握り、みずからそれを行使する政治
を意味した。したがってそれは君主政治や貴族政治と並び支配形態
の一つである「多数者の支配」をさす。民主主義は、古代においては
愚民政治ないし暴民政治を意味するものとして、しばしば嫌悪され、
望ましい政治形態として受け入れられるようにいたったのは近代にお
いてである。・・・・」
古代のギリシャでは少数の市民を多数の奴隷が支えていた。
そんな社会を私たちは理想とすることはできない。
素晴らしい文明があったとしも、そこにはユートピアはなかった。
「・・・民主主義が真に確固とした市民権をえるのは第一次世界大戦後
のことである。この大戦において連合国側は「民主主義の安全な世界
をつくる」ことを戦争目的として揚げ、戦後はこの宣言に応じて民主主義
の大波が全世界をおおうことになった。しかし民主主義はソビエト型
民主主義と北欧型福祉国家の挑戦という新たな問題に直面した。元来
民主主義は自由、平等の理念に立つものであるが、近代民主主義は
リベラル・デモクラシーとして発展し、平等については形式的平等の実
現にとどまっていた。ソビエト型民主主義と福祉国家理念は、特にこ
の点を突いたのである。・・・」
崇高な理想と、多くの血と努力とによって実現した民主主義だが、現
実には多くの矛盾を抱えていた。
ブリタニカにはさらに「マス・デモクラシー」についての解説があった。
これは私には少なからず衝撃的だった。
「20世紀の民主主義の拡大は普通選挙制の実施による大衆の議会
政治への大量参加として始った。しかしその拡大は民主主義の形骸
化をもたらした。その理由としては市民社会から大衆社会への転換
という問題が考えられる。資本主義の発展は、社会的分業と都市化を
発展させ、社会生活を複雑、多様なものにした。この結果社会生活の
中で諸個人は孤立すると同時に相互依存を強めるようになった。こうし
てリースマンのいう原子化した膨大な量の「孤独な群集」が登場すると
ともに「他人指向型」の人格が出現するにいたった。また社会生活の
複雑、多様化は、一方で無力感を醸成すると同時に、他方でそれまで
自立的な個人の生活の中で解消されていた非合理的感情を社会に
向かって奔流させることになった。こうした大衆社会状況は、政治の
あり方を変え、民主主義の制度を変容させた。」
民主主義が人間の自由と平等を保証するためのものでなく、画一化
され、分断され、極めて限定された中での選択だけが許されていると
いう現状は、すでにアカデミックな世界や実際の政治の中では常識
として定着していたのか。
多くの人が標榜する民主主義はすでにただの幻想か。
それとも現状の維持を望む人たちに口実を与える方便なのか。
私たちは国民や社会人として他に何か共通の理念を持ちえるのか。
自分の今までの不勉強を恥じるとともに、目の前の突然の巨大な渦
に、一人の人間としては見渡すことさえ不可能な混沌とした渦に直面
したような気がして、めまいを感じた。
私は確かに今まで、この世の中の状況はおかしいと思い、違う生き方
があるはずだと信じ、それを実現しようとこの八百屋を続けてきた。
かなり徹底した個人主義者に生まれついた私は、自分にふりかかる
問題を社会のせいでなく、個人の課題として解決しようと努めた。
整体で自らの身体と向き合い、なるべく医療には頼らず、テレビの画面
を信用せずに自分が直接感じたことと区別した。
世の中でいいといわれていること、権威で保証されていることも鵜呑み
にせず、自分で検証し組み立てし直すまでは決して納得しなかった。
反社会というより、非社会的に生きてきたと思っていたのに、結局社会
全体がかかえる問題と同じ根にぶつかってしまった。
けれど、原発も含めてあまりにも遠大な人間全てにのしかかるテーマ
と向き合っていると自覚して、非力を自覚せざるをえない。
険しい道を登りきったら、突然に見晴らしのよい場所にでたけれど、
周りは断崖と絶壁で、次の一歩の足の置き場がみつからない。
少なくとも私たちの自由を保障してくれる民主主義などというものはす
でになく、自由は私たち自身で獲得していかなければ得られないこ
とは確かだ。
ゴルフやリゾートや高級車など優越的なものを使える、世に保証され
差別化された自由でなく、それほど多くのものでなくとも、静かに心を
みたすひそやかな喜びと自由をえるにはどうしたらいいか。
道なき道を歩むしかない。
晴屋の青い扉 その56  正しい消費者の作られ方
世の中は生産者と消費者に区分けされている。
使うことによって、作るものを育て、それによって自分も成長していく
相互の関係があれば、その区分は必ずしも必要ではないが、遥かに
離れたところにいる顔の見えない他人の作ったもの、見ず知らずの
人が使うもの、という関係では生産者と消費者は明らかに分断されて
いる。
たくさん作っていっぱい売れれば、生産者として能率がよく、大きな利
益をえられるかもしれない。
一度に大量に作った製品は均質で、一般的で、外れがないかもしれ
ないし、価格が安いので消費者に便利かもしれない。
人間には「欲」があって、これがもう少しなんとかなればいいのだけれ
どと思い、やってみたくなる。
しかし、それが得られたときには、前のものは失われるということを忘
れてしまう。
かつてあった、地域に根ざした個性的な暮らし方は失われてしまった。
すべてのことは、欲求に訴えてわたしたちの心に浸透し、誰もが生まれ
ながら持っていた純真さを失って、大人の消費者になっていく。
純真無垢に生まれてきた赤ちゃんは、一人では生きられないので親
の注意を集め泣いて要求を伝えようとする。
親が思うとおりに要求を満たしてくれると安らかに寝る。
しかし満たされなければいつまでも泣き、満たされる快感をえられない
まま、とにかく泣いて注意を集めようとする。
外界の新しいものへの興味と創造への一歩がさまたげられ、他者への
信頼も育たず、自分の欲求を果たすためだけのものとして世界を認識
するようになる。
そのまま大人になれば、欲求に過敏に反応して、余分に大きな声と
過大な要求をするようになるが、決して満足をすることができず、つぎ
つぎに欲求を続ける、万年欲求不満の状態になる。
何にでも文句をつけ、自己の立場と権利を主張し、無視されれば過敏
に反応するプライドの高い人は多くいる。
その多くは幼少期の心の傷に由来している。
意識でなく無意識にできた傷は、意識で変えようとしても直すことは
できない。
自分の要求でなく、与えられた欲求を満たしていく、優良な社会の歯
車であり、強く、正しい消費者が生まれる。
イバン・イリイチは当初、学校教育が従順な消費者を作ると言った。
学校のいくつかの機能を説明している。
まず知識を学べるのは学校だけでここで教えることは全て正しいと教
える。
新しい知識を得るためには学校に通い続けなければならないと納得
させる。
さらに上の教育があると示した上で、そこに到達できるのは限られた小
数だと理解させる。
そこにいけないのは、個人としての努力や素質が足りないからだと分
からせ、ごく一部のエリートと圧倒的多数の自分でものごとを判断しない
消費者がうまれる。
創意工夫する楽しさでなく、従順に言われたことを記憶する、テレビに
依存する消費者たちだ。
イリイチはさらに病院が病人を作ると言った。
医師が死を認定する権利を持った時から、生を司るのは医師の仕事
になり、病院に通わなければ健康でいられないと感じる人が現れた。
病気や怪我には必然性があるけれど、それを無視して病状だけを回復
させようとすれば、人間全体としてバランスが失われる。
苦しむこと、じっと耐えること、心と身体をひたすらに休める時期は、
人間に必要不可欠な大事な時間と経過だ。
それを忘れ、生きる感覚を他人まかせにする圧倒的多数の医療の消
費者が生まれる。
イリイチはこれらを指摘すれば世のシステムは変わっていくと期待した
が、残念ながらそれははずれた。
イリイチが提唱した必ずしも学校に通わないでも真実は学べるとした
「脱学校」は世界を一つの教室としてとらえる大きな動きにのみこまれ、
自分で自分の生き方、苦しみ方を選択しようとよびかけた「セルフケ
ア」は病院の中での自助努力にすりかえられた。
イリイチが考えたのよりずっと早く、深くテレビの影響はわたしたちに
浸透した。
電源が入りっぱなしのテレビのブラウン管からは、刺激的で扇情的な
画像が垂れ流されている。
「場違いな具体性。挑発的な官能性。視点の強制。」などという言葉
でイリイチは映像の世界を表現している。
子守代わりのつけっ放しのテレビ映像に浸り、外で遊ぶよりテレビゲ
ームに楽しみを見いだす子どもたちは、そこからくるものを当然のもの
として疑いをもたない。
「原子化」と「他人志向」はますます強まり、個を主張するけれど、流行
や格好の良さを追い、他人から「可愛いい」と思われることが良いことの
基準となる。
どこかで見かけたようなファッションに身を包んだ若者が街にあふれ、
次々にダイエット法や健康法が宣伝され関連商品が売れていく。
こうして思い上がり、勘違いした正しい消費者がますます増えていく。
なぜ正しいかというと、こうした消費者は、自分でものを考えないので、
与えられた欲求の中での選択をするため、システムに取り入れやすく、
そのシステムを疑った新しい動きも作ろうとはしないからだ。
システムを動かす人たちにとって、とても都合のいい存在であり、前回
書いた見せかけの「民主主義」を疑わずその中で安穏と生きる人たちだ。
正しい教育と、正しい医療と、正しいテレビの情報が正しい消費者を
作る。
まったく見事というしかない。
それでもへそ曲がりは世の中にいる。
晴屋は世の片隅にいて「マイペース」と言われ、お客さんたちもしっか
り自分の好みをもっている人が多い。
けれど、大なり、小なりわたしたちのなかにも消費者はいる。
わたしたちに選択の余地はどれほどあるのだろうか。

晴屋の青い扉 その57
作ること、育てること、希望をもつこと
整体法の野口晴哉は「子どもは認める方向に育っていく」と言っている。
親の注意を集め、模倣しながら新しいことを獲得してそこに自分の生命
を吹き込んでいく。
そんなこどもたちが好奇心から起こした悪戯を見て、「悪いことだ」と認
めれば、こどもは自分は悪いのだと思いはじめる。
「こんなことを考えて頭がいい」と認めれば、頭を使って新しいことを考
える快感を覚えていく。
テストの結果が良かったときは、「頭がいい」と認めればほめてもらおう
とテストの点をとろうとする。
「この科目が好きなんだね」と認めれば、興味を持ってその勉強にと
りくんでいく。
同じことをしても、認める角度によってこどもの伸びていく方向はまったく
違ったものになる。
もちろん今の世の中でまったく勉強が出来ないのも、大人になって困る
ことが多いだろう。
しかし、教えられたことにひたすら従順で自分が何者であるか追及し
ないで生きるのも、この世に生をえた意味を失ってしまう。
その両立やバランスをとらなければならない難しい時代にわたしたち
は生きている。
「三つ子の魂、百まで」と言われ、幼少期に潜在意識に入ったものを
変えるのはとても難しいことだ。
しかし、不可能ではない。
一番の機会は、こどもを育てることによって、自分も育つことだろう。
最初から完全無欠な大人などいない。
こどもと一緒に悩み、全力で事態に立ち向かい、過去の心の傷を思い
だしながら共に過ごすことで解決していく心の問題は多くある。
こどもを相手にしていても、決まりきったことの強要ばかりでは、共に育
つことはできない。
同情や指導といった押し付けではなく、こどもの気持ちを自分のこと
として感じる日本人特有の共感が求められる。
それと同時にこどもを育てる角度も意識して持ち続けるのは簡単なこ
とではない。
それを両立して、柔らかさと冷静さを併せ持つのが大人の条件だとも
いえる。
大人にとっての解毒剤になるもうひとつのことは、「作る」ことだろう。
作るのはものを育てることなので、子育てと似ているところもあるけれ
ど、決定的に違うのは人間相手ではないことだ。
相手の経過を待ったり、しがらみで手の出しようがないということが少な
い分、より創造的に自分を展開できる可能性がある。
頭の中にイメージとしてあったものが、自らの手で形になり、ものに命
が吹き込まれて主張を始めるのを目の当たりにするのはとても心地よ
いものだ。
もちろん途中経過としては、自分の限界にぶちあたり何もかも放り出し
たい時もあるだろう。
それでもまた作りたくなる、その心の動きこそが生きていく感覚であり、
絶望の底にいる裸の自分と向き合う時でもある。
食べるものももちろん新しい感覚の世界を開いてくれる。
これは美味しいはずだと思ったものがそうでもなかったり、予想もしない
味に出会いこれはどうしてなんだろうと考えこんだり、食べることは真剣
に向き合うと多くのことを教えてくれる。
感覚を鍛える手段になりえる。
食べることを楽しんでいるだけでは、感覚を深めることは出来ない。
自覚しながら感覚を洗練させていくのは、人間に与えられた可能性と
能力といえるだろう。
「育てること」「作ること」「食べること」これらは極めて個人的な課題だ。
一人の人間が変わり、周囲が少しだけ健全な方向に歩んだとして、
世の中には少しの影響もないかもしれない。
それを自覚するとき、私たちは無力感に陥る。
しかしそこにトリックがある。
膨大な情報を提供する今のテレビ分化(文化ではない)は個の楽しみ
を提供してくれるが、内側には何をしても無駄という虚無がひそんでい
る。
野口晴哉は「不快の上になりたつ快は、不快の支えなしには存続で
きない」と書いている。
この文章を読んだとき、私のうちで歯車がカチッとはまって何かが動き
だした。
社会への不満や世に溢れる豊かさを羨む気持ちが誘導する快が用意
されている。
それを追い求めても決して満たされることはない。
私たちにあるのは自分の人生を精一杯歩むことであり、他を羨んだり、
卑下したりする必要などない。
見知らぬ街で飢えに苦しむ子供たちの映像を見るとき、私たちの心は
痛む。
しかしそれをなんとかしたい、やれるだけのことはしたいと思うのは、
内なる不満の代償であり、私たちの欲なのだ。
あの子たちと共に生きることはできない。
知らない誰かをケアしようとする動きは、常に世の全てを産業化しようと
する働きにとりこまれ、それによって新たな貧困と悲惨を産む。
全世界に責任を持つことなど誰にもできない幻想であり、無力から目を
そらすことによって虚無を受け入れることなのだ。
映像の世界と、自分という存在が出合ってしまったことを区別するこ
とでしか、自分を自分の手にとりかえすことはできない。
イリイチは「それが世界を救うのに役に立つからではなく、それが美し
いものであるからこそ祝福しうるようなセンスです。それゆえわたしは、
いまをいきいきと生きようと呼びかけます。あらゆる痛みや災いを抱えつ
つ、この瞬間に生かされていることを祝福し、そのことを自覚的、かつ
儀礼的に、また率直に楽しもうと呼びかけるのです。わたしは、そのよ
うに生きることが、絶望や非常に邪悪な種類の(責任という)宗教心に
対する解毒剤になると思われるのです。」と語っている。
整体の野口晴哉は「人が生きるのに意味はない。生きることだけが
意味なのだ」と書いている。
生きているということ自体が奇跡なのだから、日々感謝しながら理想
を実現する努力をするしかない。
生きていれば必ず希望は残る。
娘が買ってきた歌手のCoccoのDVDを見ていたら、最後の方でこども
のことを語る場面があった。
彼女の独特の語り口を文章にすることは不可能なので、記憶だけで
内容をお伝えする。
「若いときに宮崎駿の「もののけ姫」を見ていたら、めちゃくちゃ腹が
たった。最後の場面で(神が死に自然が破壊され)少しの花とひとつ
のコダマ(自然の精)が残った。こんな半端なことしてるから、世の中は
変わらないんだ。全部殺してこれじゃだめなんだと伝えなくちゃだめ
なんだと。
けれどずっと後にこどもといっしょに見たときは、心の中で祈っていた。
お願いだから花を残して、少しでもいいからコダマを残しておいてと。
こどもに美しいものを見せたい。夕焼けを見る楽しみや夕ご飯の匂い
をかぐ楽しみを残したい。」
次の世代でも世の中は少しもよくなっていないかもしれない。
むしろ悪くなっているだろう。
人間だけに特権的に許された、確実な安定と未来はない。
それでも私たちは期待をし希望を持つ。
美しいものを見て育ったものは、次の世代に美しいものを見せようとす
るだろう。
可愛がって育てられたこどもは、大人になってこどもを可愛がるだろう。
冷たい社会のシステムのなかで、辛うじて人のぬくもりを感じることが
あるのも、荒れた教育のなかで人になにかを伝えようとするのも、あ
たりまえのことではない希望に支えられた切実な行動だ。
他人に認められようとしたり、よく思われるために何かするのは欲に違
いないが、その時をその人といっしょに生きることには意味がある。
希望はギリシャ神話では人間に残された最後のものなのだそうだ。
パンドラが開けた箱で他の災いは全て世に飛散したが、唯一希望だ
けが箱の中に残った。
人に許された唯一の要求が希望だ。
次の世代を思い、明日の自分を信じる。
それ以外は全部余分な欲なのだ。
この世に生まれたのだからこの世のすべてを味わいつくしたいという
欲、今のままでいいからずっとこのままでいたいという欲、どちらの道
も自分を見失う未来しかない。
何も感じずに無為に生きることはできないが、日々自分らしく生きるこ
とはできる。
私たちにはまだ、生きて、内なる自分を実現させる余地が残されてい
るし、いくつかの希望を胸に宿しつづけることができる。
これは当然のことではなく、幸せなことに違いない。

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