ベルリンの青い空 その1
ベルリンへの道 前篇
昔手に入れた大きなスピーカーが
貸した人から返ってきました。
置く場所に困るのでオークションで
売ることにし、せいぜい5万円くら
いだろうと思っていたのですが、20
万円という、私にとっては宝くじに
当たったような金額です。
これを晴屋の仕入れや返済にあ
ててももちろん役にたつのですが、
それでは少し哀しいかなと思い、
旅に行こうと思い立ちました。
娘の柚衣が3月いっぱいで転職す
るのでその前と指定され、まだ行っ
たことのないイタリアやスペインや
アジアも考えたのですが、前から
みたいと思っていたコンサートが、
一週間の日程のうち二つもみられ
るベルリンを第一候補にしました。
ドレスデンにいる次女の萌の協力
もあってチケットも手に入れられた
ので、行くことを決めました。
ヨーロッパで一番元気のある街で
あるベルリンの何が人を惹きつけ、
エネルギーを発散しているのかを
感じてみたいとも思いました。
他の都市へは行かず、ベルリンだ
けで一週間、ゆっくり、ゆったりとし
た時間を過ごしたいとも思いました。
前回のドレスデン行きと同じに、月
曜のトラックの引き売りの後の片づ
けが終わる深夜2時から2時間ほど
の仮眠をとっての出発です。
今回は低反発素材のネックピロー
やアイマスク、アマゾンで評価の
高かった米軍使用の耳栓まで用意
して、飛行機で寝ていけば大丈夫
という準備は万端です。
しかし世の中はそう甘くはありませ
ん。
成田で、KLM航空のカウンターま
で行くと、ベルリン・テーゲル空港
がストで再開の目処がたたないと
いうのです。
翌日まで待っても保証はできない
ということなのです。
替わりのフライトとしてドレスデンや
ハンブルク、デュッセルドルフなら
用意できるといいます。
ドレスデンは土地勘があり自力で
空港から駅まで行けますが、列車
の本数が少ないことも知っていま
す。
スマホで調べて1時間に1本特急
の出ているハンブルクを選択。
最初の飛行機はオランダのスキポ
ール空港に向かい、乗り継ぎでハ
ンブルクに向かうチケットを渡され
ます。
背の高いオランダ人仕様になって
いるのか、座席もエコノミーの割り
には広く、食事も今までの中で一
番ましな感じで、ネックピローの効
果もあり、楽なフライトでした。
ところが空港で乗り継ぎの飛行機
を待って電光掲示板を見ていても
いつまでもフライトの情報がでてき
ません。
何かの事情で遅れているのかなと
思いましたが搭乗締め切りの出発
15分前になってもまだ分かりませ
ん。
スキポール空港は広くて歩く距離
が長いので有名ですが、端にある
搭乗デッキ側から反対にあるKLM
のオフィスまで走っていってゲート
番号を聞き、またダッシュして搭乗
デッキに着きました。
けれど締まっていて中に入れても
らえません。
今度は再びダッシュでKLMのオフ
ィスに戻り、「チケットにはゲート番
号が書いていない。電光掲示板の
情報もなかった。」と必死につたな
い英語でアピールしました。
何箇所かに電話をし、あちらも非
は認めて、「飛行機を止めたから
すぐにゲートへ行ってくれ」と言い
ます。
再び猛ダッシュで向かうと、下着
だけでなく、シャツやジャケットまで
汗で濡れ、足は上がらなくなり、息
も上がった状況でやっとゲートに
到着します。
待っていた女性に「松橋さん?
走るのが速いですね」と笑ってい
われますが、「ハイ」というのが精
一杯で対応はできません。
他の乗客の視線を浴びながら席
につきました。
出発予定時間から5分遅れての
搭乗で、10分遅れての出発とな
りました。
KLMは寒さに強いオランダ人に
基準を合せているのか室温はかな
り低めです。
着ていたゴアテックスのレインコー
トが役にたち、汗と熱が次第に抜
けていきます。
しかし今度はスマホがないことに
気がつきました。
ベルリンの情報がたくさん入力して
あります。
走っているあの時そういえば後ろ
で何か音がしたっけなと思いだし
今度は冷や汗が流れます。
スマホは結局、いつもは入れること
のないズボンの後ろのポケットに入
っているのを降りるときに発見しまし
た。
ほっと安心してこれでベルリンに
着けると思ったのですが、残念な
がらトラブルはまだ続きます。

ベルリンの青い空 その2
ベルリンへの道 後編
ハンブルクの空港からは中央駅
まで、地下鉄一本でいけるはずで
す。
金額を確認し切符を買って、日付
を自分で打って改札なしにそのま
ま乗り込むのは、ドレスデンやベル
リンと同じです。
ところがどうも方向が違うような気
がします。
ドアの上の路線図を見入っている
と親切な男性が声をかけてくれ、「
どこへ行くのか?」と聴くので、「中
央駅です」というと、「違うからまた
空港へ戻って乗りなおせ」と教え
てくれました。
同じ路線で、同じホームから別の
方向の電車も出ているようです。
なんとかハンブルク中央駅に到着
しましたが、ドイツ版新幹線である
ICE(インター・シティ・エクスプレス)
の発車時間の間際です。
チケットを買おうと窓口に行きまし
たが、時間がないからすぐに乗っ
て中で買えと受付の女性に言わ
れてそのまま乗車しました。
けれどどうも方向が違う感じがしま
す。
ドイツでは終着駅の表示はあります
が、次の駅の親切な表示などはま
ったくありません。
自力でなんとかしろという感じです。
車掌さんに聞いてみると、やはり
反対方向の電車に乗ってしまった
ようです。
事情を説明し次駅で降りての乗り
継ぎなども聞き、チケットを買いま
した。
情状酌量のまったく効かないルー
ルの国のドイツですが、事情をくん
で次の駅までの運賃は免除されま
した。
特急なので次の駅までは30分、さ
らに40分ほどの待ち合わせ時間
があります。
定刻になって来た列車は普通の
電車で、ICEではありません。
ICEが来るものとばかり思っていた
私は間もなく来ると待ちましたが、
ふいに身体の中から「乗る」という
声が聞こえ、発車間際の列車に
飛び乗りました。
結果的には正解で、これに乗らな
ければベルリンには次の日のICE
にしか乗れませんでした。
ハンブルクで行き先を確認して乗
り換え、2時間弱の乗車です。
もし寝過ごしたら今度はどこへ着く
かも分かりません。
緊張のままベルリン中央駅に着い
たのは0:02.で、日付が変わって
翌日となっていました。
東久留米をでてから27時間経って
います。
ベルリンは本当に遠かった。
階段を上がるといきなり、娘の萌と
遭遇しました。
難しいベルリン市内7日間乗り放題
のチケットの購入を手伝ってもらい、
やっとホテルに到着しました。
クロイツベルク地区にあるホテルの
そばにはベルリンで一番美味しい
といわれるケバブの店、ムスタファ
ーズ・ケバブがあります。
香ばしく焼き上げたパンに、野菜
や鶏肉がたっぷりと入り、スパイシ
ーで切れ味のあるソースがかかっ
ているトルコの名物料理ですが、
発祥は意外にもベルリンです。
普通は30分待ちが当たり前だそう
ですが、夜中なので空いています。
ビールも合せて買ってきてもらい、
遅い遅い夕食です。
考えてみると機内食の昼食をとっ
て以来、持ってきたブルーベリー
の飴3個と乗り継ぎの飛行機でで
たビスケット数枚の他は12時間の
間何も食べていませんでした。
緊張で食べることなど忘れていた
のです。
ビールを飲みながら今日の出来事
を萌に報告します。
ベルリンの空港がストで止まってい
ると聴いたときは「絶対に今日中に
は来られないだろうと思った」そう
で、飛行機を止めた話では「日本
人はふつうそこまでしないよ」と感
心されたような、半ば呆れられたよ
うに言われます。
走り疲れた足の痛みを感じながら
長い一日をふりかえっていました。

ベルリンの青い空 その3
クロイツベルク
クロイツベルクはもともと、荷役用の
運河の両岸に開かれた労働者の
街でした。
そこにトルコからの移民なども住み
はじめ、生活感豊かな場所となり
ました。
現在ベルリン市内でもっとも人口
密度が高い地区で、左派勢力が
強いことでも知られています。
現在の区長もみどりの党から選ば
れています。
生命力旺盛な移民と知的レベル
の高い革新勢力が混在するとても
魅力的な場所です。
前日の遅い夜食のあと、4時間ほど
睡眠をとり、ホテルのバイキングの
朝食をすませてから、クロイツベル
クの散策にでかけます。
空港での猛ダッシュの後遺症で
ふくらはぎと太ももはパンパンに
硬くなり、足の裏は肉離れのよう
に一歩ごとに傷みが走ります。
それでも出かけずにはいられま
せん。
まだ開いていないケバブの店を過
ぎると間もなくヴィクトリア公園にで
ます。
ベルリンは氷河に削られた場所に
あるので、あまり起伏がありません。
ここは小高い丘になっています。
特に硬い岩盤があり、エネルギー
のある所なのかもしれません。
頂上に十字架のモニュメントがあ
り、クロイツ=十字架のある、山=
ベルクがこの地の地名となったそ
うです。
60メートルほどの高さですが、ちょ
っとしたハイキングの気分が味わえ
頂上からはベルリン市内を見渡す
ことができます。
ベルリン市内は、街路樹と公園を
あわせて40%が緑地だといいます。
そのためか鳥も多く、まだ寒いこの
季節なのに鳴き声が途絶えること
がありません。
もちろん、鳥の鳴き声は自然のの
どかな営みというよりは、ここは俺
の場所だ、何処かへ行け!という
自己主張です。
ドイツでは人間だけでなく、鳥も主
張が強く明確にならざるをえない
のかなと思いました。
また市街に戻り、レンガ造りの丸い
大きな樽のような、趣のある給水塔
なども見ながら、目的地のひとつ
のマールハイネッケ・マルクトハレ
に向かいます。
1892年から続く歴史的な商業施
設で、小さな店が多くあつまり、ガ
ラスのショーウインドに美しく、楽し
く品物をレイアウトしてあります。
チーズ専門店、ハム・ソーセージ
の専門店、八百屋、肉屋、などが
数店づつ入り、香辛料やお茶、ド
イツでは珍しい魚屋もあります。
見て回るだけで本当に楽しいとこ
ろです。
有機の製品も多くありますが、隣接
してビオ・カンパニーという有機専
門の大きなチェーン店もあり、生活
用品が何でもそろいます。
今度はクロイツベルクのもうひとつ
の中心地、運河の反対側にあるコ
トブサー・トーア駅周辺に向かい
ます。
こちらはリトル・イスタンブールと
いう別名のとうり、トルコ人が特に
多くすんでいる地区で、色彩も豊
かですが、ゴチャゴチャと混みあ
って猥雑な雰囲気も漂います。
「俺たちはここに住む」と壁に大き
く書かれた手入れの行き届いてい
ないアパートなどもあり、不法占拠
した人たちが住み続けているよう
です。
クラウト&リューベン・ナチューアコ
ストという自然食品店もあって晴屋
に似た雰囲気があり、親しみがわ
きました。
昼食は「グッド・モーニング・ベトナ
ム」というベトナム料理店で食べま
した。
日本ではエスニックはどちらかとい
うと庶民的な雰囲気を発散してい
ますが、こちらではヘルシーという
位置づけのようです。
この店もビーガンの範疇で、肉や
動物性のものをいっさい使ってい
ません。
ヌクマムという魚醤さえ使わず、す
っきりと上品で洗練された味で、
こうしたエスニックがあるのかと新
鮮に感じました。
金曜日には川沿いに露天のトルコ
市場が開かれていました。
極彩色といろいろな香りが漂い、
ベルリンにいるとは信じられない
ような雰囲気です。
誰が買うのかなと疑いたくなるよう
なものもありますが、豊穣なエネル
ギーにあふれています。
どうしても食べてみたかったファラ
フェルというひよこ豆のコロッケも
食べられました。
味は思っていたよりすっきりとして
違和感はありませんでしたが、新
しい味の発見までには至りません
でした。
異邦人として、ベルリンの中に定
着しているもうひとつの文化の香
りを楽しみました。

ベルリンの青い空 その4
ベルリンの交通と人の動き
ベルリンに行く前から地下鉄とバ
スに恐怖心を持っていました。
以前ドレスデンに行ったときには、
交通手段はもっぱらトラムという路
面電車で、テンポもゆったりしてい
ますし外が見えるので視覚で確認
して、街並みから降りる場所がわ
かりました。
ベルリンでは旧東ベルリン地区に
トラムは残っているものの、ほとん
どは地下鉄とバスに切り替わって
います。
地下鉄は路線が複雑に入り組み、
しかも日本のように次の駅の表示
が出ません。
地下ではスマホも使えず、自分が
どこにいてどこに向かっているの
かが分かりません。
そして路面電車の路線を継承して
いるのか、およそ2分ごとに停車し
ます。
そのテンポに付いていける自信が
ありませんでした。
またバスも同様で行き先しか表示
がないものが多く、ぼそっと停車
する場所のアナウンスがあったら
すぐにボタンを押さないと通り過ぎ
てしまうというのです。
英語でさえ相当怪しいのに、ドイツ
語の慣れない音は車の騒音の中
では本当に分かりません。
そんな事前の知識があったので、
一人でベルリンの街を移動できる
か本当に不安を持っていました。
けれど最初の日の娘のナビがあっ
たり、スマホに事前に情報をアップ
してから地下鉄に乗れば、電波が
届かない状態でも情報を確認でき
るとわかり、次第に度胸がついて、
市内どこにでも行けるようになりま
した。
それにしてもベルリンの人たちの
速度には驚かされます。
地下鉄もバスも自動ではなく、自
分でドアを開けます。
ドアにスイッチがあり、LEDが点灯
したらスイッチに触れるとドアが開
きます。
LEDが点灯する前からスイッチを
何度も押している人も多くいます。
私が一番前で一瞬でもスイッチに
触れるのが遅いとすかさず手が伸
びてきます。
白人のアーリア人という人たちなの
でしょうが、相当に気が早い人た
ちです。
歩く速度もみな早く、女性にも追い
抜かれることがあります。
空港内の猛ダッシュで足が疲れ、
慣れない石畳の道だということも
あるでしょうが、生活感覚が違うと
思いました。
それに対し、移民の人たちは概し
て速度がゆったりしていて先のこ
とより、今ここにいることを重んじて
いるように感じます。
また興味を持つとジロジロと遠慮な
く見てきます。
白人はまず目を合わせません。
けれど見ていないわけではなく、
一瞬の間にこちらの様子を判断し
ているようです。
緊張の糸が常に張り詰めているよ
うです。
明らかに頭の緊張状態なのです
が、それでも重心が上がったりし
ていません。
日本人なら、肩に力が入ったり、
腰が強張ったりしているでしょう。
頭が緊張していても、体勢には影
響ないのが持ち味であり、個性で
ある人たちなのです。
ドイツ発祥のシュタイナー教育に
オイリュトミーという身体での表現
方法がありますが、シュトットガルト
から来たプロの公演をみたことが
あります。
日本人のグループも参加していた
のですが、頭の位置を一定に保つ
動きでもドイツの人はダイナミック
さを失いません。
日本人は重心が上がって力が抜
けてしまっていたのを思い出しま
した。
日本人は重心を下げた動きや、
縮んで集中する動きには分があり
ますが、一点に集注する動きでは
ドイツ人にかないません。
ドイツでも特に活気に充ちた街、
長く苦しい歴史を経たベルリンで
はこの速度と緊張感が求められる
のだろうと感じました。
けれど一方、私には触れられない
のですが、垣間見られる別の世界
があることも感じます。
家族と家にいることを好み、ゆっく
りとした時間を楽しみます。
またキーツと呼ばれる近所付き合
いや友人関係でも、ひとたび懐に
入るととことん信頼され、家族同様
に扱ってくれるといいます。
歳をとってからの豊かさや暖かさ
は、こうした処から育つのでしょう。
緊張とゆるみ、クールとホットが矛
盾なく両立しているのがベルリン
の魅力の源なのでしょう。

ベルリンの青い空 その5
ベルリンの壁と意思表示
ベルリン二日目の朝は有名なイー
スト・サイド・ギャラリーに行くことか
ら始めました。
旧東ドイツが住民の流出を阻止す
るために市内を取り囲んで築いた
ベルリンの壁が川沿いに長く残っ
ています。
東ドイツ崩壊後、芸術家や素人も
思い思いに壁に絵を描きました。
やった者勝ちの世界ですが、出来
の良くないものは勝手に上描きさ
れました。
川に面した広い空間に壁が長く
直線で続き、思い思いに描かれた
絵を見ることができます。
正直言って、レベルが高いものは
そう多くはありませんが、この意思
の表示のストレートなエネルギー
には圧倒されます。
いくつかの主要なものには作者の
名前の入ったプレートがかかって
います。
また鉄のフェンスで守られている
ものもあります。
もうひとつの有名な公園、マウア(
壁)パークにも行ってみました。
残された壁沿いに長く広大な芝生
が続いています。
日曜には蚤の市が開かれ、大勢
の人でにぎわうといいます。
日曜にこれを見てから帰国するつ
もりだったのですが、飛行機の都
合で見ることができませんでした。
平日の午前中で見渡す限りの芝
生に数人しかいませんでしたが、
自転車の集団がやってきました。
20人ほどの中学生らしい若い人
たちに引率の先生が先導してい
ます。
授業として歴史を伝えているので
しょう。
楽しそうな中にも真剣な雰囲気が
伝わってきました。
「涙の宮殿」と名づけられた昔の
出国所にできた展示場にも行って
みました。
西から東へは行けましたが、東の
人は西へは行けず、生き別れの
家族はここで分かれなければなり
ません。
写真やトランク、持ち物が展示さ
れ、どんな思いで国をでたかが伝
わってきます。
当時の人たちの暮らしぶりや感情
が伝わって、胸をゆさぶります。
ドイツでは言葉で表現しなければ
何も考えていないものと判断され
ると、よく言われます。
融通が効かない、ルール重視の
国というイメージです。
けれどその内には、意思表示を
重んじ、意思が表明されたものは
必ず議論し、検討されるという暗黙
の了解があるようです。
ですから一度決まったルールは、
それが変わるまで重んじられるの
です。
建物のほとんどはきれいに手入れ
されていますが、まったく手付かず
のものもありました。
壁に「私たちはここに住む」と書い
てあります。
古いホテルを不法占拠した人たち
が暮らしているようです。
それでも強制退去にはならず話
し合いが続いているのでしょう。
意思と意思がぶつかりあい、ルー
ルが決まります。
栄光の時代も,全体主義の台頭
を許し個人の意思が押しつぶされ
た苦しい歴史も経てきたドイツ.
個の意思が尊重され,議論と検討
が続けられるということは,未来へ
の希望と光でもあるでしょう。
もちろんこうした風潮についていけ
ない人たちもいます。
大声で分けのわからないことをず
っとわめいている人、酔ってうつろ
な目で通行人を見る人、警官にと
り囲まれ議論している人などを見
かけました。
けれどそれもある意味の意思表示
でしょう。
日本人のように気づかいや優越感、
劣等感などの他人と比較した内的
な情緒ではなく、絶望の明確な表
明です.
どちらがいいのか私に判断はでき
ませんが、異なったものがそこにあ
るという実感を強く持ちました。

ベルリンの青い空 その6
ベルリンの自然食品店
ドイツでは有機はBIOと呼ばれ、
しっかりと生活の中に定着してい
るようです。
ごく普通のスーパーの中にもBIO
と表示されたものも多くみかけられ
ます。
私の泊まっていたホテルから5分
ほど歩いたところにもそうした店の
ひとつがあり、毎日のように行って
買い物をしていました。
LPG BioMarktエルぺーゲー・
ビオマルクトのLPGは美味しくて、
安くて、健康というドイツ語からとっ
ているそうです。
晴屋はキャッチフレーズになる言
葉が見つからず、苦労しています。
「おやけ晴屋」では様になりません。
頭文字で表現できる言語をうらや
ましいと思いました。
ベルリン市内にのみ店舗を展開し
ているチェーン店ですが、半径200
km以内の産物を仕入れるという
明確なポリシーを持っています。
会員制をとっていて、会員は割安
に購入することができます。
もうひとつの大きなチェーン店は
Bio Companyビオ カンパニー
というお店で市内で何度も見かけ
ました。
ロゴの緑がとても印象的です。
地域で生産されたものにこだわり、
自主ブランドもあります。
品揃えはあまり違うとは感じられま
せんでしたが、この二つの雰囲気
は大分違いました。
整然としてクールに仕事としてこ
なしている感じのビオ・カンパニー
に対して、ビオ・マルクトは少し雑
然とした雰囲気ですが、全体に勢
いがあります。
都会的で洗練されたビオ・カンパ
ニーに対し、野生的で生活感のあ
るビオ・マルクトという感じです。
私個人としてはビオ・マルクトによ
り親しみを感じました。
クロイツベルクは革新を好む土地
柄で、ビオを好む人が多い地域な
のだそうですが、そこで1978年か
ら営業しているのが、Kraut und
Rubenクラウト ウンド リューベ
ンです。
広さは晴屋と同じくらいで、スーパ
ー形式のチェーン店よりはかなり
小さめです。
暖かく、柔らかな雰囲気で、店の
すみずみにまで気が行き届いて
います。
お客さんもとだえることにくやって
きて、しっかりと地域に根を下ろし
ているのを感じます。
私が見た中では晴屋に一番近い
ものがありました。
「私は日本で自然食品の店をやっ
ています」と言うと、「うちは38年
やっています」と言うので、「うちは
36年、チッ」と言って指をならし少
しうけをねらうと笑ってくれました。
もう一店、印象的だったのが、ノイ
ケルンにあるBio Sphareビオ
スフェーレです。
ベルリンの郊外のノイケルンはま
だ鍛冶屋がある昔の村のイメージ
が残る場所です。
低所得者が多いこの地域でこうし
た店はなりたちにくいのですが、
あえて開いていることに心意気を
感じます。
ドイツでは髪の短い人が多く,長
いのは芸術家か浮浪者の類です.
ひげ面もまず見かけません.
見かけたオーナーらしい人は長
髪で無精ひげを生やしています.
往年のロッカーのような渋い凄み
を漂よわせており,筋の通った年
季を感じます.
店も小さく、品揃えも平凡なのです
が、ビオの製品をぜいたく品では
なく生活必需品として扱おうという
その姿勢に共感しました.

 


ベルリンの青い空 その7
シオン教会
落ち着いたたたずまいの家並みを
進み、少し細くなった道路を右に
曲がると、その教会は突然に姿を
現しました。
教会の多いこの地で、大きさや形
など特に個性を感じさせるもので
はありません。
目的地はその先の店なのですが、
なぜか吸い寄せられるように身体
が教会へと向かいます。
顔には微笑が浮び、胸の奥で何
かが共鳴して高鳴ります。
全体が黄土色の煉瓦で被われて
いますが、風雨にさらされ黒くく
すんでいます。
建物であるより、年月を経た古木
がひっそりと立っているようです。
こんな美しい建物は見たことがあ
りません。
死んではいない、けれども生きて
いるともいえない、この世のもので
あることを超越しているようです。
幾多の悲惨や絶望を通り過ぎなが
らも、それでも理想を失わない凛
とした姿勢を感じます。
災いに削りとられながらも、消えず
に残ったいとおしいものたち。
水晶のように結晶した思いは、今
何を感じているのでしょうか。
シオン教会が、東ドイツの変化に
大きな役割を演じたということだけ
は知っていました。
そして、政治という泥臭いドラマの
もっと深いところで人間とつながっ
ているように感じます。
東ドイツではひどい環境汚染に悩
まされていましたが、それを公に
抗議することはできませんでした。
チェルノブイリ原発の事故などは
話題にすることさえ許されません。
そんな中、この教会の地下で信徒
や学生による「環境図書館」という
グループが結成されます。
やがて新聞まで発行されるように
なりますが、秘密警察シュタージ
の知るところとなり、メンバー7人
が逮捕されてしまいます。
翌朝から抗議の意をあらわして、
環境新聞や教会の関係者が現場
に立ち続けます。
やがて他の反体制グループや住
民もその輪に加わり、その様子は
西側のマスコミによって、全ドイツ
に知れ渡ることとなります。
騒ぎの大きさに当局はメンバーを
釈放し収束をはかりますが、その
輪は東ドイツ全体に広がり、それ
が平和的にベルリンの壁が崩壊
するきっかけとなりました。
「シオン」とはエルサレムの旧名で、
約束の地ともとらえられます。
彼らには約束の地が見えていたの
でしょうか。
私が同じ立場なら何ができるかと
問いながら、胸に熱いものが流れ
ます。
雲の合間に青い空が現れ、黒くく
すんではいてもやや黄色みがか
った茶色の尖塔は、強い存在感を
持って空に向かいます。
すでに拳を振り上げる時はすぎま
したが、まだ理想を求める思いは
残されています。
はじめて見るのに、何故か昔か
ら知っているものに会ったような、
暖かく懐かしい感覚が続いていま
す。
この教会を見るためだけでもベル
リンに来た意味があると思えました。

 

ベルリンの青い空 その8
ベルリンでの貧困生活
ベルリンからハンブルクへ飛行機
の到着場所が変更になったため、
ドイツ版新幹線のICEインター・シ
ティ・エクスプレスの臨時出費があ
ったり、メンバーたちへのおみやげ
を買ったりしたため、ベルリン到着
の二日目には手持ちの現金があ
まりなくなってしまいました。
それでカードでキャシングを試み
ました。
ドイツはまだまだ現金優先の社会
のようです。
高額紙幣は小さな店では断られる
ことも多く、カードも敬遠されたり、
実際に使えないことも多くあると聞
きました。
チップも必要です。
ところが何度やってもできません。
ドレスデンにいる萌に電話で問い
合わせてみると「そういうことは割
りとあるけれど、機械に種類がある
から、他のものも試してみたら」と
言われやってみましたが、VISA
やMASTERSなどのインターナ
ショナルなカードで別に変な履歴
はないのにもかかわらず、やはり
3枚持っているカードがすべて、
他の機械でも使えないのです。
ドイツでは規格の違う小型の銀行
カードのようなものがあり、それが
主に使われているそうなのです。
何度かトライしているのでもうロック
がかかって、普通には使えない状
態になっているかもしれません。
お店に行って試してみることもで
きません。
現金の手持ちは少ないですし、ス
ーパーで後ろに人が大勢並んで
いる時にカードが使えずにまた品
物を返しに行く状況など、考えた
だけでぞっとします。
手元にある50ユーロと日本円380
0円ほどでなんとかするしかありま
せん。
帰り道から逆算していって、パスモ
を置いてきてしまったことに気づき、
成田エクスプレス等の料金をネット
で確認し3500円必要と分かりまし
た。
また帰りの便のイベリア航空は食
べ物と飲物が最低限しかでてこな
いことも知っていました。
実際マドリードから成田まで15時
間ほどのフライトの間に、焼きそば
と小さなパンにほんの少しだけの
野菜が少しの夕食と、サンドイッチ
とヨーグルトだけの朝食、そしてそ
の時だけでる飲物が渡されるすべ
てでした。
そのため空港での昼食と水を買う
ために20ユーロ必要です。
まだ孫の一人におみやげを買っ
ていませんでした。
そしてどうしてもファラフェルという
ひよこ豆のコロッケも食べたいと思
っていました。
そうすると一日3ユーロ、日本円で
350円ほどで暮らさなければなり
ません。
貧しいのには慣れていますが、
食べ物が自由に手に入らない状
況というのは、私のような仕事をし
ている人間には通常ありえません。
必ず残りものや食べなければなら
ないものが目の前にあるのです。
ビオのマーケットに行って日本よ
り圧倒的に安いのはパンとチーズ
です。
どちらも2ユーロでおつりがきます。
それにレタス等の野菜を買って、
それだけの食事を3日間、ほぼ3食
続けました。
美味しいのでそんなにわびしさは
感じませんでしたが、美術館など
の入館料が必要なところへはいけ
ません。
ベルリンでレコードをさがすのが
旅のひとつの目的でしたが、実際
には買うこともできません。
それでもいちおう、見学に行って
みました。
価格は比較的安めなのですが、
品揃えが思ったほど日本とは変わ
らず、特に欲しいと思うものはあり
ませんでした。
なにかどうしても欲しいものがあっ
たら、一日食事を抜いても仕方な
いかなと思っていたので少し安心
しましたし、思いを残すこともなく
なりました。
最後の日はコンサートが夜にふた
つありますが、昼には時間があり
ました。
特に行きたいところはなかったの
ですが、浮んできたのは一昨日
行ったシオン教会の姿でした。
地下鉄とトラムを乗り継ぎ到着す
ると、この日は市の職員かボランテ
ィアかは分かりませんが、入り口に
緑のジャケットを羽織った男の人
がいます。
「入っていいか?」と聴くと「OK!」
と言うので中に進みます。
装飾は少なく、シンプルですが静
かで、澄んだ気が流れています。
何事もなかったのではなく、幾多
の出来事と時間の経過が育んだ
芯の強さと動かない視点を感じ
ます。
ステンドグラスから感じる外の陽の
光も、内部までは届いていません。
しかし、自らが光となろうとした決
意が結晶しています。
私にはこれで充分でした。
外にでると大きな雲がダイナミック
にベルリンの空を渡っていきます。
私には厳しかったベルリンですが、
最後にやっと微笑んでくれたよう
でした。


ベルリンの青い空 その9
ふたつのコンサート
今回ベルリンに行くことを決めた
理由の最大のものは、どうしても
聴きたいと思っていたコンサートが
二つもみられるということでした。
それも同じ日に重なっています。
一時間の間隔はありますが、電車
では乗っているだけで1時間10分
かかり、乗り継ぎが悪ければ1時
間半かかるでしょう。
当初はタクシーを飛ばして40分で
着くというシナリオを想定していた
のですが、現金もなく、カードも使
えない状況ではどうしようもありま
せん。
どちらかを犠牲にしなければと覚
悟を決めながら、最初のコンサー
トの地ノイエンハーゲンへ向かい
ました。
私は室内楽が好きです。
微妙なニュアンスやひとりひとりの
創意や工夫がそのまま音楽に反
映されます。
その違いに悦びをみいだします。
CDで聴くライプチッヒ四重奏団は
切れば血のでるような緊迫感のあ
る演奏で、ライブではどこまでやっ
てくれるのかとても楽しみにしてい
ました。
電車で30分も走るともうすっかり
農業地帯です。
広々とした畑の間に点々と家がみ
えます。
駅を降りても商業施設は2件のレ
ストランのような、日本でいえば居
酒屋のような雰囲気の店があるだ
けです。
駅から歩いて5分ほどあるホール
は赤と白のモダンな雰囲気で、こ
の地区の文化の象徴なのだと感じ
ました。
中に入るとすっかりお喋りの花が
咲いています。
席に着くと入ってくる人たち全員が
知り合いのようで、握手と、キスと、
抱擁の渦です。
その中で私はひとりポツンとしてい
ますが、向こうも何も気にしていな
いので、気楽にしていられます。
ブザーが鳴り、照明が落ちてもま
だお喋りはやまず、団員がでてき
てやっと静かになりました。
もう少し若いイメージを持っていま
したが、腹のでた立派なおっさん
たちでした。
最初はモーツァルト、次にドボル
ザークと有名曲が続きますが、い
っこうに乗れません。
形は一応整ってはいるものの覇気
がまったく感じられません。
休憩をはさんで後半はブラームス
の予定です。
演奏が終わるとまわりの人たちは
全員が一斉にロビーに向かい、ま
たワインとお茶とお喋りの洪水。
これはもう駄目だと諦め、ひとり会
場を後にしました。
彼らの楽しみをどうこう言うつもりは
ありませんが、こういうエンターテ
イメントは私には芸術とは感じられ
ません。
早く出たおかげで、次の会場の
ベルリン・フィルハーモニアには
時間前に着くことができました。
複雑な作りの会場なのですが、係
りの人が要所に立って丁寧に教え
てくれます。
洗練された物腰と訓練された的確
さで気持ちよく席に着けました。
同じベルリン市内とは思えないよう
な雰囲気の差です。
ベルリンフィルの下部組織に属す
る若い演奏家たちによる現代音楽
で、指揮は常任のサイモン・ラトル。
間違いなく現在最も才能にあふれ
た指揮者です。
抜群のリズム感と優れた色彩感覚、
そしてそれを伝達する才能をあわ
せもっています。
演奏は本当に素晴らしいものでし
た。
ラトルは明確に場を変えるような
強い指示はだしませんでした。
何の修正もなしに音楽は立ち上が
り、歌いだします。
音楽の神・ミューズが降り立ってい
ます。
余程の練習をつみ、そしてもって
生まれた才能ももつ人たちなのだ
と感じます。
ただラトルの背中はひどく疲れて
みえました。
今日はベルリン・フィルの正規の
演奏会の後の二度目のコンサート
だというせいもあるかもしれません。
けれど私にはベルリン・フィルのシ
ェフという位置の重責があるように
思います。
演奏する団員たちだけでなく、多
くのスタッフや、愛好家たちにまで
良質の音楽と夢とプライドと豊かさ
を保証しなければなりません。
前任者のアバドも病を得て、退任
しました。
ラトルは早めの決断をし、ロンドン
交響楽団の常任に移るそうです。
ロンドンからベルリンに来たアバド、
ベルリンからロンドンいくラトル。
因縁のようなものを感じますが、こ
れからの活躍を願わずにはいられ
ません。
それにしても欲張ってふたつのコ
ンサートのチケットを手に入れて
おいて本当に良かったと思いまし
た。
深夜のコンサートが終わってホテ
ルに帰るとパンが3枚とチーズが3
切れ、萌が置いていったバナナが
一本残っています。
パン1枚とバナナを出発の日の朝
食にとっておいて、パン2枚とチー
ズ2切れ、最初の日に買ってあっ
た残りのフルーツ入りの甘いビー
ルを開けて、ベルリン最後の夜を
静かに過ごしました。
無ければ無いでなんとかなって、
それなりに楽しめるものです。

ベルリンの青い空 その10
空港に見るお国柄
日本からドイツへの移動はオラン
ダのKLM航空でした。
そして帰りはスペインのイベリア航
空です。
海外渡航暦の少ない私ですが、
違う国を経由することでパスポート
に押された印が一度でかなり増え
ました。
そして違う国の空港で、その国の
お国柄が感じられ興味を覚える
ことが多くありました。
オランダでの経由地アムステルダ
ム・スキポール空港でまず驚かさ
れたのはトイレです。
小便器が壁から斜めに突き出た
壺のような形のものです。
そして注ぎ込むように用をたせば、
こぼしたり周りを汚したりしないよう
な極めて合理的なものです。
問題なのはその高さです。
私は身長178cmで日本人としては
大きいほうですが、その私でやっ
とちょうど位の高さです。
背の高いオランダ人用にできてい
るのでしょう。
背の低い人はつま先立ちになるか、
上を向けて用を足さなければなら
ないという、かなり厳しい状況に
おちいります。
連載の最初にも書きましたが、チ
ケットにゲート番号の記入がなく、
電光掲示板の案内もなかったた
め、飛行機に乗り遅れそうになり
ました。
何人かの現地のスタッフに聞くと
みな親切に答えてくれるのですが
解決策は見つかりませんでした。
KLMのオフィスで交渉した人も
何箇所かに電話してもらちがあか
ず、最後に日本人スタッフに電話
がつながりました。
結局この人が飛行機に直接電話
して止めてくれたようです。
今までの人たちはきっと真面目に
マニュアル通りに組織の縦の情報
確認しかしていなかったのでしょう。
日本人の女性スタッフは多分トラ
ブルの解決が仕事で横との関係
もとれたのだろうと想像しています。
オランダ人の愛想がよく真面目で
すが、決して自分の責任の範疇を
越えない堅実な気風を感じました。
他の職分を侵しませんが、リスクを
とらず融通も利かないのです。
このスタッフには本当に感謝して
います。
声を聴くとだいたい誰だか分かる
私ですが、話し方や声が晴屋の
お客さんととても似ていたので、
思わず顔まで思い浮かべてしま
いました。
帰りのイベリア航空は朝7時半の
出発です。
日本人の常識として2時間前には
空港に着いていなければと思い、
5時にはベルリン・テーゲル空港
のイベリア航空のカウンターに到
着しました。
ところが二、三人が椅子に腰掛け
ているだけで、明りも消えたままで
す。
5時半になってやっとスタッフが
現れ、もうすこしで始めるからと言
いました。
列も作らずに人が集りはじめます。
手続きをすませるとカウンターの
横に簡素なアルミのドアがあって、
そこを通るといきなり出国審査と
荷物と身体の検査、そしてその
すぐ先に搭乗ゲートがあります。
なんというシンプルさ。
最低限の動線と手間ですむ合理
性はさすがドイツです。
スペインのマドリード空港は意外に
広く、乗り換えのゲートまで23分
と書いてあります。
表示にしたがってひたすら歩くと、
今度はいきなり電車に乗り、10
分ほども走ったでしょうか。
着いたホームからエスカレーター
を上がるとそこがスペインの出国
審査でかなり混みあっています。
左の方しか開いていなかったのが、
今度は右も開きはじめると、みな
列やロープなど無視していっせい
にそちらに向かいます。
ドイツや日本では見られない光景
です。
次は私の番になった時、後ろから
優先レーンを通ってきた車椅子の
人がきました。
「どうぞ」と先に通して、次に窓口
に私が向かいました。
パスポートを開け、チケットを見せ
ますが、ろくに見ずにスタンプを
押して、もういい行けという仕草で
す。
その間、約2秒。
写真くらいはもしかしたら見たかも
しれませんが、名前やチケットの
確認はできなかったでしょう。
日本人みたいだからまず大丈夫
そうとか、さっきの車椅子を先に通
した様子を見ていたということがあ
るかもしれませんが、日本だったら
確認する振りくらいはするでしょう。
そんなこともしないおおらかさに、
スペインがすこし感じられました。

ベルリンの青い空 その11
画面の向こうにあるもの
帰りのイベリア航空の機体は比較
的新しいようです。
それぞれの椅子にUSBの端子が
付いていてインターネットに接続
もできますし、液晶ディスプレイで
は映画やゲームが楽しめます。
ほとんど全員が画面を見ている中、
私はなぜか見る気がしません。
「ハリーポッター」の最新作や「ドク
ター・ストレンジ」など見ればそれ
なりに楽しいのでしょうが、その世
界に入りたくないと感じていました。
眠るでもなく眼をつぶっていると、
ベルリンの街の様子が浮んできて、
まだそこにいるような気がします。
街の名前、音、空気感、教会のた
たずまいなどのイメージが流れて
いきます。
ベルリンは私にとって憧れの地で
はないのですが、それでもそこに
なにか魂のつながりができてしま
ったように感じます。
こうした感覚は20年前にもありまし
た。
屋久島に行ったときです。
そのときは帰ってきても、まだ島に
いるような感覚に陥ります。
「あれ、僕は屋久島にいるはずな
のにどうしてここにいるんだろう」
と何度も思い、それは一月以上も
続きました。
そして樹を見ていると、それが公
園の小さな植木であっても、気持
が通じるような気がしました。
そういえばあの時も、精神的にも
肉体的にもつらい旅でした。
義理の父と実の父が相次いで病
をえて、おくりました。
腰も痛く疲れて、男の厄年の後、
何をやっても今まで通りできませ
んでした。
そんな暗く重たいものを屋久島に
持ち込んでいました。
縄文杉へは往復10時間ほどの行
程です。
自然の豊かさ、特に苔の美しさに
心をうばわれます。
時折何かの気配がして振り返りま
すが、誰も、何もありません。
ふり続ける小雨のなか、合羽の下
の衣類も汗でぬれます。
帰り道になると下りで歩くのが楽に
なるはずが足が重くなりはじめ、間
もなく古傷の膝が痛み始めました。
硬い枕木の上を歩幅が合わない
状態で前に進みますがついに足
をひきずってしか歩けなくなりまし
た。
なんとか宿までたどりつきましたが、
たまっていた疲れが一気に噴出し、
泥のように眠ります。
翌日からは足も痛く、眠る間にす
こし島を見て歩きました。
そんなつらい時間を過ごしたはず
なのに東京に帰って、屋久島に
魂を忘れてきたと感じたのです。
魂をはじめて自覚したときでした。
今回も歳をとった中ですが、体力
と気力の限界までいたりました。
私のような迷いの多い凡人は,そ
こまでいかないと見えないもの、
感じられないものがあるのでしょう。
ほぼ一週間、テレビにもパソコン
にも向かいませんでした。
そのためか、機内で全員が画面に
向かう様子に気味の悪さを感じま
す。
魂を奪われていくようです。
私たちに届けられる膨大な情報、
特に映像には驚くほど大きな情報
量が含まれています。
まだ実体の無い架空の情報に形
と命を吹き込むとき、魂の糧がす
こしづつすり減っていきます。
人間は何かを知ることでそれを
自分たちのものとし、反対にそれ
に縛られ、所有されます。
私たちはパソコンやテレビ、マスコ
ミなどからまったく無縁では生きて
いけません。
そうして私たちは群れの一員とな
り、生きる意味を薄めていきます。
魂の感覚は伝えられるものではあ
りませんが、何かに心を奪われて
魂を失ったり、腐らせてしまった人
に、私たちは嫌な感じ、不潔なも
のを見る感じがします。
誰でも持っているけれど、ふだん
は意識することのない感覚です。
今回ベルリンでまたこの感覚を強
く自覚しました。
「ベルリンは楽しかった?」と聞か
れたら、なんと答えるでしょうか。
楽しいとも、楽しくないとも感じま
せんが、そこで短い時間でも切実
に抜き差しならずにいました。
ただあの場所に、あの教会がある
限りは、ベルリンは私の魂の故郷
のひとつだと言えます。
ここまで書き終えて、やっとベルリ
ンに行ってよかったと思えるように
なりました。
長い間のおつきあい、ありがとうご
ざいました。

ベルリンの青い空 番外その1
ベルリンガイドブック
中村真人著 ダイヤモンド社
今回ベルリン行きでもっとも役立
った情報源です。
著者はベルリン在住の中村真人
さん。
生活感と芸術性、政治的背景な
どすべてを含みながら、ベルリン
の情景と見所をさりげなく伝えま
す。
娘のドイツ在住の萌もこれをイチ
オシしていました。
ただしもう絶版となっています。
定価1600円なのにアマゾンでは、
中古で2400円程度、新品には10
倍の16000円前後の価格が付い
ています。
どこかで安くみかけたら、手に入
れることをおすすめしたい名著
です。
改訂版の再発が望まれます。

 

新装改訂版が出版されているのを

発見しました。

ダイヤモンド・ビッグ社で税込み

1760円です。

ベルリンの街を歩いてるような

気分が楽しめると思います。

 

ベルリンの青い空 その12
日々の疲れ,旅の疲れ 前篇
ベルリンから帰って間もなく、自転
車が壊れてしまいました.
強風で倒れたところに,車が通っ
たようです.
後輪と荷台が変形して,走るとふ
らつきます.
少し離れた住宅街に,おじいさん
2人でやっている自転車屋さんが
あります.
新品はひとつも置いていないので
ありったけ地味なのですが,直す
のが好きで,手間を惜しまない実
直な雰囲気が伝わる好感のもてる
店です。
持っていきましたが,相当の手間
と時間がかかるようです.
数台並んでいる中古品の中に私
の目をひくものがあります.
つぎはぎの部品で色が違ってい
たりするのですが,ベースはブリジ
ストンの高級品です.
15000円と安い新車が買える価
格ですが,試乗するととても乗り
やすく,力強く安定して走ります.
少年時代に自転車で遠出してい
た時の感覚を思い出す,乗る楽し
さがあります.
修理費用と大差ないので,迷わず
買うことを決めました.
それから,なにかと自転車に乗る
機会が増えました.
ベルリンでも自転車で移動して街
並みを楽しもうと思っていたので
すが、カードが使えず断念した悔
しさもあるかもしれません。
けれどある日,ふくらはぎの痛み
が自転車のせいだと気づきました.
もう還暦をとうに過ぎているので,
少し無理をすれば当然のことなの
ですが,こうした原因のはっきりと
した疲れは,最近の私にとっては
極めて稀で、新鮮です.
今のこの疲労感が,ここ最近の忙
しさのせいなのか,長い間に蓄積
したものなのか,天候の不順によ
るものなのか,あるいは年齢のせ
いなのか,なかなか判別できない
ことが多いのです。
真綿でしめつけられるように,理
由もわからず自由がききません。
今回ベルリンに行く前もとても疲
れていました.
日常の疲れと行くまでの準備もあ
りましたが,決定的ダメージは飛
行機のチケットの買い間違いに気
づいたときです.
出発の2日前にいろいろチェック
していると,帰りの日程が1日違っ
ていたのです.
最後の日,日曜の朝市を少しで
も長い時間見ていこうとギリギリ遅
いフライトを選んだところ,経由地
のアムステルダムでほぼ一日待っ
てからの乗り換えに変更になって
いたのを気づかずに予約してしま
ったのです.
一瞬で頭の中が真っ白になりまし
た.
23時間何もできず、ただ空港で
缶詰状態になっているには耐えら
れそうにありません。
一応,旅行業者に問い合わせて
みましたが,まとめての予約なの
で帰りの便をキャンセルすると全
部が無効になってしまいます.
事前予約でない正規のチケットは
片道30万円くらいします.
一度は縁がなかったことにしようと
諦めましたが,予約したコンサート
には未練があります.
ため息をつきながらネットを調べ
ていると,人気の無いイベリア航
空のものがほとんど同じ日程で片
道11万円ほどで売り出されていま
した.
最初買ったチケットが往復12万円
ほどだったので約2倍ですが,相
場からするとかなり安いものです.
これでスピーカーを売った代金だ
けではすまなくなりますが,せっか
くの機会を逃すことはないと予約
しました.
この時素直にあきらめていれば,
テーゲル空港で走り回って疲れる
ことも,お金がなくて切り詰めた暮
らしをすることもありませんでした.
そしてこれも私のミスなのですが,
バスタブの無いシャワーのみの
部屋を予約してしまいました.
空港での必死の走りで足はこわ
ばって,一歩ごとに痛みがはしり
ましたが,お風呂で身体を休める
こともできません.
カードが使えず部屋の交換もで
きず,一人寒いベルリンの一室
でじっと耐えるしかありません.
一体何のために俺はここにいるの
だろうと自問しますが,答えもあり
ませんでした.
レコードが欲しいとか,買いたい
ボールペンがあるという欲もありま
すが,達成することもできません.
多くの限界がありますが,何も強
制はされてはいません.
ただ,裸の感性の声に従ってここ
に静かに、無になっていることしか
できません.
それが疲労の中,シオン教会との
出会いにつながっていきます.
望んでいたものとはまったく違い
ますが,何かの必然があって出会
う運命だったような,不思議な天の
采配があるように感じます.

 

ベルリンの青い空 その13
日々の疲れ,旅の疲れ 中篇
火曜日の空港での猛ダッシュの
疲れも金曜にはやっと少し痛み
が治まってきました.
土曜日にはもう一度シオン教会へ
いき,中に入って静かで澄んだ気
にふれることができました.
夜にふたつのコンサートがあり,
日曜の早朝には帰国です.
一度スペインに行き,ヨーロッパを
西から東に渡って日本に向かうの
で時間は余計にかかります.
到着は月曜の朝です.
昼には晴屋に到着し,顛末を大
雑把に報告して,さっそく配達に
出かけます.
私は自分の仕事をだれかに任せ
るのを好きではありません.
他の人がしたことが気にいらない
というのではなく,自分のために
誰かに犠牲を強いるという感覚が
自分で許せないのです.
決してやさしいのではなく,押し付
けがましいので,周囲にとっても
疲れる性格です.
次の日からはまたいつもの日常が
始まります.
ベルリンに行ってシオン教会に深
い感銘をうけたからいって、日常
の何かが変わるわけではありませ
ん。
日々の疲れに,旅の移動の疲れ
が重なり,いなかった間の残務整
理をし,働かない頭と動かない身
体と向き合いながら,時の経過を
待ちます.
そんな状態の中,胸の中に残る
イメージが消えないうちに,どうして
も文章にしないと気がすみません.
身体に残っている感覚を開放す
るのに,他の方法がないのです。
書かないと、腐って朽ち果てます。
睡眠時間を削り,空いている時間
をすべて使って,あいまいにうつ
ろう感覚に形を与えていきます.
およそ2週間で書き上げました.
1から11まで順に書いていきます
が,7の「シオン教会」だけは残し
ておきました.
とって置いて階段を登りつめた最
後の一段としました。
やっと一息ついて,周囲を見渡し
ます.
もう4月の中旬ですが,5月の末に
は店を手伝っている息子の洸の
一週間ほどのアメリカ行きが決ま
っています.
結衣がいない中,ただでさえロー
テーションが苦しいためにかなり
のハードスケジュールになりそう
です.
そして頭の中にあったのは5月の
連休中に予定していた店の改装
の計画です.
表の看板を変えたのがかなりの
好評で,その流れで店の棚を改
良しようというものです.
私は内装の仕事の経験があり,頭
の中に設計図を作って,完成させ
ればどういう効果があり,それには
どれだけの手間と時間がかかるか
おおよそ想像することができます.
新しい棚をふたつ作り,ふたつの
棚を改造します.
誰かに頼める仕事と私にしか出来
ないことを考えあわせ,相当のエ
ネルギーが必要で,私だけでなく
他のメンバーも疲れてしまうでしょ
う.
「今回延期しよう」と申し出ますが,
おカミの答えは「ダメ」です.
仕方なくイメージを絵にしたり,模
型を作ったりしますが,困難さは
ますばかりです.
スケジュールの過密さに根をあげ
て再度延期を申し入れますが,
お許しは出ません.
私は「ハウル」と名づけられた棚を
愛してもいました.
ゴタゴタと雑多なのに極めて合理
的でもあり,多くの機能がありなが
ら,暖かく豊かな雰囲気があります.
晴屋の象徴とも思ってきました.
これを換えるからには,それを越
すものでなければなりません.
そうでなければハウルに申し訳な
いのです.
連休までの2週間の間,今度は空
いてる時間をすべて棚作りに注ぎ
ました.
連休の4日間ではとても間にあわ
ないので,事前にいくつかの部分
を組み立てておき,塗装もすませ
ておいて,休みの間に店の中で
組み立てる計画です.
こういう仕事は基本部分より,細部
の仕上げに時間がかかります.
それを疎かにすると,結果は必ず
失敗します.
連休の初日,手伝いに来た洸が
いきなりハウルの解体をします.
あっという間にバラバラになりまし
た.
「自分じゃ、できないだろう」と言い
ます.
確かに私がやっていたら気持が
重くなって,それだけで疲れてい
たでしょう.
完成できなかったかもしれません.
最初の一日で基本構造は終わり,
残り3日で細部を仕上げました.
出来は非常によく,見やすく,明
るく,広くなったとお客さんたちに
も好評です.
しかし達成感はあっても、疲れは
身に確実に残ります.

 

ベルリンの青い空 その14
日々の疲れ,旅の疲れ 後編
店の棚の改装はとても評判がよく、
やりがいがありました。
手直しをしながら、使い勝手をよく
していきます。
その流れのまま、洸のアメリカ行き
の時期となり、慌しく時が過ぎます。
こんな時、店の裏にある1.5坪の
在庫用の冷蔵庫が壊れます。
毎日大きな氷を買いにいったりと
対応に追われます。
そして疲れは蓄積し、目まいも続
き、いよいよ身動きがとれません。
合間をみながら、身体の修復にも
とりかかります。
私の疲れの自覚は右の首と手首
からはじまります。
強張って、痛みが走ります。
腕の疲労、内臓の疲れ、感情の
抑制などと関係が深く、私の日常
を表現しています。
次には左の腕と首に異常感がお
き、呼吸器や目、迷走神経的の疲
れと関って、もう少し根の深い長く
尾をひく身体の主張です。
要所になる場所にじっと手を押し
あて、痛みや異常感に向き合い
ながら、ほどけていくのを待ちます。
右と左の系統を交互に繰り返しな
がら、薄皮をむくようにすこしづつ
疲労を抜いていきます。
けれど年とともに回復が難しくな
り、時間もかかり、弛む度合いも
少なくなっていきます。
疲労の蓄積に追いつかないので
す。
特に視力の劣化が大きく、計算用
紙の数字を追いかけるのがつらく
なります。
パソコン、スマホ、テレビ、活字な
どの他、日常生活でも視覚で確認
しなければならないものが多くあ
り、眼が休まる暇がありません。
日光や蛍光灯の紫外線も追い撃
ちをかけます。
眼が疲れると、全身がだるくなり、
なにごとも億劫になります。
迷走神経もいっしょに強張って、
呼吸器にも負担がかかります。
酸素がないとすぐ死んでしまう私
たちですから、呼吸器が疲れる
と、ぐったりして行動力がなくなり、
無気力になります。
そして妄想にとらわれやすくなり、
非現実的でありえないものにしか
興味が持てなくなります。
それがさらに進行すると、咳や喘
息だけでなく、あまりものを真剣に
考えない私でも欝状態になります。
また呼吸器が疲れると寝ても疲労
が抜けないので、睡眠も浅くなり、
余計に疲れが蓄積します。
また眼と肝臓の働きは密接な関連
があります。
肝臓は身体だけでなく、感情の毒
も排泄する働きがあります。
それが滞るとイライラし、切れやす
くなります。
現代に生きる私たちの不安や焦
燥、無気力や非現実への逃避と目
の疲れは深いかかわりがあります。
音や臭いは本能と多く結びついて
います。
見ることは客観的でいつも判断の
材料となり、知性に訴えます。
身体の働きを無視して暴走しがち
な私のつたなく生意気な知性は、
余計に眼を使うことでその他の疲
れをごまかし、乗り切ろうとします。
ゲームやテレビにその場の安らぎ
を求めたくなり、疲労はよりひどく
なります。
若いときなら行くところまで行けば、
風邪をひいたり他にエネルギーを
転換したりしてカタルシスをえて、
また正常にもどれますが、年をとっ
てくるとそれも出来ません。
私もこの悪循環から脱出を図りま
すが、いったんは抜け出せても、
またすぐに戻ってしまいます。
出口のない疲労感が私を包みま
す。
今回ベルリンに行って疲労感はつ
のりましたが、いくつかの手がか
りと手助けが残りました。
自転車での素朴な疲労感は自分
の原点に立ち返るのに役立ちます。
道端の草木に心を惹かれ、深夜
の静寂の中の川のせせらぎに耳
を澄ませ、風の中に季節を感じま
す。
自動車の移動ではえられない生き
る悦びです。
帰りの飛行機でただじっと眼を閉
じている時間を多くもちました。
眼を瞑り自分の内面と静かに向き
合う機会が増えます。
身体の奥に暖かで静かなものが
ひそかに燃えているのを感じます。
魂を養うための時です。
疲労感は変わらずありますが、そ
れとも向き合うようになり、ただその
場をやりすごす、とりあえずの逃避
が少し減りました。
フリーセルというカードゲームや
深夜のディスカバリー・チャンネル
を見る時間が少なくなります。
旅費の穴埋めにオークションに手
持ちのオーディオ機器を出品しま
した。
返済もできましたが、同時期に出
品されていたドイツで買いたかっ
たものたちも手に入りました。
何も自分用におみやげを買わな
かった私に、手にしっくりと馴染む
E+M(イーマン)のボールペンと、
何年も捜し続けていた希少なLPは
心の大きなよりどころとなります。
物だけでなく、いのちを燃やす感
覚も少し取り戻しました。
ドイツで一番口にあった食べ物は、
トルコ料理のケバブです。
香ばしく焼いたパンの間に野菜や
肉がたっぷり入り、ピリ辛で深みの
あるソースがあえてあります。
今までその味が自分で出せなかっ
たのですが、今回ベルリンでクミン
というスパイスがポイントなのだと
分かりました。
味覚と料理の範囲が広がり、作る
楽しみが増えました。
当初は疲れしか感じなかったベル
リンへの旅でしたが、結局多くのも
のを与えてくれました。
幾多の悲惨を経ながらそれでも
何かを信じて前に進み続けるベル
リンの街。
私の身勝手な行動を助けてくれ
た人たち。
こんな文章に付き合っていただい
た多くの方々に、今は感謝の気持
でいっぱいです。
ベルリンでの機会やみなさんのご
支援なしには、自分とここまで向か
い合うことはできせんでした。
歳をとり、体力や気力は衰えても、
原点に立ち返り、まだ他のものを育
てられる可能性を見いだしました。
突然、WindowsXPのデスクトップ・
パソコンが末期的状態となりました。
ノートパソコンにデータを移して、
Windows10の操作を覚えなくては
なりません。
新しいことが頭に入らない私として
は高いハードルです。
これからの季節は、さつま芋や里芋、
ぶどうやりんごなども入ってきます。
今の棚では置ききれないので、改
造が必要です。
お盆休みの間の宿題です。
課題や問題がいつも目の前に山積
している私の日常。
今回のベルリンへの旅を経験して、
正直言ってまた海外旅行に行く気
力はもうありません。
あの緊張の連続に再度耐えていく
自信はありません・
それでも、日常の雑務を仕方なしに
ではなく、新鮮に淡々と取りくむ意
欲は湧いてきました。
雑で大雑把な私ですが、年をとっ
て少しは丁寧に生きられるかもしれ
ません。
限界を知りながらも、その中でやれ
ることはまだあるようです。
ベルリンはそんなことも教えてくれ
ました。

 

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